第三百四十六話 中秋の月
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
その日の夕暮れ。
西の空が赤く染まり
城下町の家々から夕餉の支度をする煙が細く立ち上っていた。
館の庭では、昼間の暑さがすっかり引いている。
伊東祐兵は縁側に座り、暮れていく空を眺めていた。
隣には島津豊久がいる。
小春と黒猫も二人の足元で寄り添っていた。
「今夜は中秋の名月ですな」
豊久が空を見上げながら言った。
「そうだったな」
祐兵も空を見上げる。
まだ月は姿を見せていない。
だが、東の空はすでに薄く明るくなり始めていた。
「せっかくだ。今夜は庭で月を眺めよう」
「それはよいですな」
豊久が嬉しそうに頷いた。
二人は夕餉を早めに済ませると、庭へ出た。
庭の一角にござを敷き、その上に座る。
小春と黒猫も、当然のように二人のそばへついてきた。
庭には秋の虫の声が響いている。
草むらから聞こえる虫の声が、夜の静けさをいっそう深くしていた。
「涼しくなりましたな」
「昼間はまだ暑いが、夜になると秋を感じるな」
祐兵はそう言って、庭を見渡した。
やがて東の空から、丸い月がゆっくりと昇ってきた。
雲の間から現れた月は、夜空の中で静かに輝いている。
小春が月を見上げた。
黒猫も同じように顔を上げる。
「二匹とも月を見ていますな」
「何を思っているのだろうな」
祐兵が笑う。
小春は月から目を離さず、じっと座っている。
黒猫もその隣で丸くなった。
月明かりが二匹の毛並みを淡く照らしていた。
豊久はしばらく月を眺めた後、静かに息を吐いた。
「こうして月を見るのも、久しぶりですな」
「そうだな。普段は夜になると、すぐに休んでしまうからな」
「今夜はゆっくり眺めるとしましょう」
「そうしよう」
二人は並んで月を眺めた。
風が庭を通り抜ける。
すすきの穂が月明かりの中で揺れていた。
祐兵は、その穂先を眺めながら呟いた。
「月は昔から変わらないな」
「ですな」
「人の暮らしは変わっていく。だが、こうして月は毎年同じように空へ昇る」
豊久は黙って月を見上げた。
「そう考えると、不思議なものですな」
「そうだな」
しばらく二人は言葉を交わさなかった。
虫の声だけが庭に響いている。
小春が祐兵の膝へ前足をかけた。
「どうした?」
祐兵が小春の頭を撫でる。
小春は気持ちよさそうに目を細めた。
黒猫もその隣へ寄り添う。
「月よりも、こちらのほうが気になるようですな」
豊久が笑った。
「それもよいだろう」
祐兵も笑う。
月を眺めるだけが中秋の楽しみではない。
こうして大切な者たちと同じ場所にいて、同じ月を眺められる。
それだけで十分だった。
二人は用意していた団子を少しずつ口にした。
小春と黒猫にも、猫が食べられるものを少し分けてやる。
二匹は嬉しそうに食べた。
「うまいな」
「ええ。月を眺めながら食べると、いつもより美味しく感じますな」
「そうかもしれないな」
祐兵は月を見上げた。
丸い月が、静かな光を庭へ落としている。
病で苦しんだ日々もあった。
それでも今は、こうして縁側の庭で月を眺めている。
体も少しずつ元に戻ってきた。
歩くこともできる。
軽い鍛錬もできる。
そして今日は、何の心配もせず月を眺めている。
「豊久」
「はい」
「こういう夜は、何もせず過ごすのも悪くないな」
「そうですな。月を眺めているだけで、心が静かになります」
「そうだな」
秋の夜は、ゆっくりと更けていく。
月は空高く昇り、庭を明るく照らしていた。
小春と黒猫は寄り添ったまま、いつしか眠っている。
二人もその姿を眺めながら、静かに笑った。
「そろそろ戻るか」
「そうしましょう」
二人はござを片づけ、小春と黒猫を連れて館へ戻った。
それでも、しばらくすると祐兵は振り返った。
庭の向こうには、まだ中秋の月が輝いている。
「良い月だったな」
「ええ」
豊久も振り返る。
二人と二匹は、もう一度だけ月を眺めた。
秋の夜空に浮かぶ丸い月。
その静かな光に包まれながら、穏やかな一日は終わっていった。




