第三百四十五話 いつもの道
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
朝の空気には、秋の涼しさが混じっていた。
庭の木々を揺らす風も、少し前より冷たく感じられる。
伊東祐兵は、館の縁側に腰を下ろし
しばらく庭を眺めていた。
その足元では、小春と黒猫が並んで座っている。
二匹とも朝の空気を楽しむように、静かに庭を見回していた。
「今日は、いつもの道を歩いてみるか」
祐兵が言うと、隣にいた島津豊久が頷いた。
「それがよいですな。昨日の鍛錬も軽いものでしたし、今日は歩くくらいがちょうどよいでしょう」
「そうだな。無理をする必要もない」
祐兵は立ち上がった。
以前なら、朝から鍛錬を始めていたところだ。
だが、今は体が戻ってきたことを感じながら
少しずつ元の生活へ戻していくことにしていた。
小春も立ち上がる。
黒猫もすぐにその隣へ寄った。
二人と二匹は、館を出た。
城下町へ向かう道は、もう何度も歩いている。
見慣れた道だった。
道端には秋の草が生え、ところどころに小さな花が咲いている。
朝の光を受けた葉には露が残り、風が吹くたびに細かな雫が揺れた。
「いつもの道というのも、よいものですな」
豊久が周囲を眺めながら言った。
「そうだな。何度歩いても、その時々で見えるものが違う」
祐兵はゆっくり歩きながら答えた。
小春は二人の少し前を歩いていた。
黒猫もその横を歩いている。
時折、小春が立ち止まると、黒猫も足を止める。
何か気になるものを見つけたらしい。
二匹は道端の草むらを覗き込み、それから何事もなかったように歩き出した。
「二匹とも、今日はずいぶん楽しそうですな」
「いつもの道だからこそ、落ち着くのかもしれないな」
「なるほど」
豊久は笑った。
城下町へ入ると、朝の支度をする人々の姿が見え始めた。
店先を掃く者。
荷物を運ぶ者。
井戸から水を汲む者。
二人の姿に気づいた町人が、声をかけてくる。
「おはようございます」
「おはよう」
祐兵も穏やかに返した。
以前と変わらない朝の風景だった。
それが、今の祐兵には何より心地よかった。
しばらく歩くと、以前にも立ち寄った小さな水路が見えてきた。
祐兵は足を止めた。
「少し休もう」
「そうしましょう」
二人は水路のそばに腰を下ろした。
小春と黒猫も並んで座り、水の流れを眺めている。
さらさらと流れる水の音。
遠くから聞こえる人の声。
風に揺れる草の音。
どれも特別なものではない。
けれど、こうして何事もなく過ごせることが
祐兵には嬉しかった。
「腹の具合はどうですか」
豊久が尋ねる。
「もう問題ない。昨日の鍛錬の後も、何ともなかった」
「それはよかったですな」
「ただ、薬師殿の言いつけは守るつもりだ。急に元へ戻す必要はないからな」
「そのほうがよいでしょう」
豊久は頷いた。
小春が祐兵の膝に前足をかける。
「どうした?」
祐兵が撫でると、小春は気持ちよさそうに目を細めた。
黒猫もその隣で丸くなっている。
「小春殿も、祐兵殿の具合を気にしていたのでしょうな」
「そうかもしれないな」
祐兵は小春の頭をゆっくり撫でた。
「心配をかけたな」
小春は返事をするように、小さく鳴いた。
その声を聞いて、豊久が笑う。
「元気になったことを喜んでいるようですな」
「そうなら嬉しいな」
しばらく休んだ後、二人は再び歩き始めた。
水路を離れ、いつもの道を戻っていく。
途中で、以前から顔見知りの犬にも出会った。
犬は二人の姿を見ると、尻尾を振りながら近づいてくる。
小春と黒猫も犬のそばへ寄った。
三匹はしばらく互いの匂いを確かめ、それから仲良く並んで歩き始めた。
「すっかり仲良くなりましたな」
「そうだな」
祐兵は目を細めた。
犬はしばらく一緒に歩いた後、家の前で立ち止まった。
小春と黒猫もそこで足を止める。
「またな」
祐兵が声をかけると、犬は尻尾を振った。
二人と二匹は、そのまま館へ向かった。
帰り道も急ぐことはなかった。
祐兵の歩みは以前と変わらないほど安定している。
腹の痛みもない。
体には、少し歩いた心地よい疲れだけが残っていた。
館へ戻ると、祐兵は縁側に腰を下ろした。
豊久も隣に座る。
小春と黒猫は二人の足元で寄り添っていた。
「やはり、いつもの散歩はよいな」
祐兵が呟く。
「ですな。特別なことをしなくても、こうして歩くだけで十分楽しいものです」
「そうだな」
庭を秋の風が吹き抜ける。
祐兵はその風を感じながら、ゆっくり息を吐いた。
病で寝込んでいた日々が、少しずつ遠くなっている。
鍛錬もできるようになった。
散歩も以前と変わらず楽しめるようになった。
焦る必要はない。
今日のような日を重ねていけば、それでよかった。
小春が祐兵の足元へ寄り、黒猫もその隣へ座る。
二人と二匹は、しばらく何も言わず庭を眺めていた。
秋の空は高く、雲はゆっくり流れている。
いつもの道。
いつもの景色。
いつもの仲間。
そんな何気ない一日が、祐兵には穏やかな喜びに思えた。




