第三百四十四話 久方の鍛錬
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
翌朝。
伊東祐兵は、目覚めると身体の具合を確かめた。
腹に痛みはない。
身体も軽い。
朝餉もしっかり食べることができた。
「今日は少し動かしてみたいな」
祐兵が言うと、豊久が頷いた。
「では、薬師殿に伺いましょう」
朝餉の後、二人は馴染みの薬師を訪ねた。
これまでの体調と、昨日までの散歩について話す。
薬師は祐兵の顔色を見て、ゆっくり頷いた。
「食事も歩くことも問題がないのであれば、軽い鍛錬ならば始めてもよいでしょう」
祐兵の顔が少し明るくなった。
「本当か」
「ただし、以前と同じ鍛錬をしてはいけません。身体を慣らす程度にしてください」
「分かった」
豊久も念を押すように尋ねる。
「木刀を使ってもよろしいのですか」
「軽く振る程度ならば。ただし、疲れたり腹に違和感が出たりしたら、すぐにやめることです」
「承知しました」
館へ戻ると、祐兵は庭へ出た。
久しぶりに木刀を手に取る。
その重さが手の中に伝わってくる。
「久しぶりだな」
「無理はなさらぬように」
「分かっている」
小春と黒猫も庭へ出てきた。
二匹はいつものように一緒に行動し、庭の端から二人の様子を眺めている。
祐兵はまず、木刀を持たずに身体を動かした。
肩を回す。
腕を伸ばす。
腰をゆっくりひねる。
足を前後へ動かす。
身体のあちこちを確かめるように、ゆっくりと行う。
「問題なさそうだ」
「それでは、木刀を」
祐兵は木刀を構えた。
以前なら、ここから何度も素早く振っていた。
だが今日は違う。
頭上へ持ち上げる。
ゆっくりと振り下ろす。
一度。
二度。
三度。
「どうですか」
「大丈夫だ」
さらに数回。
一振りごとに呼吸を整える。
速さも力も抑えている。
それでも、木刀を握る感覚が戻ってくるにつれて
祐兵の表情には嬉しさが浮かんでいた。
「やはり、木刀を振るのは気持ちがよいな」
豊久も笑う。
「久しぶりの鍛錬ですからな」
「鍛錬というほどではない。身体を起こしただけだ」
「それでも、以前の祐兵殿に戻ってきたように見えます」
祐兵は少し照れたように笑った。
その時、小春が庭の草むらへ走っていった。
黒猫もすぐに後を追う。
二匹は並んで何かを探し始めた。
「二匹も何か始めたようですな」
「俺たちだけ鍛錬しているわけではないらしい」
二人は笑った。
祐兵は再び木刀を構えた。
だが、今度は三度だけ振った。
そして木刀を下ろす。
「今日はここまでにする」
豊久が頷いた。
「それがよろしいでしょう」
「もっと振れそうな気もするが」
「だからこそ、今日はここまでです」
「そうだな」
祐兵は素直に木刀を置いた。
縁側へ戻ると、温かな麦湯を飲む。
身体には心地よい疲れが残っていた。
腹に痛みはない。
息も苦しくない。
ただ、久しぶりに身体を動かしたことで、全身が少し温まっている。
小春と黒猫も二人の足元へ戻ってきた。
二匹は並んで座り、祐兵を見上げる。
「どうだった」
小春が小さく鳴く。
黒猫も尻尾を揺らした。
「よくできた、と言っているようですな」
「そうか」
祐兵は二匹の頭を撫でた。
「明日も、今日と同じくらいにしておこう」
豊久が頷く。
「少しずつ戻していくのがよいでしょう」
「ああ」
祐兵は庭を眺めた。
病で寝込んでいた日々が、ずいぶん遠く感じられる。
散歩をして。
城下を歩いて。
そして今日は、久しぶりに木刀を握った。
身体は、少しずつ元の調子を取り戻している。
焦らず、一歩ずつ。
秋の庭には、穏やかな風が吹いていた。
その風の中で、二人と二匹は静かに午後を過ごした。




