第三百四十三話 戻りゆく健やかさ
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
朝。
伊東祐兵は、いつもより早く目を覚ました。
障子の向こうから、秋の柔らかな光が差し込んでいる。
身体を起こしてみる。
昨日まで感じていたわずかな重さもない。
腹の具合も良い。
「もう、ほとんど戻ったな」
祐兵は独り言のように呟いた。
隣では豊久がまだ眠っている。
祐兵は静かに立ち上がり、庭へ出た。
すると、小春と黒猫がすぐに気づいた。
二匹は一緒に祐兵のところへやって来る。
「おはよう」
小春が足元へ寄り、黒猫もその隣に座った。
「お前たちも早いな」
二匹の頭を撫でていると、背後から声がした。
「祐兵殿、もう起きておられたのですか」
豊久が庭へ出てきた。
「ああ。今日は身体が軽い」
「それは何よりですな」
祐兵は腕を伸ばした。
肩を回してみる。
痛みもない。
身体をひねってみても、どこにも違和感はなかった。
「少し動いてみるか」
「鍛錬ですか」
「いや、まだ鍛錬ではない。身体を確かめるだけだ」
祐兵は庭をゆっくり歩いた。
昨日までの散歩よりも足取りが軽い。
庭を一周し、もう一周する。
息が乱れることもない。
小春と黒猫も二人の後をついて歩く。
「ずいぶん歩けますな」
「自分でも驚いている」
祐兵は笑った。
朝餉も、いつもの量に近いものを食べることができた。
食後も腹に痛みはない。
豊久は何度も祐兵の様子を確認していた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だ」
「先日のことがありますからな」
「それはそうだな」
祐兵は苦笑した。
昼前には、薬師も館を訪れた。
祐兵はこれまでの経過を話した。
散歩をしても疲れが残らないこと。
食事も問題なく取れていること。
腹の痛みがなくなっていること。
薬師は話を聞きながら、祐兵の顔色を確認した。
「かなり戻ってきましたな」
「そうか」
「ええ。ただ、ここで急に元の生活へ戻すのは避けたほうがよいでしょう」
豊久が頷く。
「やはり、まだ鍛錬は控えたほうがよいのですな」
「軽い運動なら、もうよいでしょう。しかし、木刀を振るような鍛錬は、もう少し様子を見たほうがよいでしょうな」
祐兵は少し残念そうな顔をした。
「分かった。もう少し待とう」
「身体が戻ってきているからこそ、ここで無理をしないことです」
「その通りだな」
薬師が帰った後、祐兵は庭を眺めた。
「もう少しだな」
「ええ」
豊久も笑う。
「ですが、ここまで戻られたのなら安心です」
小春が祐兵の足元へやって来る。
黒猫もその隣へ並ぶ。
祐兵は二匹を見下ろした。
「お前たちも心配していたのか」
小春が小さく鳴いた。
黒猫が尻尾を揺らす。
「どうやら、そうらしいですな」
豊久が笑った。
午後になると、祐兵は縁側に座って書物を開いた。
久しぶりに落ち着いて読めることが嬉しかった。
小春はその隣で丸くなり、黒猫も一緒に日向で休んでいる。
秋の風が庭を渡る。
祐兵は一頁読み終えると、ふと顔を上げた。
「明日は、もう少し身体を動かしてみるか」
豊久が隣で答える。
「薬師殿に相談してからにしましょう」
「そうだな」
焦る必要はない。
身体は確実に戻っている。
少し休み、少し歩き、少しずつ以前の生活へ戻っていけばよい。
祐兵はそう思いながら、再び書物へ目を落とした。
その足元では、小春と黒猫が寄り添っている。
静かな秋の午後だった。




