第三百四十一話 秋散歩
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
数日後の朝。
伊東祐兵は、いつものように早く目を覚ました。
腹の痛みはない。
身体の重さもなく、朝餉も以前と同じように食べられるようになっていた。
それでも祐兵は、すぐには立ち上がらなかった。
先日の薬師の言葉を思い出していた。
「もう大丈夫そうだが、勝手に鍛錬を始めるわけにはいかないな」
隣で支度をしていた豊久が振り返る。
「その通りですな。今日は薬師殿に診てもらいましょう」
「そうしよう」
朝餉を終えた後、馴染みの薬師が館を訪れた。
薬師は祐兵の顔色を見てから、腹の具合や食欲について尋ねた。
「腹の痛みはありますか」
「もうない」
「食事は?」
「普通に食べられるようになった。ただ、言われた通り、少しずつ食べている」
「身体のだるさは?」
「それもない」
薬師は頷いた。
「それならば、回復してきたようですな」
豊久が尋ねる。
「鍛錬は、もう始めてもよいのでしょうか」
薬師は首を横に振った。
「いきなり鍛錬へ戻るのはまだ早いでしょう。まずは身体を慣らすことです」
祐兵が聞く。
「何をすればよい」
「今日は館の周りを少し歩いてみるとよいでしょう。疲れを感じたら、すぐに戻ることです」
「散歩か」
「ええ。急がず、ゆっくりと」
祐兵は頷いた。
「分かった」
薬師が帰ると、豊久はさっそく外へ出る支度を始めた。
「それでは、少し歩いてみましょう」
「豊久殿は、ずいぶん嬉しそうだな」
「祐兵殿が元気になられたのですから、嬉しくもなります」
庭へ出ると、小春と黒猫がすぐに二人のところへやって来た。
二匹はいつものように一緒だった。
「お前たちも来るか」
小春が祐兵の足元へ寄り、黒猫もその隣に並ぶ。
「どうやら一緒に行くつもりですな」
「ならば、ゆっくり歩こう」
四人ではなく、二人と二匹で館の門を出る。
祐兵は普段より歩幅を小さくした。
一歩。
また一歩。
身体の様子を確かめながら、ゆっくり進む。
秋の朝の空気は涼しい。
道端には小さな草花が咲き、木々の葉も少しずつ色を変え始めている。
「どうですか」
「悪くない」
祐兵は答えた。
腹にも異変はない。
足取りも軽い。
ただ、まだ以前のように速く歩こうとは思わなかった。
小春と黒猫も二人の前を歩いたり、後ろへ戻ったりしながら、一緒に進んでいる。
やがて館の近くを流れる小さな水路へ差しかかった。
祐兵は足を止めた。
「ここで少し休もう」
「そうしましょう」
二人は道端に腰を下ろした。
小春と黒猫も並んで座る。
水の流れる音が静かに聞こえてくる。
祐兵は空を見上げた。
「こんなにゆっくり歩くのも久しぶりだな」
「鍛錬とは違う疲れがありますな」
「だが、悪くない」
祐兵はそう言って笑った。
しばらく休んでから、再び館へ戻る。
帰り道も急がなかった。
館の門が見えてくる頃になっても、祐兵に疲れはほとんどなかった。
「今日はここまでにしよう」
豊久が頷く。
「薬師殿の言いつけ通りですな」
「ああ。まだ鍛錬はしない」
小春が祐兵の足元へ寄ってくる。
黒猫もその隣に並んだ。
祐兵は二匹の頭を順番に撫でた。
「お前たちも付き合ってくれてありがとう」
小春が小さく鳴く。
黒猫も尻尾を揺らす。
館へ戻ると、祐兵は縁側に座った。
温かな麦湯を一口飲む。
身体の中からゆっくり温まっていく。
「これくらいなら、明日も歩けそうだ」
「ですが、明日も無理はなさらぬように」
「分かっている」
豊久は安心したように笑った。
小春と黒猫は縁側の端で寄り添っている。
秋の風が庭を渡り、二匹の毛を静かに揺らしていた。
祐兵はその光景を眺めながら、ゆっくりと麦湯を飲んだ。
まだ鍛錬には戻らない。
けれど、少しずつ身体は元へ戻っている。
その一歩を確かめるような、穏やかな朝の散歩だった。




