第三百四十話 薬師の言葉
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
館へ戻ってから二日目の朝。
伊東祐兵と島津豊久は
いつもより遅く起きた。
朝の庭には、秋の冷たい空気が漂っている。
いつもなら朝餉の前に鍛錬へ向かう二人だが
この日は木刀にも木槍にも手を伸ばさなかった。
「今日は鍛錬を休むのですな」
豊久が尋ねる。
「薬師の言いつけだからな」
祐兵は座ったまま答えた。
先日の腹痛を診てもらった際、馴染みの薬師から言われていた。
腹の具合が戻ったからといって、すぐに普段通りへ戻してはいけない。
しばらくは身体を休め、腹に負担の少ないものを少しずつ食べること。
そして、冷たいものを避け、温かいものを取ること。
祐兵は、その言葉をきちんと守ることにしていた。
朝餉には、柔らかく炊いた粥が用意された。
湯気が静かに立ち上っている。
「これは身体に優しそうですな」
豊久が椀を手に取る。
「薬師が言っていたからな。しばらくはこれでよい」
祐兵も椀を持つ。
熱すぎない粥を、ゆっくりと口へ運ぶ。
胃に重さを感じることもなく、穏やかに腹へ落ちていく。
「うん。これなら食べやすい」
「それは何よりです」
小春と黒猫も、二人の足元で並んで座っている。
二匹はいつものように一緒に行動し
祐兵が食事をしている様子をじっと見ていた。
「お前たちにも少しやろう」
祐兵が言うと、小春が顔を上げる。
黒猫も隣から身を乗り出した。
二匹には、猫が食べても問題のないものを少しだけ分けてやった。
食事を終えても、祐兵はすぐに立ち上がらなかった。
「食べた後も、しばらく休むのですな」
「それも薬師の言いつけだ」
豊久は頷いた。
「では、私も付き合いましょう」
二人は縁側に座った。
小春と黒猫も並んで庭へ出る。
秋の日差しが庭を照らしている。
風が吹くたび、木々の葉がかすかに揺れた。
「こうしていると、ずいぶん静かですな」
「いつもなら、今頃は木刀を振っている時間だ」
「今日は振らぬのですか」
「振らない」
祐兵は即答した。
豊久が笑う。
「薬師の言いつけには忠実ですな」
「腹を壊しておいて、また無理をするほど愚かではない」
「これは失礼しました」
二人は穏やかに笑った。
昼になっても、祐兵は無理に動かなかった。
普段なら館の中を歩いたり、書物を開いたりするところだが
この日は縁側で庭を眺めて過ごした。
小春と黒猫が庭を歩き回る。
小春が草むらの前で立ち止まると、黒猫も隣へやって来る。
二匹で何かを探すように鼻を動かしている。
「小春と黒猫は元気ですな」
豊久が言った。
「二匹は私より元気だ」
「それならば安心です」
昼餉も、温かく柔らかなものが用意された。
祐兵は少しずつ口へ運ぶ。
以前なら腹が減れば一気に食べていたが
薬師の言葉を思い出し、一口ごとにゆっくり噛んだ。
「ゆっくり食べると、いつもより味が分かるな」
「急いで食べていたのですか」
「そうだったかもしれない」
「今後も、この食べ方にいたしましょう」
「そうだな」
午後になると、祐兵は少し眠くなった。
「横になる」
「どうぞ」
祐兵が横になると、小春がすぐに近くへ寄ってきた。
黒猫も小春の隣へ座る。
やがて二匹は寄り添うように丸くなった。
祐兵は二匹を見て笑う。
「お前たちも休むのか」
小春が小さく鳴く。
「一緒に休めと言っているようですな」
豊久が言った。
「ならば、そうしよう」
祐兵は目を閉じた。
午後の館には、静かな時間が流れた。
夕方になって目を覚ますと、腹には痛みも重さもなかった。
「少しずつ戻ってきたようだ」
「顔色も良くなりましたな」
豊久は嬉しそうに頷いた。
それでも祐兵は、その日のうちに鍛錬を始めようとはしなかった。
「良くなったからといって、すぐ元に戻す必要はない」
「薬師の言葉を守るのですな」
「ああ。治すことも鍛錬と同じだ」
豊久は、その言葉を聞いて頷いた。
夕餉も温かな食事をゆっくりと取る。
小春と黒猫は二人の足元で寄り添っていた。
食後、祐兵は温かな麦湯を少し飲んだ。
「これは落ち着くな」
「薬師の言う通り、温かいものを取るのはよいようですな」
「そうだな」
障子の外から、秋の虫の声が聞こえてくる。
祐兵はその音を聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。
腹の痛みはない。
身体にも、昨日までの重さは残っていない。
だが、まだ完全に元へ戻ったわけではない。
だからこそ、急がない。
薬師の言葉を守り、少しずつ身体を戻していく。
その夜も、二人と二匹は静かな館でゆっくりと過ごした。
秋の夜風が庭を渡り、虫の声がいつまでも聞こえていた。




