第三百三十八話 山里の湯治
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
九月の朝。
館の庭には
涼しい風が吹いていた。
祐兵の腹の具合も
すっかり良くなっていた。
「今日は久しぶりに、ゆっくり湯につかりたいですな」
豊久が言った。
「ああ。山の湯へ行こう」
祐兵が答える。
以前、小春の傷を癒すために訪れた
山奥の湯。
あの湯の心地よさを
二人とも覚えていた。
小春と黒猫も
二人の足元に並んでいる。
二匹は顔を見合わせると
一緒に鳴いた。
「二匹も行きたいようですな」
「そうだな。皆で行こう」
二人と二匹は
湯治の支度を整えた。
館を出る。
城下町を抜け
山へ続く道を歩いていく。
小春と黒猫は
今日も並んで歩いている。
小春が少し先へ進むと
黒猫も後を追う。
黒猫が立ち止まると
小春も隣で待つ。
二匹はいつも一緒だった。
山道へ入ると
空気がひんやりとしてきた。
木々の葉が風に揺れている。
遠くから
水の流れる音が聞こえてくる。
「やはり山は静かですな」
豊久が言う。
「館とは違う静けさだな」
祐兵は
木々の間を眺めながら歩いた。
しばらく進むと
以前訪れた湯が見えてきた。
岩の間から
白い湯気が立ち上っている。
「着きましたな」
豊久が笑う。
二人は荷物を置き
まず湯の温度を確かめる。
熱すぎず
ぬるすぎない。
体をゆっくり温めるには
ちょうどよい湯だった。
「良い湯だな」
祐兵が湯につかる。
肩まで温まると
思わず息が漏れた。
「これは気持ちがよいですな」
豊久も湯につかる。
山の湯は静かだった。
聞こえるのは
木々の葉が擦れる音と
近くを流れる水の音だけ。
小春と黒猫は
湯のそばで並んでいる。
二匹とも湯気を不思議そうに眺めていた。
「小春殿は、以前ここで傷を治しましたな」
豊久が言う。
小春は
湯の縁へ近づく。
黒猫も隣についてくる。
だが、今日は湯に入ることはしない。
二匹は湯気のそばで丸くなり
二人を眺めている。
「二匹は見張り役ですな」
豊久が笑う。
「そうかもしれないな」
祐兵も笑った。
湯に浸かっていると
体の力が抜けていく。
豊久は
ゆっくり肩を回した。
「朝の鍛錬の疲れも取れていくようですな」
「ああ。たまにはこうして休むのもいい」
二人はしばらく
何も話さず湯につかっていた。
山の風が吹く。
湯気がゆっくり流れていく。
やがて豊久が
空を見上げた。
木々の隙間から
秋の青空が見える。
「こうして湯につかっていると、時がゆっくり流れているようですな」
「急ぐこともないからな」
祐兵が答える。
小春と黒猫も
二匹並んで昼寝を始めていた。
小春が黒猫に体を寄せる。
黒猫も動かない。
二人はそんな二匹を眺めながら
穏やかに笑った。
「今日は泊まっていきますか」
豊久が尋ねる。
「そうしよう。せっかく来たんだ。明日までゆっくりしていこう」
二人と二匹は
山の湯のそばで一晩過ごすことにした。
夕方になると
山の空気がさらに冷たくなる。
二人は再び湯につかった。
昼とは違い
夕暮れの湯は静かだった。
湯気の向こうに
木々の影が伸びている。
「良い一日でしたな」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵は頷いた。
小春と黒猫は
二人のすぐそばで寄り添っている。
山の湯に体を温めてもらいながら
二人は静かな夜を迎えた。
九月の山。
秋の涼しい風と
温かな湯。
そして
そばにいる二匹。
二人にとって
何よりも穏やかな湯治の一日となった。




