第三百三十二話 山の湯の友
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
山深い森の中。
伊東祐兵と島津豊久は
大猪と向かい合っていた。
大猪は
二人を睨んでいる。
低い唸り声が
山の中に響いていた。
「祐兵殿」
豊久が構える。
「ああ」
祐兵も
大猪から目を離さない。
かつて山籠りをしていた頃
二人が激しく戦った大猪。
その姿は
あの時と変わらぬほど大きかった。
「また戦うことになるとは」
豊久が言う。
大猪が
一歩前へ出た。
しかし
その時だった。
大猪の目が
豊久の腕に抱かれた
小春へ向いた。
小春は
怪我をした前脚を抱えたまま
じっと大猪を見ている。
大猪が
小春へ近づいてきた。
「動くな」
祐兵が言う。
豊久も
身構えた。
しかし大猪は
小春の前で立ち止まった。
そして
怪我をしている前脚を見つめている。
「……気付いたようですな」
豊久が呟く。
大猪は
小春の匂いを嗅いだ。
そして二人を振り返る。
「何かを伝えたいのでしょうか」
祐兵が言った。
大猪は
ゆっくりと山の奥へ歩き始めた。
数歩進んでから
振り返る。
「ついて来い、ということでしょうか」
豊久が言う。
「おそらく」
二人は顔を見合わせた。
「行ってみましょう」
祐兵が頷く。
二人は大猪の後を追った。
小春は
豊久に抱かれている。
黒猫も
少し離れてついてきた。
山道は細く
人の歩いた跡もない。
大猪は
迷うことなく進んでいく。
やがて木々が途切れた。
その先から
白い湯気が立ち上っている。
「これは……」
豊久が目を見開く。
そこには
岩に囲まれた小さな湯があった。
湯の周りには
鹿や猿、小さな獣たちが集まっている。
皆、静かに湯へ浸かっていた。
「獣たちが……」
祐兵が驚く。
これが
薬師から聞いた秘湯だった。
大猪は
湯の中へゆっくりと入った。
大きな身体を湯に沈める。
そして
気持ちよさそうに目を細めた。
「なるほど」
祐兵が頷く。
「この猪も、ここで傷を癒していたのですね」
豊久が小春を見る。
小春の前脚には
まだ赤く腫れた傷が残っている。
傷口は完全には塞がっていない。
そのため
歩く時も前脚を地面につけることを嫌がっていた。
「ここ数日、薬を塗っても治りませんでしたからな」
豊久が心配そうに言う。
大猪は
湯に浸かりながら小春を見ている。
そして
湯の方へ鼻先を向けた。
「小春殿を、湯へ入れろと言っているのでしょうか」
「そう見えますな」
祐兵が答える。
豊久は
そっと小春を抱き上げた。
「小春殿、少しだけ入ってみましょう」
小春を湯へ近づける。
最初は嫌がるように身を縮めた。
しかし
前脚が湯に触れると
小春は動きを止めた。
「どうですか」
祐兵が尋ねる。
小春は
しばらく湯の中の前脚を見つめていた。
やがて
ゆっくり目を細める。
「嫌ではないようですな」
豊久が笑う。
しばらく湯に浸かっていると
小春は少しずつ身体の力を抜いていった。
大猪も
静かに二人を見ている。
その様子は
まるで小春を
見守っているようだった。
その日は
それ以上無理をせず
小春を湯から上げた。
帰る前に傷を見ると
まだ赤みは残っていた。
「すぐには変わらぬようですな」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵も頷いた。
「しばらく通ってみましょう」
翌朝。
二人は再び
小春を連れて山へ向かった。
小春は
昨日より少しだけ足をついて歩いていた。
「昨日より、歩き方が楽そうですな」
豊久が気付く。
祐兵も
小春の足を見る。
「確かに、少し違うようだな」
秘湯へ着くと
大猪が待っていた。
小春を見ると
静かに鼻を鳴らした。
そして
いつものように湯へ入っていく。
小春も
豊久に抱かれて湯へ入った。
昨日よりも
湯を怖がらなくなっていた。
しばらくすると
小春は自分から前脚を湯の中へ沈めた。
「今日は嫌がりませんな」
豊久が笑う。
「気に入ったのかもしれません」
祐兵も笑った。
湯から上がった後
小春の傷を確かめる。
赤みが少し引いている。
腫れも
昨日より小さくなっていた。
「祐兵殿」
「ああ」
「良くなっています」
豊久の顔に
笑みが浮かんだ。
三日目。
小春は
山道を自分の足で歩いていた。
まだ少し足をかばっている。
しかし
昨日までのように
前脚を浮かせたままではない。
「もう随分違いますな」
豊久が言う。
「傷口も見てみましょう」
祐兵が小春を抱き上げる。
傷はまだ残っている。
しかし
腫れはほとんどなくなっていた。
傷口の周りには
新しい皮膚ができ始めている。
「もう塞がり始めている」
「本当ですか」
豊久が嬉しそうに覗き込む。
「ああ」
二人は顔を見合わせた。
「この湯のおかげでしょうか」
「そうだろうな」
大猪が
湯の中から二人を見ている。
「ありがとうございます」
豊久が
大猪へ頭を下げる。
大猪は
静かに鼻を鳴らした。
それからさらに数日。
二人は毎朝
小春を連れて秘湯へ通った。
四日目には
傷の赤みがほとんど消えた。
五日目には
小春は前脚を気にすることなく歩けるようになった。
六日目になると
山道を先に歩いていくほど元気になった。
「小春殿、もう少しゆっくり」
豊久が笑う。
小春は振り返り
「にゃあ」と鳴いた。
祐兵も
嬉しそうに笑った。
「もう痛みもないのだろうな」
小春は
元気よく二人のところへ戻ってきた。
最後に傷を確かめる。
そこには
小さな傷跡が残っているだけだった。
「すっかり塞がりましたな」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵が頷く。
「これなら、今日で最後にしてよいだろう」
その日の秘湯には
いつもより多くの動物たちが集まっていた。
鹿もいる。
猿もいる。
小さな獣たちもいる。
そして
大猪も湯の中にいた。
「今日は我らも入りましょうか」
豊久が言う。
「そうしよう」
祐兵が頷く。
二人は湯へ入った。
小春も
二人の間で気持ちよさそうに湯に浸かる。
黒猫は岩の上で
丸くなっている。
大猪も湯の中で
静かに目を閉じていた。
「小春殿」
豊久が
小春の前脚を見る。
「もう痛くありませんな」
小春は
湯の中で前脚を動かした。
そして
嬉しそうに二人を見上げた。
「本当に良かった」
豊久が
小春の頭を撫でる。
祐兵も笑った。
「この猪に助けてもらいましたね」
大猪が
小さく鼻を鳴らした。
二人は大猪を見る。
大猪は
穏やかな目をしていた。
「ありがとう」
祐兵が言う。
「小春殿を助けてくれて」
大猪は答えることなく
静かに湯へ身体を沈めた。
その姿を見て
豊久が笑った。
「どうやら、礼など要らぬようですな」
「ああ」
祐兵も笑う。
山の中には
湯気がゆっくりと立ち上っている。
木々の間から差し込む光。
湯のせせらぎ。
動物たちの穏やかな気配。
かつて激しく戦った大猪と
今では同じ湯に浸かっている。
その不思議な光景に
二人は顔を見合わせた。
そして
二人とも笑った。
小春も
「にゃあ」と鳴く。
その声に
黒猫が尻尾を揺らした。
大猪も
小さく鼻を鳴らす。
まるで
笑っているようだった。
秋の山に
穏やかな風が吹いていた。
そして二人と二匹は
大猪と山の動物たちに別れを告げ
ゆっくりと山を下っていったのだった。




