第三百二十一話 秋虫の声
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
九月の夕暮れ。
夏の暑さは少しずつ遠のき
館の庭には涼しい風が吹いていた。
伊東祐兵と島津豊久は
縁側に腰を下ろし
暮れゆく庭を眺めていた。
昼間の蝉の声も少なくなり
代わって草むらから
小さな虫の音が聞こえてくる。
「……秋ですな」
豊久が耳を澄ませる。
「ああ」
祐兵も静かに頷いた。
「虫の声が、夏とは違って聞こえる」
庭の草むらから
りん、りん、と涼やかな音が響く。
風が吹くたび
草の葉がかすかに揺れ
虫たちの声が重なっていく。
「不思議なものですな」
豊久が呟いた。
「何がだ?」
「姿は見えぬのに、これほど近くにいるように感じます」
祐兵は微笑んだ。
「耳を澄ませば、普段気づかぬものにも気づく」
二人は言葉を止め
しばらく虫の音に耳を傾けた。
その時
「にゃあ」
小春の鳴き声がした。
小春が庭の草むらを覗き込んでいる。
「小春殿も虫の声が気になるようですな」
豊久が笑う。
小春は草むらへ鼻先を近づけた。
しかし虫を捕まえることはせず
その場に座って耳を動かしている。
「どうやら、声を聞いているだけらしい」
祐兵が穏やかに言う。
少し離れたところでは
黒猫も静かに座っていた。
こちらも虫の音を聞いているのか
時折耳を動かしている。
空が次第に暗くなる。
庭には虫の音だけが残り
昼間とはまるで違う静けさに包まれていく。
「九月になったのですな」
豊久が空を見上げる。
「ああ」
祐兵は頷いた。
「季節は知らぬ間に移っていく」
「暑さが和らぐのはありがたいですが、夏が終わると思うと少し寂しいものですな」
「それもまた季節というものだ」
祐兵は静かに笑った。
やがて夜の帳が下り
空には星が見え始めた。
虫たちの声は
暗くなった庭でいっそう鮮やかに響いている。
小春は祐兵の足元で丸くなり
黒猫も少し離れた場所で身を休めていた。
「良い音ですな」
豊久が呟く。
「ああ」
祐兵も耳を澄ませる。
「秋の夜には、秋の楽しみがある」
二人は虫の音を聞きながら
静かな九月の夜を過ごすのだった。




