第三百十二話 暁の鍛錬
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
夏の早朝。
東の空が白み始め
夜露が草葉に残る頃。
伊東祐兵と島津豊久は
館の庭に立っていた。
朝の空気は涼しく
昼の暑さが嘘のようである。
「良い朝ですな」
豊久が大きく息を吸った。
「ああ」
祐兵は頷く。
「鍛錬にはちょうど良い」
二人は木刀を手に取った。
朝の鍛錬は毎日の習わしである。
身体を鍛えるだけではない。
心を整えるための大切な時間でもあった。
「参ります」
豊久が構える。
「いつでも来い」
祐兵も木刀を正眼に構えた。
静寂が庭を包む。
次の瞬間。
豊久が踏み込んだ。
「はっ!」
鋭い打ち込み。
祐兵は落ち着いて受け流す。
木刀同士がぶつかり合い
乾いた音が響いた。
「良い踏み込みだ」
「ありがとうございます」
豊久はすぐに次の一撃を放つ。
上段。
胴。
袈裟斬り。
次々と打ち込む。
しかし祐兵は冷静だった。
最小限の動きで受け
時にかわし
隙を探っていく。
「まだ力が肩へ入っているぞ」
「むっ」
豊久は思わず肩に意識を向けた。
その瞬間。
木刀の先が首元へ止まる。
「一本だ」
祐兵が微笑む。
「参りました」
豊久は苦笑した。
「考え事をするとすぐ隙ができますな」
「戦でも同じだ」
祐兵は木刀を下ろした。
「心が乱れれば、技も乱れる」
豊久は深く頷く。
先日の「人生に意味はあるのか」という悩みを
まだ少し引きずっていた。
それを祐兵は見抜いていた。
「豊久殿」
「はい」
「答えを急ぐ必要はない」
朝日が少しずつ昇り始める。
「鍛錬も人生も同じだ。一歩ずつ進めばよい」
豊久は静かに頷いた。
「そうですな」
その表情には
昨夜よりも力が戻っている。
二人は再び向かい合った。
木刀を構える。
今度は迷いがない。
「参ります!」
豊久が踏み込む。
木刀が閃き
朝の空気を切り裂いた。
祐兵も応じる。
打ち合いの音が庭に響き渡る。
その時。
「にゃあ」
聞き慣れた声がした。
小春が庭の隅から現れる。
後ろには黒猫の姿もあった。
「おはよう、小春殿」
豊久が笑う。
小春は縁側へ飛び乗り
鍛錬の様子を見守り始めた。
黒猫は木陰へ座り
静かに目を細める。
「今朝も見物人がおられるな」
祐兵が笑った。
「手を抜けませんな」
豊久も笑う。
二人は再び木刀を交えた。
朝日が庭を黄金色に染めていく。
蝉が鳴き始めるにはまだ少し早い。
清々しい朝の空気の中で
祐兵と豊久は汗を流した。
日々の鍛錬。
それは剣の技だけではなく
心を磨くための時間でもある。
夏の朝は静かに過ぎ
新たな一日が始まろうとしていた。




