第三百五話 書をひらく午後
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
夏の午後。
強い陽射しを避けるように
伊東祐兵と島津豊久は
館の書院で過ごしていた。
庭では蝉が盛んに鳴いている。
障子を開け放った室内には
涼しい風が静かに吹き込んでいた。
「今日は穏やかな一日ですな」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵は頷いた。
「こういう日は落ち着いて書を読むのも良い」
二人の前には数冊の書物が置かれていた。
兵法書。
歴史書。
和歌を集めた書。
様々な書が並んでいる。
豊久は兵法書を手に取った。
「戦の記録を読むと、学ぶことが多いですな」
「先人の経験は貴重だからな」
祐兵も一冊の書を開く。
「自ら経験できぬことを学べる」
しばらくの間
部屋には紙をめくる音だけが響いた。
豊久は真剣な表情で文字を追っている。
時折、感心したように頷いていた。
「祐兵殿」
「どうした」
「この武将は少ない兵で大軍を防いだそうです」
「ほう」
祐兵は興味深そうに顔を上げた。
「どのような策を用いたのだ」
豊久は書に目を落としながら答える。
「地形を利用し、敵を狭い場所へ誘い込んだようです」
「力だけでなく知恵も、武の一つだ」
祐兵は穏やかに言った。
「それを忘れてはならぬ」
「はい」
豊久は素直に頷く。
その後も二人は書を読み続けた。
やがて豊久は別の書を手に取る。
「これは和歌の書ですな」
「たまにはそういうものも読んでみると良い」
祐兵が笑う。
「武ばかりでは心が固くなる」
「なるほど」
豊久は書を開き
しばらく読み進めた。
「難しいですが、美しいものですな」
「言葉の美しさを知ることも、人を知ることにつながる」
祐兵はそう言って微笑んだ。
その時。
「にゃあ」
聞き慣れた声がした。
小春が書院へ入ってくる。
後ろから黒猫も姿を現した。
「小春殿」
豊久が笑顔になる。
小春は迷うことなく豊久のそばへ来ると
開いていた書の上へ座り込んだ。
「あっ」
豊久が苦笑する。
「読めなくなりました」
小春は満足そうに目を細めた。
祐兵は思わず笑う。
「どうやら書より自分を見てほしいらしい」
「そうかもしれませんな」
豊久は小春の頭を優しく撫でた。
黒猫は障子の近くに寝そべり
庭を眺めている。
蝉の声。
風に揺れる木々。
そして静かな読書の時間。
慌ただしい日々の中で
こうした穏やかな午後は貴重だった。
「祐兵殿」
豊久が書を閉じる。
「書を読むのも鍛錬になりますな」
「ああ」
祐兵は頷いた。
「剣や槍を磨くだけが鍛錬ではない。心を磨くこともまた大切だ」
豊久は深く頷いた。
夏の午後。
二人は再び書を開く。
小春は豊久の隣で丸くなり
黒猫は静かに昼寝を始めた。
書院には穏やかな時間が流れ続け
二人はそれぞれの書の世界へと
静かに没頭していくのだった。




