第二百八十二話 渓魚の香
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
夕暮れ。
館の庭には
炭火の香りが静かに漂っていた。
西の空は茜色に染まり
涼しい夕風が庭木を揺らしている。
渓流で釣り上げたヤマメを持ち帰った
伊東祐兵と島津豊久は
夕餉の支度を始めていた。
「見事なヤマメが釣れましたな」
豊久が魚籠を覗き込む。
「ああ」
祐兵は頷いた。
「新鮮なうちに焼けば、何よりの御馳走となる」
二人は井戸水でヤマメを丁寧に洗い
下ごしらえを済ませる。
串を打ち
炭火の周りへ並べた。
「炭火は強すぎても弱すぎてもいかぬ」
祐兵が炭の様子を見ながら言う。
「じっくり焼き上げるのが肝心だ」
「承知しました」
豊久は団扇で静かに風を送り
炭火を整えた。
やがて。
ぱちり。
炭が小さく音を立てる。
香ばしい香りが
庭いっぱいへ広がっていった。
「これは食欲を誘いますな」
豊久が嬉しそうに笑う。
「ああ」
祐兵も穏やかに微笑んだ。
「山の恵みは、香りもまた格別だ」
その時。
「にゃあ」
小春が
香りに誘われるようにやって来た。
黒猫も静かに後を歩いてくる。
二匹は炭火から少し離れた場所へ座り
じっとヤマメを見つめていた。
「良い匂いが分かるようだ」
祐兵が笑う。
「焼き上がるのを待っておりますな」
豊久も微笑んだ。
しばらくすると
ヤマメの皮はこんがりと色づき
脂がじゅうっと音を立てる。
「焼き頃だ」
祐兵は串を持ち上げた。
二人は手を合わせる。
「いただきます」
焼きたてのヤマメを口へ運ぶ。
外は香ばしく
中はふっくらとしていた。
「これは美味しい」
豊久が目を輝かせる。
「川魚ならではの味わいです」
「ああ」
祐兵も満足そうに頷いた。
「自然の恵みを、こうして味わえることに感謝せねばならぬ」
夕風が吹き抜け
炭火の香りを運んでいく。
小春は祐兵の足元で丸くなり
黒猫も静かに目を細めていた。
茜色だった空には
いつしか一番星が輝き始める。
渓流で釣り上げたヤマメは
二人に夏の山の豊かさを改めて教えてくれた。
穏やかな夕暮れの中
二人と二匹は
山の恵みに感謝しながら
静かな夕餉のひとときを楽しむのだった。




