第二百七十九話 山峡の激闘
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
山籠り最後の日。
朝霧がゆっくりと晴れ
深山には眩しい夏の陽光が差し込んでいた。
数日にわたる山籠りを終えた
伊東祐兵と島津豊久は
庵を整え
下山の支度を進めていた。
「実り多き山籠りでしたな」
豊久が荷を背負う。
「ああ」
祐兵は頷いた。
「山には多くを学ばせてもらった」
二人は山道をゆっくりと下り始める。
木漏れ日が足元を照らし
沢のせせらぎが静かに響く。
その時だった。
ガサガサッ。
茂みの奥から
木々を揺らす大きな音が響いた。
祐兵は足を止める。
「豊久殿」
「はい」
二人は表情を引き締めた。
次の瞬間。
「ブオオォォッ!」
大きな咆哮とともに
巨大な猪が姿を現した。
肩は人の腰ほどもあり
鋭い牙が朝日に光る。
「大猪ですな」
豊久は木槍を構えた。
「あれほどの巨体では、真正面から受けてはならぬ」
祐兵は静かに木刀を握る。
「互いに挟み込み、隙を作る」
「承知しました」
大猪は土を蹴り上げ
猛烈な勢いで突進してきた。
「来るぞ!」
祐兵が叫ぶ。
二人は左右へ飛び退く。
轟音とともに
大猪は、大木へ激突した。
しかし
すぐに向きを変え
再び突進する。
「なんという力だ」
豊久が息をのむ。
「油断するな」
祐兵は木刀で地面を叩き
大猪の注意を引きつけた。
怒った大猪は
祐兵へ向かって突進する。
「今だ!」
豊久は横へ回り込み
木槍で大猪の肩を力強く叩く。
鈍い音が、山に響く。
大猪は大きく体勢を崩した。
「まだだ!」
祐兵は間合いを詰め
木刀で鼻先を打つ。
「ブオオォッ!」
大猪は苦しそうに後退した。
しかし
なおも闘志は衰えない。
「さすが山の主ですな」
豊久が汗を拭う。
「最後まで気を抜くな」
祐兵は静かに構え直した。
その時。
「にゃあ!」
小春が近くの岩へ飛び乗り
鋭く鳴いた。
黒猫も別の岩へ移り
大猪の注意を引く。
大猪は一瞬だけ視線を逸らした。
「祐兵殿!」
「ああ!」
二人は息を合わせる。
豊久が木槍で進路を塞ぎ
祐兵が木刀で地面を強く打つ。
響いた音に驚いた大猪は
向きを変えると
深い森の奥へ駆け去っていった。
足音は次第に遠ざかり
やがて山は静けさを取り戻す。
豊久は大きく息をついた。
「追わずに済んで良かったですな」
「ああ」
祐兵は木刀を納めた。
「山の獣には、山で生きる役目がある。無益に命を奪うことはせぬ」
豊久も深く頷く。
「互いに生きるための戦いでしたな」
その時。
「にゃあ」
小春が祐兵の足元へ駆け寄る。
黒猫も静かに歩いてきた。
「二匹とも、よく無事でいてくれた」
祐兵は優しく頭を撫でた。
山を吹き抜ける風は
これまでと変わらず澄んでいた。
山籠りの最後に待っていた試練。
それは
鍛え上げた技だけではなく
冷静な心と互いを信じる絆があってこそ
乗り越えられた戦いだった。
二人と二匹は
深山への感謝を胸に
静かな山道を歩みながら館への帰路につくのだった。




