第二百七十八話 木乃葉天狗の夏
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
山籠り二日目。
夜明け前の深山は
白い朝霧に包まれていた。
沢のせせらぎが静かに流れ
木々の梢では小鳥たちが目を覚まし始める。
朝の身支度を整えた
伊東祐兵と島津豊久は
庵を出て山道を歩いていた。
「山の朝は、実に清々しいですな」
豊久が深く息を吸う。
「ああ」
祐兵は頷いた。
「心が澄み、足取りも軽くなる」
その時だった。
風もないのに
一本の大木の枝葉がさわりと揺れた。
「……何者だ」
祐兵が静かに辺りを見回す。
豊久も足を止め
木々の間へ視線を向けた。
すると。
高い枝の上から
一人の小柄な者がひらりと舞い降りる。
赤い顔に高い鼻。
背には小さな翼。
緑の木乃葉を編んだ衣をまとい
手には一本の羽団扇を持っていた。
「ほう。人の子が山へ籠っておるとは珍しい」
その声は
山の静けさに溶け込むように響く。
豊久は目を丸くした。
「もしや……木乃葉天狗様ですかな」
「その通りじゃ」
木乃葉天狗は愉快そうに笑った。
「この山を見守っておる者よ」
祐兵は静かに一礼する。
「我らは山へ修養に参った。山を荒らすつもりはない」
木乃葉天狗は祐兵の顔を見つめ
ゆっくりと頷いた。
「その眼に偽りはないようじゃ」
小春が
恐る恐る木乃葉天狗へ近づく。
「にゃあ」
木乃葉天狗は腰を下ろし
小春の頭を優しく撫でた。
「人にも猫にも、良い心を持っておる」
黒猫も静かに歩み寄る。
木乃葉天狗は微笑みながら
羽団扇でそっと風を送った。
涼しい風が
四人を包み込む。
「心地よい風ですな」
豊久が感心する。
「山からの贈り物じゃ」
木乃葉天狗は空を見上げた。
「山は多くの恵みを与えてくれる。だが、それを当たり前と思えば、やがて山は静かに怒る」
祐兵は深く頷く。
「自然への敬いを忘れてはならぬということだな」
「その通りじゃ」
木乃葉天狗は満足そうに笑った。
「おぬしたちなら、この山も安心して任せられそうじゃの」
そう言うと
羽団扇をひと振りする。
木漏れ日が揺れ
木々の葉が一斉に舞い上がった。
舞い散る木乃葉の向こうで
木乃葉天狗の姿は少しずつ霞んでいく。
「また縁があれば会おう」
その言葉を残し
木乃葉天狗は森の奥へ姿を消した。
しばらくすると
山には再び静けさが戻る。
聞こえるのは
沢のせせらぎと鳥のさえずりだけだった。
「不思議な出会いでしたな」
豊久が静かに言う。
「ああ」
祐兵は木々を見上げた。
「山には、人の知らぬものが息づいているのかもしれぬ」
吹き抜ける風はどこまでも澄み
木々は優しく枝葉を揺らしていた。
二人と二匹は
山への感謝を胸に刻みながら
静かな山道をゆっくりと歩いていくのだった。




