第二百七十七話 夏の山籠り
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
数日後。
朝霧が山々を包み
木々の間から柔らかな朝日が差し込んでいた。
澄んだ空気には
杉や檜の香りが漂い
小鳥たちのさえずりが静かに響いている。
伊東祐兵と島津豊久は
数日間の山籠りのため
深山へ足を踏み入れていた。
「山の空気は格別ですな」
豊久が大きく息を吸い込む。
「うむ」
祐兵は頷いた。
「心が澄み、雑念も消えていく」
二人は山道をゆっくり登る。
木漏れ日が足元を照らし
清らかな沢の音が近くから聞こえてきた。
「まずは沢で水をいただこう」
祐兵が言う。
二人は手で澄んだ水をすくい
喉を潤した。
「冷たくて美味しいですな」
豊久が笑みを浮かべる。
「山の恵みだ」
祐兵も穏やかに答えた。
さらに奥へ進むと
開けた場所へたどり着く。
古くから山籠りに使われてきた小さな庵が
静かに佇んでいた。
「今日はここで過ごそう」
「承知しました」
二人は庵の周りを掃き清め
薪を集める。
その頃。
「にゃあ」
聞き慣れた鳴き声がした。
振り向くと
小春が草むらから姿を現した。
黒猫も静かに後を歩いてくる。
「お前たちまで来たのか」
祐兵が目を細める。
小春は庵の周りを元気よく歩き回り
初めて見る景色へ興味津々だった。
黒猫は縁へ腰を下ろし
森の静けさへ耳を澄ませている。
「山の暮らしも気に入ったようですな」
豊久が笑う。
「ああ。自然の中では、誰もが穏やかになる」
昼になると
二人は庵の前へ腰を下ろした。
風が木々を揺らし
葉擦れの音が絶え間なく響く。
蝉の声も
町で聞くものとはどこか違って聞こえた。
「何も語らぬ山だが、多くを教えてくれる」
祐兵が静かに呟く。
「はい」
豊久は深く頷く。
「自然の前では、己の小ささを知ります」
しばらく二人は目を閉じ
風の音へ耳を傾けた。
聞こえるのは
沢のせせらぎ。
鳥のさえずり。
木々を渡る風。
それだけだった。
「こうした静けさも、武芸を磨くためには必要だ」
祐兵がゆっくりと立ち上がる。
「心が乱れていては、良い太刀も放てぬ」
「私も、この静けさを胸へ刻みます」
豊久は力強く答えた。
夕暮れが近づく頃
山々は淡い橙色に染まり始める。
小春は祐兵の隣で丸くなり
黒猫も庵の縁で静かに目を閉じた。
二人と二匹は
深山の静寂へ身を委ねながら
穏やかな山籠りの一日を過ごすのだった。




