第二百七十二話 静かな夏
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
七月の夕暮れ。
昼間の暑さも少し和らぎ
館の庭には穏やかな風が吹いていた。
茜色に染まる空を
ゆっくりと白い雲が流れていく。
朝の務めを終え
城下の見回りも済ませた
伊東祐兵と島津豊久は
縁側へ並んで腰を下ろしていた。
「夕方になると、過ごしやすくなりますな」
豊久が庭を眺める。
「ああ」
祐兵は頷いた。
「昼の暑さが嘘のようだ。」
風鈴が
ちりんと涼やかな音を響かせる。
その音へ耳を傾けながら
二人は静かな時間を楽しんでいた。
庭では
小春が草の上を歩いていた。
時折
飛び交う蜻蛉を見つめては
前足をそっと伸ばす。
「にゃあ」
あと少しというところで
蜻蛉はひらりと飛び去った。
「今日も逃げられたな」
祐兵が笑う。
「蜻蛉も素早いですからな」
豊久も微笑んだ。
少し離れた木陰では
黒猫が静かに伏せている。
涼しい風を受けながら
気持ち良さそうに目を細めていた。
「皆、思い思いに夏を過ごしている」
祐兵が穏やかに言う。
「それが一番ですな」
豊久も頷く。
やがて
蝉の声も少しずつ静かになり
代わって草むらから虫の音が聞こえ始めた。
「もう夕暮れですな」
「夏の日は長いが、終わりはゆっくり訪れる。」
二人は空を見上げた。
夕焼けは少しずつ紫色へ変わり
一番星が淡く輝き始める。
「この静けさは、心が落ち着きます」
豊久がぽつりと呟いた。
「ああ」
祐兵は優しく微笑む。
「慌ただしい日々の中にも、こうした静かな時間は必要だ。」
その時
小春が縁側へ戻り
祐兵の隣で丸くなった。
黒猫も静かに歩いてきて
豊久の近くへ腰を下ろす。
二匹とも
夕風を受けながら穏やかな表情を浮かべていた。
「今日は何事もなく、良い一日でしたな」
豊久が言う。
「それが何よりだ」
祐兵は静かに答えた。
「平穏な一日は、何ものにも代え難い。」
涼やかな風が庭木を揺らし
風鈴がもう一度
澄んだ音を響かせる。
二人と二匹は
移りゆく夏の夕暮れを眺めながら
言葉少なに穏やかな時間を過ごすのだった。




