第二百六十九話 親切を踏みにじる者
夏の日差しが照りつける昼。
朝の稽古を終えた
伊東祐兵と島津豊久は
城下町を見回っていた。
「今日は暑いですな」
豊久が額の汗を拭う。
「ああ。少し茶屋で休もう」
祐兵が言った。
二人は馴染みの茶屋へ入る。
「いらっしゃいませ」
看板娘が笑顔で迎えた。
「いつものお茶をお願いいたす」
祐兵が穏やかに頼む。
「かしこまりました」
店内には、町人や旅人が静かに茶を楽しんでいた。
その時だった。
「何をする!」
怒鳴り声が響く。
見ると、痩せた老人が立ち上がっていた。
老人は、寝ぼけて自ら手元の茶碗を大きく傾け
茶を着物へこぼしていた。
それにもかかわらず
看板娘を指差して怒鳴る。
「お前が粗相をした! この着物をどうしてくれる!」
看板娘は驚き、深く頭を下げた。
「申し訳ございません……ですが、お茶は……」
言葉を続けることができない。
店の空気が張り詰めた。
祐兵は静かに立ち上がる。
「少しよろしいかな」
老人は不機嫌そうに振り向く。
「何だ」
祐兵は落ち着いた口調で言った。
「私は最初から見ていた。その茶碗を倒したのは、そなた自身だ」
老人の表情がわずかに強張る。
「何を証拠に!」
豊久も立ち上がった。
「私も見ておりました。看板娘さんは、丁寧に茶を運んでおられました」
周りの客も次々と口を開く。
「私も見ていた」
「娘さんは何も悪くない」
「自分でこぼしたではないか」
店内の誰もが
事の始まりを見ていた。
老人は言葉に詰まる。
祐兵は穏やかなまま続けた。
「親切に働く者への、偽りの罪を着せるのは許されぬ。誤りは、自ら認める勇気も必要だ」
老人はしばらく俯いていた。
やがて小さく息をつく。
「……わしが悪かった」
看板娘へ向かって
深く頭を下げた。
「すまなかった」
看板娘も静かに頭を下げ返す。
「お気になさらないでください」
祐兵は微笑んだ。
「互いに礼を尽くせば、気持ちよく過ごせる」
豊久も頷く。
「茶は心を落ち着かせるものです。争いの種にしてはなりません」
老人は勘定を済ませると
もう一度店の者へ頭を下げて店を後にした。
やがて
茶屋には再び穏やかな空気が戻る。
看板娘がお茶を運んできた。
「ありがとうございました。」
「礼には及ばぬ。」
祐兵が微笑む。
「町の平穏を守るのも、我らの務めだからな。」
豊久は湯気の立つ茶碗を手に取り
一口飲んだ。
「やはり、このお茶は美味しいですな。」
その言葉に
看板娘はほっとしたように笑顔を見せた。
夏の風が暖簾を揺らし
茶屋には再び穏やかな笑い声が広がるのだった。




