第二百六十五話 七月の浜辺
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
翌日。
朝から夏空が広がっていた。
青い海の向こうには
白い入道雲が高くそびえている。
潮風は心地よく
波は静かに砂浜へ寄せては返していた。
朝の務めを終えた
伊東祐兵と島津豊久は
浜辺へ足を運んでいた。
「やはり海は良いですな」
豊久が大きく息を吸い込む。
「ああ」
祐兵も潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「山の風とは、また違った趣がある」
波が静かに寄せる。
さらさらと砂を洗い
陽の光を受けて白く輝いていた。
「見てください」
豊久が足元を指差す。
小さな蟹が
二人の前を慌てるように横歩きしていく。
「急ぎ足だな」
祐兵が笑う。
「我らを大きな敵だと思ったのでしょう」
「そうかもしれぬ」
二人はそのまま
波打ち際をゆっくり歩いた。
「祐兵殿」
「何だ」
「こうして海を眺めておりますと、時の流れもゆっくりになる気がいたします」
「自然の前では、人は皆、小さなものだからな」
豊久は静かに頷いた。
その時。
「にゃあ」
聞き慣れた鳴き声が聞こえた。
振り向くと
小春が二人を追いかけて来ていた。
その少し後ろには
黒猫も歩いている。
「お前たちまで来たのか」
祐兵が目を細める。
小春は砂浜を元気よく歩き回り
波が近づくたびに飛び退いた。
「にゃっ」
小さな波に驚き
ぴょんと飛び上がる。
その様子に
豊久が声を上げて笑った。
「ははは! 小春殿は波がお気に召さぬようですな」
「初めて見る波だからな」
一方、黒猫は
少し離れた場所から
静かに波を眺めていた。
無理に近づこうとはせず
潮風を受けながら目を細めている。
「黒猫らしい」
祐兵が穏やかに言う。
「落ち着いておりますな」
豊久も感心した。
二人は浜辺へ腰を下ろした。
砂は陽に温められていたが
潮風が暑さを和らげてくれる。
遠くでは漁船がゆっくりと沖へ向かっていた。
「今日も豊漁だと良いな」
祐兵が海を見つめる。
「ええ。漁師たちの無事も願いましょう」
豊久も手を合わせた。
しばらく四人は
波の音だけを聞いていた。
寄せては返す波。
鳴き続ける海鳥。
潮風に揺れる松の木。
どれも夏らしい景色だった。
やがて
小春は祐兵の隣へ戻り
砂の上へ丸くなる。
黒猫も少し離れた場所で伏せ
静かに休み始めた。
「皆、心地よさそうだ」
祐兵が微笑む。
「ええ。浜辺にも良い木陰がございますな」
豊久は松の木を見上げた。
その枝葉が
二人と二匹へ優しい影を落としている。
「夏は暑いが、こうして風を感じていると悪くない」
祐兵が言う。
「私は夏も好きです」
豊久は笑顔で答えた。
「鍛錬の後に浴びる潮風は、格別ですから」
「お前らしいな」
祐兵は思わず笑った。
青空には
大きな入道雲がゆっくりと流れていく。
穏やかな波は
変わらぬ調子で浜辺を包み続けていた。
二人と二匹は
潮風と波音に耳を傾けながら
七月の浜辺で静かな夏のひとときを過ごすのだった。




