第二百四十五話 山道の牙
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
翌朝。
山の空気は澄んでいた。
昨夜の雨も完全に上がり
木々の葉には朝露が残っている。
伊東祐兵と島津豊久は
湯宿を後にしていた。
「良い湯でしたなあ」
豊久が満足そうに伸びをする。
顔色もすっかり戻っている。
「腹の調子も治ったようだな」
「ええ! もう何杯でも飯が食えます!」
「ほどほどにしろ」
祐兵が呆れる。
小春は
湿った山道を軽やかに歩いていた。
黒猫は少し前。
静かに道の先を見ている。
山道には
六月の緑が溢れていた。
鳥の声。
川のせせらぎ。
遠くで
ほととぎすが鳴いている。
穏やかな帰り道——
のはずだった。
その時。
「きゃあっ!」
鋭い悲鳴。
祐兵と豊久の表情が変わる。
低い唸り声も聞こえた。
「……野犬か」
祐兵が呟く。
次の瞬間。
豊久が駆け出した。
「行きますぞ!」
林の脇。
そこに
母娘がいた。
若い母親が
幼い娘を庇っている。
その前には——
二匹の野犬。
毛並みは荒れ
腹を空かせているのか
牙を剥いて唸っていた。
娘は泣いている。
母親の顔も青ざめていた。
一匹が飛びかかる。
だが——
「させるか!」
豊久が踏み込む。
落ちていた太い枝を掴み
横薙ぎに振るった。
ばしっ!
野犬が吹き飛ぶ。
もう一匹が低く回り込む。
祐兵が静かに前へ出た。
目が鋭い。
野犬の動きを読む。
飛び込んできた瞬間——
ぱしっ。
木の枝で鼻先を打つ。
短く正確な一撃。
野犬が悲鳴を上げた。
「下がっていろ」
祐兵が母娘へ言う。
その声は静かだが
不思議な安心感があった。
野犬たちは唸り続ける。
だが。
豊久が枝を地面へ叩きつけた。
どんっ!
「失せろ!」
山道へ響く大声。
二匹の野犬は怯み
やがて林の奥へ逃げていった。
静寂。
風だけが吹く。
娘が泣きながら
母親へしがみついていた。
「もう大丈夫ですぞ」
豊久が優しく言う。
母親が何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……! 本当に……!」
祐兵が周囲を見回す。
「怪我はないか」
「は、はい……おかげで。なんとか……」
娘はまだ震えていた。
その時。
小春が
そっと娘へ近づく。
「にゃあ」
小さく鳴いた。
娘が涙目のまま
小春を見る。
「……ねこさん」
少しだけ顔が緩んだ。
黒猫は少し離れた岩の上。
まだ林を警戒している。
「町まで送りましょう」
祐兵が言う。
母親が深く頭を下げた。
「すみません……」
山道をゆっくり歩く。
豊久は娘へ
木の葉で作った小さな笛を渡した。
「ほら」
娘が恐る恐る吹く。
ぴぃ。
小さな音。
娘が少し笑った。
「鳴った……!」
「ははは、上手ですな」
豊久も笑う。
六月の風が吹く。
木々が揺れる。
恐ろしい出来事の後だったが
山道には少しずつ穏やかな空気が戻っていた。
やがて
町の入口が見えてくる。
母娘は何度も礼を言った。
「本当に助かりました……」
「気にするな」
祐兵が静かに答える。
豊久が笑った。
「今度は昼間のうちに帰ることですぞ!」
娘は小春へ手を振った。
黒猫は最後まで
林の方を見つめていた。
六月の空には
白い雲がゆっくり流れていた。




