第二百四十三話 山あいの湯
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
翌朝。
雨は上がっていた。
山には白い靄がかかり
六月の湿った空気が漂っている。
縁側では
島津豊久が
まだ腹を押さえていた。
「……むう」
顔色は昨日より良い。
だが、どこか元気がない。
伊東祐兵は
そんな豊久を見て言った。
「湯治へ行くか」
豊久が顔を上げる。
「湯治ですか?」
「ああ。山の温泉だ」
その瞬間。
豊久の顔が明るくなった。
「おお! それは良いですな!」
さっきまでの弱々しさはどこへやら。
祐兵が呆れる。
「単純だな」
「温泉は好きですぞ」
小春も
何となく嬉しそうに尻尾を立てた。
黒猫は静かに欠伸をする。
昼前。
二人と二匹は
山道を歩いていた。
木々は深い緑。
雨上がりの葉が光っている。
川の水音。
土の匂い。
六月の山は
生き物の気配に満ちていた。
「空気が良いですなあ」
豊久が深呼吸する。
「湿ってはいるが、町よりは涼しい」
祐兵が答える。
山道の脇には
紫陽花が咲いていた。
青。
薄紫。
雨粒を残して揺れている。
「綺麗ですな」
豊久が足を止めた。
その横を
小春がちょこちょこ歩く。
黒猫は濡れた岩の上。
静かに先を見ていた。
やがて。
木々の奥から
湯気が見えてきた。
山あいの湯治場。
小さな湯屋。
硫黄の匂いが漂う。
「着きましたぞ!」
豊久が嬉しそうに言う。
湯は少し白く濁っていた。
湯気が立ち上る。
「ふう……」
豊久が肩まで浸かる。
「生き返りますな……」
祐兵も静かに湯へ入った。
熱すぎず、ぬるすぎず。
身体の力が抜けていく。
外では
山の風が木々を揺らしていた。
「腹はどうだ」
祐兵が聞く。
「だいぶ楽です」
豊久が目を閉じる。
「やはり温泉は偉大ですな」
「食い過ぎを治しているだけだ」
「耳が痛い」
湯気の向こうで
祐兵が少し笑った。
露天の脇では
小春が丸くなっている。
温かな石の上だ。
気持ちよさそうに
うとうとしていた。
黒猫は屋根の梁。
高い場所から
静かに辺りを見ている。
しばらくして。
豊久が空を見上げた。
山の間に
青空が少し覗いている。
「平和ですな」
ぽつりと呟く。
祐兵も頷いた。
「ああ」
戦のない日。
静かな山。
温かな湯。
六月の湿った風が
湯気と共に流れていく。
その日は
時間までゆっくりになったようだった。




