第二百三十三話 干物屋の騒ぎ
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
昼下がり。
空には薄い雲。
城下の市場には
今日も賑わいが満ちていた。
魚を焼く香り。
商人たちの声。
子どもたちの笑い声。
伊東祐兵と島津豊久は、
市場を歩いていた。
小春は干物の匂いに惹かれ
あちこちをうろうろしている。
黒猫は屋根の上。
静かに人の流れを眺めていた。
「今日は良い鯵が入ったそうですぞ」
豊久が嬉しそうに言う。
「お前は本当に食べ物の話ばかりだな」
「大事なことです」
二人が笑ったその時。
「だから腐ってるって言ってるでしょう!」
甲高い声。
市場の空気が少し張る。
干物屋の前。
そこに、ふくよかな年増の女が立っていた。
腕を組み
鼻息荒く怒鳴っている。
店先には
若い看板娘。
困った顔で頭を下げていた。
「そ、そんな……。今朝仕入れたばかりです……」
「嘘おっしゃい! この匂い、絶対腐ってるよ!」
女はわざとらしく鼻を押さえる。
周囲の客たちも困惑していた。
干物屋の主人も
奥から青い顔で出てくる。
「お客さん、うちの商品に間違いは……」
「間違いだらけだよ! こんなの食べたら腹を壊す!」
女はさらに声を張り上げた。
看板娘の目に
うっすら涙が浮かぶ。
その時。
「……騒がしいな」
祐兵が前へ出た。
豊久も腕を組む。
「何だい、あんたら」
女が睨む。
祐兵は干物を一枚手に取った。
静かに匂いを確かめる。
「問題ないな」
「はぁ!?」
女が顔を真っ赤にする。
「素人に何が分かるんだい!」
「腐った魚の臭いくらい分かる」
祐兵は淡々と言った。
「塩加減も良い。乾きも十分だ」
豊久も頷く。
「ええ。むしろ美味そうですな」
そして。
豊久が干物を一枚買い
その場で炙ってもらう。
じゅう、と音。
香ばしい香りが広がる。
市場の人々が
思わず振り向いた。
「ほれ」
豊久が一口食べる。
ぱりっ。
「……美味い!」
満面の笑み。
「脂ものっておりますぞ!」
周囲の客たちもざわつく。
「本当だ、良い匂いだ」
「美味そうじゃないか」
女の顔が引きつった。
「で、でも……!」
祐兵が静かに口を開く。
「お前、最初から買う気がないな」
「なっ……!」
「値切るために難癖をつけた。違うか?」
図星だった。
女の目が泳ぐ。
周囲の視線が集まった。
「そ、それは……」
「商いは信用だ」
祐兵の声は静かだった。
だが、鋭かった。
「根拠もなく腐っているなどと言えば、店は傷つく」
看板娘が俯く。
豊久も一歩前へ出た。
「真面目に働いている者を、泣かせるものではありませぬ」
女は言葉を失った。
周囲からも
冷たい視線が向けられる。
「謝った方がいいぞ」
魚屋の老人が言う。
「そうだそうだ」
女は居心地悪そうに顔を歪めた。
やがて。
「……悪かったよ」
小さく呟く。
看板娘が慌てて頭を下げた。
「い、いえ……!」
女はそそくさと市場を去っていく。
豊久が肩を竦めた。
「嵐のような人でしたな」
「風より騒がしかった」
祐兵が苦笑する。
看板娘が深く頭を下げた。
「ありがとうございました……!」
干物屋の主人も何度も礼を言う。
「助かりました……! 評判に傷がつくところでした」
「気にするな」
祐兵が答える。
豊久は炙った干物をもう一枚口へ運ぶ。
「む、やはり美味い」
「お前は食べてばかりだな」
「だって本当に美味いのですぞ!」
小春が
豊久の足元で「にゃあ」と鳴く。
「おっと、すまんすまん」
豊久が小さく干物をちぎってやる。
黒猫は屋根の上から
静かに市場を見下ろしていた。
城下には
再び穏やかな賑わいが戻っていた。




