第二百三十一話 牙の唸り
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
夕刻。
空は茜に染まり
山際には長い影が落ちていた。
伊東祐兵と島津豊久は
町外れの道を歩いている。
小春は草むらを進み
黒猫は塀の上を静かに渡っていた。
風は少し冷たい。
草が揺れる。
人通りは少ない。
その時。
「ひっ……!」
悲鳴。
老女の声。
祐兵と豊久の目が鋭くなる。
次の瞬間。
低い唸り声。
「行くぞ」
祐兵が走る。
豊久も即座に続く。
林の脇。
そこに老夫婦。
倒れた荷車。
散らばった薪。
そして——
三匹の野犬。
痩せ、毛は荒れ
牙を剥いている。
老爺は木の枝を構え
老女を庇っていた。
だが。
腕が震えている。
野犬が飛びかかる。
その瞬間。
「下がれ!」
豊久が踏み込む。
木の棒を拾い
野犬を薙ぐ。
鈍い音。
野犬が地面へ転がる。
もう一匹。
祐兵が前へ出る。
無駄のない動き。
足元の石を蹴り上げる。
石が野犬の鼻先へ当たる。
悲鳴。
怯む。
残る一匹が低く唸る。
だが。
祐兵の視線。
静かで鋭い。
野犬は一歩退く。
さらに。
豊久が棒を地面へ打ちつけた。
「失せろ!」
野犬たちは唸りながらも
やがて林の奥へ逃げていく。
静寂。
風だけが吹く。
「お怪我は」
豊久が老夫婦へ駆け寄る。
「だ、大丈夫じゃ……」
老爺が息を切らしながら言う。
老女はまだ震えていた。
祐兵が周囲を見る。
「噛まれてはいないな」
「はい……なんとか……」
老女が小さく答える。
小春が近づく。
老女の足元へ座る。
安心させるように。
「おや……」
老女の顔が少し緩む。
黒猫は少し離れた石の上。
林の奥をじっと見ていた。
警戒している。
「薪を運んでおったのですが……」
老爺が散らばった荷を見る。
「急に飛び出してきてのう……」
豊久が薪を拾い集める。
「もう大丈夫ですぞ」
祐兵は荷車を起こす。
車輪を確かめる。
「壊れてはいない」
老夫婦は何度も頭を下げる。
「助かりました……!」
「命の恩人です……」
「気にするな」
祐兵が静かに言う。
豊久が笑う。
「今後は暗くなる前に戻ることですな」
老爺が苦笑する。
「年寄りは遅いものでな……」
小春が「にゃあ」と鳴く。
老女が優しく撫でた。
「この子も助けてくれた気がします」
老女が微笑む。
黒猫は相変わらず無言。
だが林から目を離さない。
荷車を押し
老夫婦を町道まで送る。
夕陽が長く影を伸ばす。
「良かったですな」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵が頷く。
風が吹く。
夕暮れの匂い。
穏やかな静けさが戻ってくる。
二人と二匹は
再びゆっくりと歩き出した。




