第二百十三話 視線の影
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
午後。
春の陽はやわらかく
町には穏やかな往来が続いていた。
伊東祐兵と島津豊久は
通りを歩く。
香ばしい匂い。
湯気。
見慣れた茶店。
暖簾が揺れる。
「少し休みますか」
豊久が言う。
「……そうするか」
祐兵が頷く。
店へ入る。
木の香り。
落ち着いた空気。
「いらっしゃいませ」
看板娘が笑顔で迎える。
だが――
その笑みの奥に
わずかな揺らぎ。
祐兵の目が動く。
店の奥。
一人の老男。
禿げ上がった頭。
無言。
ただ……
娘を見ている。
じっと。
動かぬ視線。
「……あの」
娘が茶を運びながら
小さく声を落とす。
「少し……困っておりまして……」
「何があった」
祐兵が静かに問う。
「朝からずっと……」
娘の声はかすかに震える。
「何も言わず……ただ、ああして……」
豊久が振り返る。
老男。
瞬きも少ない。
ただ見ている。
「呼んでも返事は?」
「……ありません」
祐兵が立ち上がる。
静かに歩く。
足音も立てぬ。
老男の前へ。
立つ。
「何用だ」
低い声。
老男は動かない。
だが。
その目が、わずかに祐兵へ向く。
沈黙。
「ここは茶店だ」
祐兵が言う。
「客として来たのなら、茶を飲め」
「そうでないなら――」
一拍。
「その視線は、控えよ」
空気が張る。
老男の唇が動く。
かすかに。
「……似ている」
「何?」
豊久が眉をひそめる。
「昔……娘がいた」
老男の声。
かすれている。
「亡くした……」
店の空気が変わる。
静まる。
「この娘が……似ていた」
「だから……見ていた」
娘が息を呑む。
「……それは分かる」
祐兵が言う。
「だが、言葉もなく見続ければ」
「相手は恐れる」
老男は目を伏せる。
「……すまぬ」
小さく。
豊久が一歩出る。
「思い出は大切にすべきですが」
柔らかな声。
「今目の前にいる者もまた、大切に扱うべきですぞ」
老男は深く頷く。
「……そうだな」
やがて。
銭を置き。
立ち上がる。
去り際。
娘に向かい。
「怖がらせた」
一言。
娘は小さく頭を下げる。
「……いえ」
老男は去る。
背中は小さく。
だが、どこか軽くなっていた。
静けさが戻る。
「ありがとうございました……」
娘が深く頭を下げる。
「気にするな」
祐兵が言う。
豊久が笑う。
「今度からは、すぐに声をかけるのですぞ」
娘も少し笑う。
「はい!」
茶を飲む。
湯気が立つ。
穏やかな空気。
外では春の風。
町はいつも通り。
小さな誤解。
だが放っておけば影となる。
それをほどく。
それもまた――
二人の役目であった。




