第二百十話 湯煙の里
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
獣十番から数日。
山を駆け
雨に打たれ
罠を張り続けた疲れは
静かに身体へ残っていた。
朝。
伊東祐兵は
縁側で茶を飲んでいる。
そこへ足音。
「……身体が重いですな」
島津豊久が
肩を回しながら現れた。
「お前にしては珍しい」
祐兵が言う。
「獣十番で走り回りましたゆえ」
「確かにな」
しばし沈黙。
風が吹く。
その時。
「湯へ行くか」
祐兵が言った。
豊久の顔が上がる。
「湯治ですか?」
「ああ」
「良いですな!」
声が明るくなる。
二人は山あいの湯宿へ向かう。
道は静か。
木々が揺れ
鳥の声が響く。
やがて。
湯煙。
硫黄の匂い。
小さな湯治場。
「良い場所ですな……」
豊久が辺りを見回す。
「ああ。静かだ」
宿へ入る。
年老いた女将が迎える。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声。
部屋へ荷を置き。
二人は湯へ向かう。
湯気。
白く立ち込める。
岩造りの湯船。
湯が静かに流れている。
「ふぅ……」
豊久が肩まで浸かる。
「これは……生き返りますな」
祐兵も静かに湯へ入る。
熱が身体へ広がる。
疲れがほどけていく。
しばし。
言葉はない。
湯の音だけ。
「上井殿、悔しそうでしたな」
豊久がぽつりと言う。
「ああ」
祐兵が頷く。
「だが、嬉しくもあったのだろう」
豊久が少し驚く。
「そうでしょうか」
「お前が成長している。上井殿は、それを見た」
湯気の向こう。
豊久は静かに笑う。
「……なら、良いのですが」
露天へ出る。
外の風。
山の景色。
湯煙が空へ溶けていく。
「静かですな」
「ああ」
遠くで川の音。
葉擦れ。
鳥の鳴き声。
「戦の音が遠い」
豊久が言う。
「今は、それで良い」
祐兵が答える。
湯から上がる。
身体は軽い。
血が巡る。
夕餉。
山菜。
川魚。
素朴な料理。
だが旨い。
「湯の後の飯は違いますな」
豊久が笑う。
「いつも言っている」
祐兵が静かに返す。
夜。
虫の声。
窓の外には月。
「良い湯治でした」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵も頷く。
戦も鍛錬も離れた一日。
湯煙の中で。
二人は静かに疲れを癒していた。




