第二百九話 獣十番・下編
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
上井 覚兼…『伊勢守心得』や『上井覚兼日記』の著者。彼の日記には火縄銃を担いで猪や鹿を狙いに連日山野に繰り出した様子が記されている。
小春と黒猫…二人の飼い猫
山。
深い森。
湿った土。
獣の匂い。
そして——
轟音。
火縄銃の音が響く。
「一本じゃ!」
上井覚兼が笑う。
倒れた猪。
正確な一撃。
無駄がない。
さらに。
銃声。
また一頭。
三頭。
四頭。
「速い……!」
島津豊久が歯を食いしばる。
伊東祐兵は静かに周囲を見る。
「火縄銃の間合いと経験か」
祐兵と豊久は
二手に分かれて狩っていた。
だが。
「このままでは負けまする」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵が頷く。
「二人で戦わねば勝てぬ」
その言葉に。
豊久の目が変わる。
「はい!」
二人は合流する。
祐兵が流れを読む。
豊久が追う。
役割が噛み合う。
獣道。
土の荒れ。
折れた枝。
気配。
祐兵が静かに指す。
「あそこだ」
豊久が回り込む。
気配を消す。
猪が飛び出す。
その先。
祐兵が矢を放つ。
命中。
「一本!」
追い上げる。
続けて、五頭。
だが。
遠くからまた銃声。
上井。
六頭目。
「くっ……!」
豊久が拳を握る。
その時。
風が渦を巻く。
木々が揺れる。
『焦っておるのう』
声。
枝の上。
木乃葉天狗が座っていた。
「木乃葉天狗殿!」
豊久が声を上げる。
「狩りとは、獣を追うだけではない」
天狗が笑う。
「獣を、獣で狩ることもある」
祐兵の目が細くなる。
「……なるほど」
この山。
この狩場。
歩いた数。
獣道。
水場。
風向き。
それを知っているのは——
二人の方だ。
「祐兵殿!」
豊久が言う。
「獣道は一つではありませぬ!」
「ああ」
祐兵が頷く。
「罠を張る」
二人は動く。
縄。
落とし穴。
枝を利用した跳ね罠。
獣道を読む。
流れを読む。
その頃。
上井はさらに猪を仕留める。
七頭。
八頭。
「勝負ありか!カッカッカッ!」
上井が笑った。
その時。
空が鳴る。
風が変わる。
ぽつり。
雨。
やがて本降り。
「む……!」
上井が顔をしかめる。
火縄。
湿気。
雨。
「このままでは、火が死ぬか……!」
慌てて、近くの古小屋に入り
火縄銃を手入れする。
しばらく火縄銃は使えない。
その間にも。
祐兵と豊久は動く。
罠を張る。
追い込む。
誘導する。
罠が鳴る。
猪が転ぶ。
豊久が止める。
祐兵が射る。
九頭。
さらに。
別の獣道。
祐兵が静かに言う。
「く、来る」
土が鳴る。
猪。
突進。
だが。
足が跳ね上がる。
罠。
一瞬止まる。
豊久が飛び込む。
「これで——!」
槍が突き出される。
十頭目。
静寂。
雨音だけが残る。
上井覚兼は
しばし立ち尽くす。
そして。
やがて笑った。
「……負けたな」
豊久が息を整える。
「上井殿……」
「私は少々、自惚れていたようだ」
上井が言う。
「狩りが得意だとな」
雨が静かに降る。
祐兵は黙って聞いている。
「だが、お前たちは違った」
上井の目が豊久を見る。
「一人ではなく、二人で勝った」
豊久は静かに頭を下げる。
上井は小さく笑う。
「義弘様には、うまい言い訳を考えておこう」
そして。
祐兵へ向き直る。
「祐兵殿」
深く頭を下げる。
「豊久を、頼みます」
祐兵も静かに頷く。
「わかっております」
上井は背を向ける。
雨の中を歩く。
その背は小さくない。
豊久が見送る。
静かに。
木乃葉天狗は
枝の上で笑った。
『良い勝負であったのう』
山に雨が降る。
獣十番。
その決着は。
ただの勝敗ではなく——
二人の絆を、さらに深く刻むものであった。




