第二百八話 獣十番・上編
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
上井 覚兼…『伊勢守心得』や『上井覚兼日記』の著者。彼の日記には火縄銃を担いで猪や鹿を狙いに連日山野に繰り出した様子が記されている。
小春と黒猫…二人の飼い猫
昼。
春の風が庭を抜ける。
伊東祐兵は
縁側に座し、茶を飲んでいた。
その隣には
島津豊久。
穏やかな時間。
——その時。
門の外から声。
「薩摩より参った!」
低く、通る声。
やがて現れた男。
鋭い目。
旅の埃をまといながらも
隙がない。
上井覚兼。
島津家の宿老であり
老練の武士。
「久しいな、豊久」
「上井殿……」
豊久が目を見開く。
祐兵は静かに立ち上がった。
「島津義弘様が、お前に会いたがっておられる」
上井の言葉。
真っ直ぐ。
迷いがない。
「戻れ、豊久」
庭に風が吹く。
静寂。
豊久は目を伏せる。
だが。
やがて顔を上げた。
「……申し訳ありませぬ」
低く。
しかし確かな声。
「私はまだ、祐兵殿のもとで学びとうございます」
上井の目が細くなる。
「戻らぬと申すか」
「はい」
「義弘公のお言葉よりもか」
「違います」
豊久は即座に返す。
「だからこそです」
「私はまだ未熟」
「祐兵殿から学ぶべきものが、まだ多くある」
「今戻れば、中途半端になります」
静かな空気。
上井は豊久を見る。
そして。
祐兵へ視線を向けた。
「……なるほど」
小さく息を吐く。
「だが、それでは帰れぬ」
豊久の表情が引き締まる。
「では、どうされます」
その時。
上井の口元がわずかに動く。
「決めようではないか」
「勝負で」
風が止む。
豊久の目が光る。
「勝負?」
「ああ」
上井は笑う。
「猪を十頭だ。先に十頭仕留めた方の勝ちだ」
豊久が息を呑む。
祐兵は静かに聞いている。
「私は火縄銃を使う」
上井が言う。
「お前たちは好きにしろ」
「勝てば……」
上井の目が豊久へと向く。
「お前はここに残れ」
「負ければ?」
豊久が問う。
「共に薩摩へ戻る」
静寂。
鳥の声だけが遠い。
豊久は祐兵を見る。
「祐兵殿」
祐兵は短く息を吐く。
そして。
「受けよう」
静かな声。
だが揺るがぬ。
豊久の顔に熱が宿る。
「はい!」
上井は笑った。
「良い目になったな、豊久」
その日のうちに。
三人は山へ向かう。
深い森。
獣道。
土の匂い。
「では始めるぞ」
上井が火縄銃を肩に担ぐ。
「上井覚兼の『獣十番』だ」
風が吹く。
山が静まり返る。
そして——
銃声。
轟音が森を裂いた。
『獣十番』
開始。




