第百九十六話 春野の雉
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
朝。
城下を離れ
野へ出る。
若草の匂い。
風は柔らかい。
伊東祐兵と島津豊久は
静かに歩いていた。
手にあるのは木ではない。
弓と矢。
「今日は雉ですな」
豊久が声を潜める。
「ああ」
祐兵は頷く。
「この辺りに出るはずだ」
草むらが揺れる。
小さな気配。
二人は足を止める。
「……居る」
祐兵の声は低い。
豊久はゆっくりと腰を落とす。
音を立てぬよう。
呼吸を抑える。
遠く。
赤みを帯びた羽。
一羽の雉。
地をつつきながら
ゆっくりと動いている。
「良い距離ですな」
豊久が囁く。
「焦るな」
祐兵は弓を構える。
弦がわずかに鳴る。
空気が張り詰める。
一瞬。
風が止む。
その時。
放つ。
矢が走る。
鋭く。
迷いなく。
羽音。
雉が跳ねる。
だが——
矢は外れない。
草の中へ落ちた。
静寂。
「見事ですな」
豊久が息を吐く。
「ああ」
祐兵は弓を下ろす。
二人はゆっくりと近づく。
そこに横たわる雉。
命の重み。
春の中で
静かに終わった一つの時。
「いただきます」
豊久が頭を下げる。
祐兵も同じく。
「無駄にはせぬ」
短く言う。
帰り道。
籠には雉。
空は高く。
風が抜ける。
「どう料理しますか」
豊久が問う。
「鍋が良い」
祐兵が答える。
「骨から出る出汁が旨い」
「良いですな……!」
豊久の顔がほころぶ。
館に戻る。
火を起こす。
水を張る。
雉を捌く。
手際は無駄がない。
やがて。
鍋が煮える。
香りが立つ。
「これは……たまりませんな」
豊久が身を乗り出す。
「まだだ」
祐兵が止める。
「もう少し」
頃合い。
椀に盛る。
湯気。
春の香り。
「では——」
「いただきます」
二人は同時に口にする。
「……美味い」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵も頷く。
静かに。
だが確かな満足。
外では風。
草が揺れる。
命をいただき
力に変える。
それもまた
武の一つ。
「また行きましょう」
豊久が言う。
「ああ」
短く。
だが約束の声。
春の一日が
静かに暮れていく。




