第百九十四話 春の城下
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
鍛錬の後。
日が昇りきり
空はやわらかな青に変わっていた。
庭の空気も
どこか緩む。
「良い汗でしたな」
島津豊久が
肩を回す。
伊東祐兵は
静かに頷いた。
「体も温まった」
「では——」
豊久が笑う。
「城下へ参りませぬか」
「また急だな」
「こういう日は、歩くに限りますぞ」
祐兵は一瞬だけ考え
やがて頷いた。
「よかろう」
簡素な装いに着替え
二人は城下へ出る。
通りには朝の活気。
店が開き
人の声が行き交う。
「朝の市は気持ちが良いですな」
豊久が言う。
「ああ。人の動きが素直に見える」
祐兵の目は
静かに周囲を追っていた。
魚売りの声。
野菜を並べる農民。
行き交う町人。
その一つ一つが
確かな暮らしを映している。
「祐兵殿、あれを」
豊久が足を止める。
団子屋の前。
湯気が立ち
甘い香りが流れてくる。
「……やはりここに来たか」
「これは見過ごせませぬ」
祐兵は小さく息をつき
銭を出した。
「一本だけだぞ」
「二本では?」
「一本だ」
「……では一本で」
二人は団子を手に
歩き出す。
「うむ……美味い」
祐兵が静かに言う。
「でしょう!」
豊久が笑う。
通りを進むと
鍛冶場の音が響く。
「あれを見てみよ」
祐兵が止まる。
槌の音。
一定の調子。
無駄のない動き。
「良い仕事だ」
「ええ……見事ですな」
豊久も見入る。
火花が散り
鉄が形を変えていく。
職人の額には汗。
だが、その手は迷わない。
「武と同じだ」
祐兵が呟く。
「一打ごとに意味がある」
豊久が頷く。
さらに歩く。
川沿いへ出る。
水は静かに流れ
春の光を映している。
子供たちが
浅瀬で遊んでいた。
「お侍さま!」
一人が駆け寄る。
「見てください!」
小さな魚を掲げる。
「ほう」
豊久がしゃがむ。
「見事だ」
「逃げませんでした!」
誇らしげな顔。
「良い腕だ」
祐兵も言う。
子供は嬉しそうに
仲間の元へ戻っていった。
しばし
水の音を聞く。
風が吹き
草が揺れる。
「……平和ですな」
豊久が言う。
「ああ」
祐兵は短く答える。
「こうして、笑っておる」
「それを守るのが——」
「我らだ」
言葉は短い。
だが、重い。
帰り道。
陽は高く
町はさらに賑わいを増していた。
「良い散策でしたな」
豊久が満足げに言う。
「ああ」
「鍛錬とはまた違う学びがあります」
「目で見ることだ」
祐兵が言う。
「書には書かれておらぬものがある」
「それを感じるのですな」
「そうだ」
館が見えてくる。
門の前。
小春が待っていた。
「にゃあ」
「おや、迎えか」
豊久が笑う。
祐兵は小さく目を細めた。
「さて——」
「次は何を学ぶか」
春の風が吹く。
穏やかな一日。
その中で。
二人はまた
次の時へと歩みを進めていく。




