第29話 グランドクラフト
ミーシャがアルバートを引き受けている間に、愁はレイネスのもとへと戻り、静かに準備を整えていた。
これから彼が試みるのは、クラフトマスターだけに許された禁断の創造術――〈創造神への挑戦〉。それは名の通り、“神”の領域に踏み入る行為であり、通常のクラフトとは一線を画す、まさに異次元のスキルだった。
この〈創造神への挑戦〉において創造されるのは、伝説に謳われし『三種の神器』。ただし、選べるのはそのうちのひとつ。ひとたび選べば後戻りはできず、成功すれば神の遺産が現世に顕現し、失敗すれば素材も挑戦もすべて虚空へと消える。まさに『創造神への挑戦』――それは誇張でなく、名実ともに命を懸ける試練だった。
一つ目の神器は〈再生の書〉。開けば、どんな致命傷も癒し、死すらも覆すと言われる奇跡の書物である。魂が砕けようとも、それを繋ぎ止める最後の灯火だ。
二つ目は〈神造聖剣エクスカリバー〉。古より語り継がれ、数多の戦神に認められた伝説の剣。その輝きは夜を裂き、敵意を焼き払う正義の象徴であり、ゲーム内に存在するすべての剣の中でも最強クラスとされる『概念剣』と並ぶ存在である。
そして三つ目が〈神造聖盾アイギス〉。神の加護が宿るとされる盾は、世界の理に背く攻撃ですら防ぐという。絶対防御の化身とも言える代物だ。
これら『三種の神器』は、どれも使い切りで回数制限があり、なおかつクラフトマスターにしか扱えない、まさに“神の秘宝”だった。
だが、〈創造神への挑戦〉自体は、実のところ作業内容だけを見れば単純とも言える。必要な六十種類の素材を所持し、詠唱によって異空間の神殿を召喚。その内部で出現するコンソールに対して、素材を『正しい順序』に並べ直す。それだけだ――しかし、制限時間はわずか六十秒。つまり、一秒に一素材を正確に配置しなければ成功はおぼつかない。
さらに、この挑戦は一日に一度きり。失敗は即ち“その日一日、奇跡を得る資格を失う”ことを意味していた。
愁は、アイテムボックスの代わりとして使用している『エンドレスボックス』の中を丁寧に確認し、六十種すべての素材が揃っていることを確かめると、ゆっくりと息を吸い込み、そして静かに吐き出した。
(……よし、素材はある)
その時だった。柔らかな気配とともに、隣にスフィアが歩み寄ってきた。
「主様……その……身体は、本当に……大丈夫なのか?」
先ほど、愁が命を落としたあの瞬間を目の当たりにしたスフィアは、不安げに愁の顔を見つめる。その瞳は、かすかに潤んでいた。いつもは快活で、どこか子供じみた無邪気さを見せる彼女からは想像できないほど、繊細な光がそこにはあった。
(無理もないか……俺、首を跳ね飛ばされたんだもんな)
「スフィア、ごめん。心配かけたね。でも大丈夫。あれは俺が持ってる特殊なアイテムで“死の結果”を改変しただけだから。まあ、実際には一度死んだけどさ……」
「……ほ、ほんとに……びっくりしたんだぞ……!」
スフィアは突然、愁の腕を強く掴んで引き寄せた。その小さな身体が、寄り添うようにぴたりとくっつく。震えるように触れたその体温が、愁の胸にじんわりと沁みた。
「どうしたの?スフィアにしては、らしくないよ」
「だ、だってっ!ほんとに死んじゃったかと思ったんだぞ!もう……もう一生、主様と話せないんだって思ったら……そ、それくらい、言わなくても……わかれ、ばか……!」
潤んだ瞳の奥に浮かぶ想いは、言葉にしなくても伝わってくる。これまで何度も死線を共にくぐり抜けてきたスフィアだったが、今この瞬間だけは――神話の大戦を生きた英雄でも、森の管理者でもない。ただのひとりの少女だった。
愁は、そんな彼女を見つめながら、静かに自分の心と向き合う。
「……そうだよな。俺がみんなを誘ってこの旅に巻き込んでおいて、あの瞬間、俺は……心の底で“もう無理だ”って、勝てるわけないって、そう思って……諦めかけたんだ」
自分の弱さには、とうに気づいていた。けれど、“死”という現実が目の前に現れたとき、愁は思っていたよりずっと脆く、逃げ腰だった。ほんの一瞬とはいえ、“守るべき者”の存在すら頭から零れ落ちた。それが愁にとって、痛烈な後悔となって残っていた。
(俺は……まだまだ弱い。こんなんじゃ、誰も守れない)
胸の奥に刺さったその想いは、まるで冷たい刃のように愁の内側を切り裂いていた。だが、その痛みの中にも、確かな決意の灯火が宿り始めていた。敗北と恐怖を知ったからこそ、もう一度、立ち上がる覚悟が生まれる。
「主様?……以前にも言ったと思うが」
寄り添うように傍にいたスフィアが、愁の腕にそっと回していた手に力を込めた。その小さな手から伝わる温もりは、どこか震えていた。
「我は、主様が大切だ。傷ついてほしくないし……一人で、何もかも背負ってほしくない。もっと、頼ってほしいのだ。もう、大切な人に置いていかれるのは……嫌なんだ」
その声音は震えていた。いつも強気で、どこか小悪魔のように愁を翻弄する彼女の姿はそこになく、ただ、ひとりの少女としての素直な想いが込められていた。
スフィアの過去。彼女が何を失い、どんな孤独を歩んできたのか――その全てを愁は知らない。何度か問いかけようとしたこともあったが、結局は言葉にならず、口にすることはなかった。だが、それでも『置いていかれること』を何より恐れる彼女の心情だけは、痛いほどにわかる。
だからこそ、愁は答えた。ただ強がるのではなく、正直な心で、想いを伝える。
「……わかったよ、スフィア。俺はもっと強くなる。スフィアや、みんなとずっと一緒にいたいから。守るだけじゃなくて、支え合えるように。今の俺には……それが必要なんだって、ようやくわかったよ」
「うん、うんっ!それでいいんだ!これからは、ちゃんと頼れよな!我たちは、ずっと主様のそばにいるんだから!」
涙をにじませながらも、スフィアは満面の笑顔を浮かべた。その姿に愁の心もほぐれて、自然と笑みがこぼれる。緊張でこわばっていた胸の内が、柔らかくほどけていくようだった。
彼は気持ちを切り替える。これから挑むのは〈創造神への挑戦〉――想像を超える集中力と精神力を求められる儀式。迷いや動揺は命取りとなる。
「よし。俺は、レイネスさんを助けてくる。絶対にやりきってみせる。……ところで、璃里はどこ行ったの?」
周囲を見渡す愁。緊張の中で気づかなかったが、さっきまで傍でレイネスを癒していたはずのリリーニャの姿が見えない。
「ああ、リリーニャならライトたちのところへ向かったぞ。『自分にもできることをする』って言ってた」
「そっか……璃里も、頑張ってくれてるんだな。だったら俺も、自分のやるべきことを全うしなきゃな」
愁は深く頷きながら決意を固め、スフィアに向き直った。
「今から始めるから、少しだけ離れて見ててくれる?」
「むぅ……」
スフィアは不満げに唸り、小さく唇を尖らせたかと思うと、腕にさらに強くしがみついてきた。その柔らかな双丘の感触が愁の腕に伝わり、理性を静かに試してくる。
(いやいや……今は集中しないと……!)
「あ、あの、スフィアさん……?」
戸惑いの声を漏らす愁に対し、スフィアは不意に視線を逸らし、もじもじと俯いてしまう。言いかけた言葉が、喉の奥でくぐもったままだ。
「スフィア……?」
そっと問いかけた瞬間、腕が急に引っ張られる。予想外の力に体勢を崩した愁が視線を向けると、そこにあったのは――ふわりと触れた、柔らかな唇。
それは以前、お礼として受けたあのキスと同じ、けれど少しだけ違っていた。心の奥深くにまで届くような、優しく、けれど確かな想いが込められていた。
唇が離れた瞬間、スフィアは腕を放し、頬を紅に染めたまま、照れ隠しもせず笑った。
「……頑張ってな!」
その一言が、愁の胸をじんわりと温めた。ガバレント奪還、リルアの義足、帝国への旅路――様々な出来事が胸をよぎる。そして今、頬に残った柔らかな感触が、愁の心をわずかにかき乱した。
(……これは逆効果だって……)
愁はスフィアの無邪気な笑顔に苦笑しながら、それでも真っ直ぐな眼差しで応えた。
「が、頑張ります……!」
「うむっ!よき返事だ!我は後ろから見守っているからな!」
スフィアが数歩下がり、見守る体勢に入る。その後ろ姿に、愁は小さくため息をついた。動揺はしても、もう揺るがない。今度こそ、心を研ぎ澄ますときだ。
大きく息を吸い、そして静かに吐き出す。冷えた空気が肺を満たし、吐息とともに胸の奥から熱が灯る。その熱は、心の揺らぎを鎮めるように全身へと広がり、やがて精神は澄みきった鏡面のような静けさを纏っていく。
「――よし。行こう」
愁は両腕を広げ、掌に意識を込める。その動きはまるで天と地を繋ぐ祈りの所作のように神聖で、静かな覚悟が込められていた。
〈創造神への挑戦〉に限らず、『WORLD CREATOR』という世界では、『意識』『イメージ』『言葉』――この三つが創造の根幹をなす。今まで何度もこの儀式を経験してきたが、今回は決定的に違っていた。背負うものが『人の命』――それだけに、責任の重みが全身を貫くように圧し掛かっていた。
(集中しろ……惑うな、心を澄ませ……)
次の瞬間、愁の両手から柔らかな黄金の光が湧き出し、まるで空間そのものを染めていくように広がった。それは祈りに応えるように、静かに、けれど確かにクラフトの始まりを告げる光だった。
愁は目を閉じ、脳裏に焼きついている詠唱を呼び起こす。そして一語一語、魂を込めて言葉を紡いだ。
「創造を極めしマスターの冠位を以て命ずる。神が造りし『三種の神器』を我が手に。神への挑戦を望む。我、求めるは――創造神ロォウラン=アイラスへと続く道なり」
その言葉が空に解き放たれた瞬間、世界が震えた。
雷鳴のような音が空の彼方から響き渡り、遥か上空、雲すらも穿つようにして、荘厳なる神殿が現れる。その神殿は黄金と白銀の光を帯び、天と地の狭間に浮かぶようにして鎮座していた。そして、神殿へと続くのは半透明の階段。煌めく光の板が次々と空中に並び、ひとつ、またひとつと、愁の足元へと降りてくる。
「よし……ここまでは、ゲームの時と同じだな」
淡く光る階段にそっと足を乗せ、愁は時の止まったままのレイネスの体をそっと抱き上げた。温もりのないその身体に、命の炎を再び宿すために。
一歩、また一歩と階段を登るたび、背後の足場は儚く消えていく。まるで“後戻りは許されない”と世界が告げているようだった。
やがて視界の先に、無数の巨大な柱が天を突くように立ち並ぶ壮麗な神殿が現れる。こここそが、かの創造神ロォウラン=アイラスと謁見を果たす場所――『神の座』。
この空間に足を踏み入れることが許されるのは、創造の極みに至ったクラフトマスターのみ。ゲーム中でも、特定の条件を満たした者にしか辿り着けない、神域とも言うべき場所である。
神殿の中央には、幾柱もの神々を模した像が左右に並び、まるで試すかのようなまなざしを投げかけている。その視線の中、愁はひたすらまっすぐに、円形の広間へと歩を進めた。
中央には祭壇が据えられていた。そこが〈創造神への挑戦〉の儀式が行われる場。さらにその奥、階段の上には玉座があり、そこには、眩い光に包まれながら、ひとりの女性が静かに座していた。
その姿は、どこか古代ギリシャのキトンを思わせる飾り気のない純白の衣に包まれ、神聖でありながらも穏やかな佇まいを纏っていた。
白銀の長髪は、光を受けて虹のような輝きを放ち、その顔立ちはまさに“完成された美”。見る者の心を奪う、幻想のような麗しさ。男であろうと女であろうと、誰もが息を呑む美貌を持つ女性――彼女こそ、創造神ロォウラン=アイラス。
『WORLD CREATOR』の中で彼女は、ミーシャと並び、“世界三大美女”のひとりとされ、その存在は圧倒的な人気を誇った。彼女に出会うためだけにクラフトマスターを目指す者すらいたほどである。
(……やっぱり、美しいな……)
愁は静かに息を呑み、レイネスを腕に抱えたまま、その視線をまっすぐに向けた。
そのとき――
「汝、何を求める」
ロォウラン=アイラスの唇が微かに動いた。澄んだ水のような声が神殿に満ち、空気を震わせる。その声音には威圧感はなく、しかし抗えぬ“絶対の力”を孕んでいた。
愁は唇を噛み締め、抱える少女の傷だらけの身体に視線を落とす。
(レイネスさん。……あなたは俺が、必ず助けますからね)
その静かな決意が、愁の胸に確かな熱を灯していた。
全ては、この『一歩』に懸かっている──愁は静かに息を吸い込み、心の迷いを押し殺すように吐き出すと、鋭く澄んだ瞳でロォウラン=アイラスを見据えた。
「我、求めるは再生の書」
その一言が、すべてを動かす。
〈創造神への挑戦〉においては、『三種の神器』のうち何を望むかを宣言することで、コンソールとしての役目を果たす祭壇が輝き出し、いよいよ〈創造神への挑戦〉が可能となる。
(頼む……反応してくれ)
愁の内なる祈りと共に、祭壇は徐々に光を帯びはじめた。
やがて淡い金色の輝きが広がり、空間に透けるようなコンソール画面が浮かび上がる。──ここまでは、彼が幾度となくゲームで経験してきた通りの流れだった。
その間、ロォウラン=アイラスは、まるで演出装置のように微動だにせず、次なる言葉を発する様子もない。
愁は一瞬、『もしかすると……ロォウラン=アイラスにも自我が?』という考えが脳裏をよぎったが、どうやら今は“ただのシステム”に徹しているらしい。
静寂の中、愁は慎重にレイネスを抱きかかえ、祭壇の傍らへとそっと降ろした。
時計を確認する──時間停止の効果が残るのは、あと十分。十分すぎるほどの猶予がある。焦らなければ、間に合う。
「やるぞ……!」
小さく自らに言い聞かせるように声を発し、愁は祭壇に手をかざした。すると、彼の身長に合わせるようにコンソールが上下し、最適な位置に収まる。
画面中央に浮かぶ『開始』の文字──それに指先を重ねるだけで、〈創造神への挑戦〉は正式に幕を開ける。
素材も、配列も、順番も、完璧に覚えている。幾百回と挑戦し、反復の果てに頭に刻み込まれた記憶。それに偽りはない。しかし、それでも──この挑戦で失敗する者の多くが、最も単純な“操作ミス”によって脱落していくのだ。
開始と同時に、六十種類の素材が祭壇上の円周に沿ってランダムに出現する。外周には時計回りに一から六十の数字が振られており、初期配列は常にバラバラ。
プレイヤーはそれらを一秒につき一つという驚異的な速さで正しい順番に並べ替えねばならない。
しかも、外部資料による参照──いわゆる“カンニング”は不可能。すべての素材名と、その配置順序を丸ごと暗記していなければならないという、まさに記憶と集中の極限を試す挑戦だった。
心臓が、強く、高鳴る。鼓動が耳の奥で波打ち、緊張で汗ばむ掌がわずかに震えているのを、愁は自覚していた。
だが、この一瞬の怯みが命取りになる。冷静さこそがすべて。
愁は意識的に深く、そして長く息を吸い込むと、肺の奥にまで酸素を送り込んだ。そして、静かに吐き出す──二度、三度と繰り返し、心と身体を静めていく。
雑念を振り払い、集中の芯を研ぎ澄ます。その視線はやがて、コンソール中央に表示された『開始』に定まり──愁は、ためらいなくタップした。
──光が一閃。円形に並ぶ素材が瞬時に現れ、回転するように視界を満たす。
今、この瞬間、〈創造神への挑戦〉が始まった。それは、レイネスの命を背負った、愁の孤独な戦いの始まりだった。




