第4.5話 不穏
今朝も、ユアとの剣の修行が始まった。昨日の宴で賑やかなひと時を過ごした分、今日はしっかりと鍛錬に向き合う必要がある。『任務中のメリハリ』を大切にしているアルバートにとって、ユアとの稽古は特別な意味を持つものだった。日に日に成長し、教えた技術を瞬く間に吸収していく弟子。そのユアが、自分なりの工夫で剣筋を進化させる様子を目にするたび、アルバートは自然と教える手にも熱が入った。
「ユア!左からの打ち込み後の返しが遅い。受け流すか避けるか迷っていては、その『迷い』が命取りになる。私とは何度も剣を交えているだろう。それくらいは見切れなければ、初見の相手には到底勝てないぞ!」
鋭い指摘に、ユアは真剣な表情で頷く。しかし、アルバートは内心で彼女の努力を十分に理解していた。『同じ動きを繰り返さない』ことを自分の信条としている彼の剣技を、ここまで的確に受けているのは十分に優れた証だ。それでも、アルバートがあえて厳しい言葉を選ぶのは、ユアにさらなる高みを目指してほしいという願いからだった。
「わかりました!もう一回お願いします!」
普段のユアはわがままでふざけることも多いが、剣を握る瞬間だけは真剣そのものだ。その純粋な強さへの渇望に、アルバートは初めて出会った日の彼女の姿を重ねる。迷うことなく『自分の道』を進もうとする彼女の瞳は、何よりも強い意志を宿していた。だからこそ、彼は時に厳しく、時に手を貸しながらも、全力で彼女を導いていた。
修行は約二時間に及んだ。寒さの残る季節にもかかわらず、ユアは額に汗を浮かべながらベンチに腰掛けている。頬は紅潮し、息を整えながらも、どこか満足げな表情を浮かべていた。
「ふぅ……暑いけど寒いです!」
風が吹くたびに、冷えた空気が汗で湿った身体を包み込み、ユアの肩を震わせる。アルバートはそんな彼女に冷静に声をかけた。
「風呂にでも入ってこい。風邪をひくぞ」
「うー、風邪はひきたくないです!お風呂、入ってきます!」
ユアは元気よく立ち上がり、部屋の方へ向かおうとした。しかし、何かを思い出したように振り返り、アルバートをじっと見つめた。
「……あっ!そうだ!」
「ん?どうした?」
「お師匠さまも一緒に入りますか?」
ユアは満面の笑みを浮かべ、まるで小悪魔のような発言を口にした。これは明らかに彼女特有の悪ふざけだろう。アルバートは内心で溜息をつきつつ、淡々と返す。
「変な冗談を言うな。早く行け。風邪をひくぞ」
「はーい、残念!お師匠さまは照れ屋さんですね~!」
捨て台詞を残して去る彼女を見送りながら、アルバートは小さく首を振った。彼女の元気な様子を目にするたびに、心のどこかでほっとする自分がいるのを感じる。『あれほどのエネルギーはどこから湧いてくるのか?』と、ふと疑問を抱きながら、彼はベンチに腰掛け直した。
一方で、アルバートの表情には次第に曇りが差し始めていた。最近、彼の思考は何度も不意に『何か』に遮られる感覚に襲われている。それは強制的に思考が切り替わり、陛下の命令を絶対とする意識に支配される瞬間だった。忠誠心に基づくものであることは理解している。しかし、それが自分の心さえもねじ曲げるほど強力であることに、彼は危機感を覚え始めていた。
(これは……同じ勇者であるクミラも、同じ状況にあるのだろうか?)
答えを求めるように、彼は立ち上がり、クミラに相談しようと歩き出した。だが、足を踏み出したその瞬間、何かに気づいて動きを止める。遠くから、自分を見つめる視線を感じたのだ。
反射的に腰の剣に手をかけ、視線の方向を睨む。そこには、金色の髪を持つエルフの男が立っていた。彼の端正な顔立ちと堂々たる佇まいは、『ただ者ではない』という威圧感を漂わせている。直線距離にして約二百メートル。それだけ近くにいるにもかかわらず、気配を感じられなかったことに、アルバートは内心驚きを隠せなかった。
「あなたは?いつからそこに居たのですか?」
冷静さを装い、声をかける。しかしエルフの男は答えず、無言のままアルバートを見据えていた。そして、しばらくの沈黙の後、低く響く声で静かに告げる。
「メラリカを……妹を、父上に、キアナ国王に会わせてはならない」
「メラリカ?それは誰のことですか?」
アルバートが問い返そうとした瞬間、背後から知り慣れた気配が漂ってきた。反射的に振り返ると、そこには軽やかに手を振りながら駆け寄ってくるクミラの姿があった。その間に、先ほどまで確かにいたエルフの男の姿は、まるで霧が晴れるように掻き消えていた。
「あっ!アルバートさん!ここにいたんですね。探しましたよ!」
明るい声が響くが、アルバートの胸中では、エルフの男が残した一言が深く引っかかっていた。『メラリカを国王に会わせてはならない』――その謎めいた警告が、不吉な影を落としている。
「ああ、クミラか。どうかしたのか?」
努めて平静を装いながらアルバートが応じると、クミラは首をかしげて少し照れくさそうに言った。
「たいした用事じゃないんですけど、良かったら一緒にご飯でもどうかなって思いまして。あれ?ユアちゃんはいないんですか?」
クミラの視線が辺りを探すが、ユアの姿はどこにもない。ついさっき部屋に戻ったばかりなので、入れ違いとなりタイミングが合わなかったのだろう。
「ユアは風呂に行ったぞ。部屋で待っていれば、すぐに会えるだろう。一緒に戻るか?」
「あ、はい!じゃあユアちゃんと合流してから、ご飯にしましょう!」
アルバートは念のため、〈空間支配〉と〈気配探知〉を発動し、付近の異変を探った。しかし、特筆すべき気配は何も感じられない。むしろ、この城の守りは異常なほど手薄だった。だが、それ以上に不可解なのは、先ほどのエルフの男だ。あれほどの手練れであれば、通常は何らかの痕跡を残すものだが、それらもすべて完全に消え失せていた。
残された唯一の手掛かりは、彼が告げた名前――メラリカ。
「クミラ。メラリカというエルフの女性を知っているか?」
「メラリカ?……いえ、聞いたことがありませんね。その方がどうかしたんですか?」
「いや、まだ何とも言えない。ただ、もしその名前を耳にしたら知らせてくれ」
「わかりました。後でユアちゃんにも聞いてみますね」
二人で部屋に戻ると、部屋中に石鹸の柔らかな香りが漂っていた。ユアは風呂から上がり、着替えも済ませたようで、ソファーに寝そべって健康的に引き締まった足をぷらぷらと揺らしている。
「あっ!お帰りなさい!」
ユアの快活な声に、アルバートはどこか救われた気持ちになる。
「ああ、ただいま。いきなりだが、ユア。メラリカという人物に心当たりはないか?」
「メラリカ……?あっ!知ってますよ!」
即答するユアにアルバートの眉が動く。
「本当か?どこで会った?」
「はい!リアちゃんをギルドに送っていった時に迎えに来た二人組のうちの一人がメラリカさんでしたよ!」
アルバートの目が見開かれる。リア――黒髪の少年、愁が保護している亜人の子供であり、ユアの友人の一人だ。もしその迎えに来た者の一人がメラリカだとすれば、彼女は間違いなく愁と関係が深いはずだ。
(これは……何か掴めるかもしれない)
「ユア。その時の彼女の特徴や様子を覚えているか?」
「えっと、エルフで金髪の女性でしたね。丁寧な人で、リアちゃんをすごく大切にしているみたいでした」
愁の捜索は現在、アルバートが護衛任務中ということで一時中断しているが、見つけられるならばそれに越したことはない。ユアの事もあるので、手荒な真似をするつもりはないが、陛下の命令は絶対だ。最悪殺すことになろうとも無理矢理にでも捕まえて連れていく必要がある──陛下の命令が脳裏にこびりつく。しかし、その命令に従うことへの違和感が、アルバートの中で膨らみ続けていた。
(……命令を遂行するためなら、殺す……?俺がそんなことを……?)
「お師匠さま?なんだか顔色が悪いですよ、大丈夫ですか?」
ユアの心配そうな声に、アルバートはわずかに笑みを浮かべた。
「ああ、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだ」
再び襲い来る、意識がねじ曲げられるような感覚。それが何かは分からない。だが、それが陛下の命令に起因するものだという確信だけは揺るがなかった。
「明日は城下町に出向こうと思う。メラリカというエルフを探すためにな」
「メラリカさんがこちらに?」
「ああ。少なくとも国王に会わせてはいけない理由があるらしい」
「理由……?」
クミラとユアの表情に一瞬の疑念がよぎる。しかし追及することなく、二人は自然と笑顔に戻った。
「とりあえずユアちゃんにも会えましたし、ご飯に行きましょうか!」
「ご飯!訓練でお腹ペコペコです!」
元気よく歩き出すユアとクミラの背中を見送りながら、アルバートも足を動かす。だがその足取りには、迷いと重苦しい決意が交錯していた。
食堂へ向かう長い廊下。絨毯の上に響く足音が不意に止まる。視線の先には、数人の近衛たち──重厚な甲冑に身を包んだ彼らは、明らかに特別な存在を守護している。アルバートの目は、彼らに囲まれ堂々と歩くキアナ王国の国王アバルダの姿を捉えた。
その隣には、さらに異彩を放つもう一人の姿があった。高貴な装いに包まれ、整った顔立ちのエルフの男──『先ほど、アルバートの背後に現れた男』その人だった。
(間違いない……あの男だ。なぜ国王と一緒に?)
アルバートは平静を装い、クミラとユアと共に廊下の端へ寄り、頭を下げる。目の端でその場をやり過ごそうとしたが、アバルダの足が不意に止まった。周囲の近衛も即座にその動きに倣い、廊下の空気がぴたりと静止する。
「これは勇者殿。どうですかな?城の者たちは?何か不都合はありませんか?」
威厳のある声が廊下に響く。
「はっ、問題ございません。皆様、大変良くしてくださっています」
  
アルバートは慎重に頭を下げた。
「それは何よりだ」
国王は満足げに頷き、隣の男へと視線を移す。
「そうだ、紹介しておこう。シュルド、挨拶を」
その言葉に応じ、エルフの男が一歩前に出た。
「初めまして、勇者様」
  
柔らかな微笑みと共に語りかける声は心地よい響きを帯びていた。
「私はキアナ王国第一王子、シュルド・キアナ・シュトバルティアと申します」
高貴な気品、美しい容姿、そして完璧な振る舞い。だが、アルバートにとってそれらは重要ではなかった。
(この男……間違いなくさっきのエルフだ。だが、第一王子だと?)
「私はアイラフグリス王国第二階位勇者、アルバートと申します」
  
言葉を慎重に選びながら、アルバートはシュルドから差し出された手を握り、握手を交わすが、その瞬間、アルバートの全身に稲妻のような感覚が走った。
(これは……聖気法力だと?)
シュルド王子の手から、確かに感じ取れるその力――エルフが扱えるはずのない、アイラフグリス王国の勇者が神から授かる聖なる力〈聖気法力〉だった。アルバート自身、勇者としてこの力を使いこなしているため、間違えることはない。
(勇者の力を持つエルフ?そんなことが可能なのか?それとも……あの国王が口走っていた『勇者化の実験』の成果なのか?)
思考が渦を巻く中、不意に早足の男が現れた。彼はアバルダの耳元で何かを告げる。その瞬間、アバルダの表情が曇った。
「失礼する」
  
アバルダは短く告げると、近衛たちに守られながらシュルドと共にその場を後にした。
だが、アルバートには男が告げた言葉が聞こえていた。
『精霊王ルゼが動き出しました──』
その一言はアルバートの心を鋭く刺した。精霊王ルゼ──『精霊たちの頂点に立つ存在』が動き出したという事実が意味するのは一つしかない。
(戦争だ……ついに完全な開戦が迫っている)
廊下に静寂が戻る中、アルバートは奥歯を噛み締めた。迫り来る混沌の波。その中で自分が何を成すべきか、何を選び取るべきか──その答えを見出すことができないまま、彼は再び足を踏み出した。
 




