第13話 本当の闘い
リリーニャが目を覚ますと、そこは狭く暗い場所だった。馬車の揺れが微かに体を伝い、甘さを含む木の香りが鼻腔をくすぐる。この密閉された空間は、おそらく木箱の中だろう。
(ここは……? なぜこんな場所に……?)
記憶をたどろうとすると、突然よみがえったのは拐われたときの出来事。民家の小さなお手洗いを借り、用を済ませて外に出た瞬間、後ろから迫る気配。目の前が暗転し、そこからの記憶は途絶えていた。
身を捩りなんとか箱から脱出しようとするが、手足はきつく縄で縛られ、自由がきかない。唯一の頼みの綱である杖を思い浮かべても、口元を塞ぐ縄のせいで詠唱が叶わず、魔法を使うこともできない。
(どうしよう……? 今は動かない方がいいかもしれないのかな……)
リリーニャは無理に動くことを諦め、静かに耳を澄ませた。
ほどなくして、かすかに人の声が聞こえてきた。男と少女の二人らしい。男の声は低く冷徹で、少女の声には幼さが残る。
「今のうちに休め。お前にはまだ仕事がある。しくじればどうなるか……母親と妹のためにも命令を果たせ」
「……うん、わかった」
短い会話が交わされると、周囲は再び沈黙に包まれた。
馬車はしばらく揺れ続け、ついにどこかに停車した。外では複数の足音が響き、男の声が響く。
「箱を最上階に運べ。俺が来るまで開けるなよ」
「はい、畏まりました。第三死団長様」
数人の足音が近づき、木箱が持ち上げられる。今度は馬車とは異なる、ぎこちない揺れが体を包む。どうやらこの箱を建物内に運び込んでいるようだ。
「リルア、お前もついて行け。何かあればすぐ転移で報告しろ」
「うん」
揺れは徐々に激しさを増していた。どうやら階段を登っているようだが、そのたびにガタガタと不規則に箱が揺れ、リリーニャの体は打ちつけられる。不快な吐き気が胸元からこみ上げるのを感じ、彼女は目を閉じてそれに耐えた。
やがて揺れが止まり、箱が平らな場所に下ろされた。リリーニャはホッと安堵の息をつくが、それも束の間だった。足音が遠ざかり、静寂が部屋を包み込む。不穏な沈黙が耳をつんざくように重く感じられた。
その静けさを破ったのは、不意に鳴り響いたリリーニャのお腹の音だった──「グゥ~」。
(こんな時に……!)
羞恥心に頬が熱く染まるのを感じながら、リリーニャは唇を噛む。しかし、空腹には勝てない。腹の奥から湧き上がる切実な痛みに顔をしかめたその瞬間、箱の蓋がきしむ音を立てて開き始めた。
外の光が一筋差し込み、リリーニャの目を細めさせる。その光の中、小さな人影が浮かび上がった。
目が光に慣れると、その姿がはっきりと見えるようになる。金色の髪をツインテールに結った幼い少女。髪先が短く結われ、小さな尾のように揺れている。薄紫の瞳がこちらをじっと見つめ、不思議そうにまばたきした。
リリーニャは慌てて箱の中から周囲を見渡した。そこは石造りの小さな閉ざされた部屋だった。冷たい空気とわずかに鼻をつくカビの匂い。天井には魔力鉱石が埋め込まれ、その無機質な光が室内をぼんやりと照らしている。その光は生気を感じさせず、部屋全体に寂しさと孤独を漂わせていた。
そんな中、少女はそっとリリーニャの口元に巻かれた縄に手を伸ばした。
「……あ、ありがとう。でも、どうして?」
解かれた口元から飛び出した言葉に、少女は屈託のない笑顔で答える。
「お腹が鳴ってたから」
少女はポケットから小さな袋を取り出すと、中のクッキーを差し出した。
「これ、食べる?」
リリーニャはその素朴な甘さに思わず微笑んだ。
「あむ……あ、美味しい!ありがとう!」
その瞬間、空腹で荒んでいた心がふっと軽くなるような気がした。
「君、リルアちゃんだよね?」
「うん、なんで知ってるの?」
「馬車の中で男の人がそう呼んでたのを聞いたの」
「おねーちゃんは?」
「私はリリーニャ。みんなはリリーって呼ぶよ」
二人はぎこちないながらも自己紹介を交わし、微笑み合った。その微笑みは一瞬の安らぎをもたらしたが、リリーニャの胸には複雑な感情が渦巻いていた。
(こんな出会い方じゃなかったら……きっともっと仲良くなれたのに)
だが、彼女の胸中にはもう一つの感情が芽生えていた。『淡い希望』──リルアが、敵対する陸傑死団の一員でありながら、その純粋さに救いを見いだせるかもしれないという微かな期待。
「ねぇ、リルアちゃん。リリーを助けてくれないかな?みんなのいる場所に戻りたいんだ。リルアちゃんは転移の力が使えるんでしょ?だめかな?」
リリーニャの頼みを聞いたリルアの顔に影が落ちた。小さな手で抱きしめていたぬいぐるみをぎゅっと強く握りしめながら、か細い声で答える。
「それはできない。ママとアルマが殺されちゃうから……」
「殺されちゃう?どうして?」
その問いに答える間もなく、リルアは突然後ろの階段を振り返った。険しい表情でリリーニャに向き直ると、急いで縄を拾い上げた。
「エルボスが来る。だからもう一度縄を戻すね。ごめんね、おねーちゃん」
「う、うん。わかった!クッキーありがとう、美味しかったよ」
リルアの小さな手は、縄を慎重に巻き直し始めた。その動作はどこか不器用ながらも優しさに満ちていて、最初よりも明らかに緩めに結ばれていた。それは彼女の精一杯の気遣いであり、リリーニャにはその心が痛いほど伝わった。
外から響いていた足音が、やがて扉のすぐ外で止まる。重い沈黙が部屋を包み、リリーニャは息を潜めた。緊張が空気を凍らせる中、リルアの予感が的中したのだと悟る。
扉が重々しく開かれ、冷たく鋭い声が部屋を満たした。
「何か変わったことはなかったか?」
その声の主は、馬車でリルアと話していたあの男──エルボスだった。無機質な言葉の響きは、冷徹さと威圧感を帯びている。
「ないよ」
リルアの答えは短く、力のない声だった。それに満足したのか、エルボスは続ける。
「なら、もうしばらく見張っていろ。あと数時間もすればブレスト様がご帰還なされる。そうなれば、我々の勝利は約束されたも同然だ。その時にお前の力も見てもらうことになる。無礼のないようにしろよ?余計なことをすれば……分かるな?」
「……うん」
リルアのかすれた返事を最後に、エルボスは部屋を後にした。扉が閉じられる音が響き、部屋に再び静寂が戻る。
しばらくして、木箱の蓋がガタガタと音を立てて揺れた。建て付けの悪い蓋をリルアが何とか押し開けると、薄暗い部屋に再び魔力鉱石の青白い光が差し込む。その光がリルアの幼い横顔を照らし出した。彼女は素早くリリーニャの口を縛っていた縄を解き始めた。
「ねぇ、リルアちゃん。さっきの話だけど、あの人に何かされてるの?」
リリーニャの問いかけに、リルアは目を伏せたまま、抱きしめているぬいぐるみをさらに強く握りしめた。
「ん……。ママとアルマが、エルボスに捕まってるの。私に力を使わせるために。言うことを聞かないと……ママとアルマが殺されちゃうの。だから……おねーちゃんを助けることは、できないの……」
リルアの声は震え、瞳には涙が浮かんでいた。彼女が背負うものの重さが、その幼い体には余りにも過酷だということが、リリーニャには痛いほどわかった。
リリーニャ自身もかつてブレストに両親を殺されている。その時の悲しみと孤独は、今も心に刻まれ続けていた。毎晩枕を濡らし、声が嗄れるまで泣き叫び、やがて泣くことさえできなくなった日々。きっと、リルアも同じような絶望の中にいるのだろう。
「リルアちゃん、すぐにリリーのことを助けに来てくれる人がいるの。だから、その人たちが来たら、リルアちゃんもママもアルマちゃんも、みんな一緒に助けてもらおう!だから、もう少しだけ頑張ろう?」
「でも……エルボス、強い。他にもいっぱいいるよ?本当に助けになんて、来るの……?」
「絶対来るよ!リリーは信じてるもん!だからリルアちゃんも、諦めちゃダメだよ。一緒に自由になろう?」
リリーニャは無理にでも笑顔を作り、明るく励ました。しばらく迷っていたリルアだったが、その言葉に背中を押されるように、ようやく可愛らしい笑顔を浮かべた。そして、涙で濡れた瞳をゴシゴシと拭くと、小さく頷いた。
「うん……わかった。おねーちゃんのこと、信じる!だから、ママとアルマを助けて!」
「もちろんだよ!みんなで、こんなところ抜け出そう!」
リルアの言葉に力強く頷いたリリーニャだが、心の中は不安と恐怖でいっぱいだった。助けが来るというのはただの希望に過ぎない。それでも、彼女は自分に言い聞かせる。
(泣いてなんていられない……)
あの日、両親を殺され、守れなかった後悔が彼女を突き動かしている。今度こそ自分の大切な人たちを守り抜くために、大切な人と一緒にいるために、自らを奮い立たせているのだ。この暗い牢獄の中で、リリーニャの心には静かに決意の炎が燃え始めていた。




