第22話 奇跡
止めることは不可能と思われたブレストの一撃。それを『確かに止めた』のは璃里だった。だが、そんな事実すら霞んでしまうほど、状況は苛烈を極めていた。彼女の行動がなければ、リリーニャは間違いなく命を落としていただろう。その現実を受け入れることが、まず愁たちの第一歩だった。
愁は、虚空を掴むように伸ばしていた手をゆっくりと引き戻しながら、視線を正面へ向けた。ブレスト、璃里、そしてその後ろに佇むリリーニャ。視界には、ブレストが光の剣を突き出したまま、歯を食いしばりさらに力を込めている姿が映る。だが、それでも剣は微動だにしない。
「あり得えねぇ……!」
ブレストの心情はその顔に露わだった。目の前の、小柄な少女──それも杖を持つわけでもなく、ただ静かに立っている璃里が、自身の全力の一撃を受け止めている現実。それは、彼の常識を完全に覆していた。
璃里は、そんなブレストの動揺を意に介することもなく、ただ淡々と呪文を紡いだ。
「ワークミラクル〈チェイン・バインド〉」
その静かな声に呼応するように、空間から無数の鎖が出現した。鎖は瞬く間にブレストの四肢を縛り上げ、そればかりかその全身を覆い尽くすように絡みついた。その鎖は、まるで生命を持つかのように彼の動きを完全に封じ込める。これは『WORLD CREATOR』における最上級の捕縛魔法、〈チェイン・バインド〉。通常であれば上級魔法使いが複数人で発動させるべき術式だ。それを璃里は、ただ一人、短い詠唱のみで発動させたのだ。
鎖の中で激しくもがくブレスト。しかし、その努力は徒労に終わる。力任せに引き千切れる代物ではない。その間にも、彼の光の剣は形を失い、徐々に霧散していった。
光りの剣から解放された璃里は、ふらつきながらも後ろにいるリリーニャへと振り返る。彼女の身体は、どこか透き通るように薄れ始めているが、そのままリリーニャをしっかりと抱きしめた。
リリーニャは、突然の出来事に困惑しつつも、目の前の少女に感謝を述べる。
「助けてくれて、ありがとう。あなたは……?」
璃里は、リリーニャの肩に顔を埋めていたが、ゆっくりと顔を上げ、微かに寂しげな表情を浮かべながら答えた。
「私は、あなたの中に眠る本当の記憶を復元するための補助人格。そして、あなたが忘れてしまった『璃里』としての記憶……その残滓」
「璃里……?」
「そう。あなた自身のこと」
璃里は静かに語りながら、リリーニャの額に自身の額をそっと寄せた。その瞬間、温かな光がリリーニャの体内に流れ込んでいく感覚が広がった。それは心地よく、どこか懐かしい。しかし、その光は次第に激流となり、彼女を内側から満たしていく。
遠くからその様子を見ていた愁は、急いで駆け寄ろうとした。今はブレストが動けない間に態勢を立て直す必要がある。視線を巡らせると、闘技場の隅で動きを止めているエルボスの姿が見える。彼が動かない理由は分からないが、今はそれに構っている余裕はなかった。
愁が近づく中、璃里の姿はさらに薄くなり始めていた。その背中は、今にも消え去りそうな儚さを帯びている。愁は思い切って声をかけた。
「君は……璃里なのか?」
その問いに、璃里は一瞬の沈黙の後、小さく頷いた。
「私は璃里。でも、あなたの知る璃里ではない。あなたの知る璃里はここにいる──リリーニャ・スターライトこそが、本物の璃里」
愁は目の前の璃里の言葉に、ただ困惑するばかりだった。
「それって……どういうことだ?」
彼は、この世界に来て以来数々の異常を目にしてきたが、この状況はあまりにも理解の範疇を超えていた。死んだはずの璃里が生きている。それも、リリーニャという名の姿で──。
「リリーニャがすべてを思い出せば分かる。彼女が本当の記憶を取り戻すことが、すべての鍵だから……」
璃里の姿は、今にも消えそうなほど薄れ、その声もか細くなっていく。
「待ってくれ、璃里!君は……大丈夫なのか!?」
消えかけた意識を必死で保ちながら、璃里は最後の力を振り絞るようにリリーニャに言葉をかけた。
「リリーニャ……きちんと思い出して。あなた自身のことを……」
その言葉を最後に、璃里の姿は光の粒子となり、静かに空へと溶けていった。淡く輝く光の欠片がゆっくりと漂い、周囲の空気を温かさと切なさで満たしていく。その場に残されたリリーニャは、放心したように立ち尽くし、虚ろな瞳で何もない空間を見つめていた。彼女の胸の奥では、言葉にできない感情が渦を巻いていた。悲しみとも、安堵ともつかない――それは記憶の断片がひとつずつ繋がりながら心を揺さぶる、静かな嵐のようだった。
「なんなんだ一体!訳が分からないぞ。くそ!リリー!しっかりしてくれ!大丈夫なのか?リリー!」
隣にいた愁が必死に声を掛けながら、彼女の肩を軽く揺さぶる。しかし、リリーニャはその手応えに何も反応を示さない。彼女の中で起こっているのは記憶の奔流――過去の膨大な記憶が次々と押し寄せ、その波が彼女の意識を飲み込まんとしていた。その中でもリリーニャは、確かに『璃里』としての自分を見つめていた。
両親に祝福されて生まれ、穏やかで満ち足りた幼少期。だが、心臓の病が見つかり、入退院を繰り返す日々が続く中で、次第に笑顔は消えていった。そんなある日、病院で出会った一人の男の子――彼は同い年なのにやけに大人びていて、どこか優しい雰囲気を纏っていた。
その子と過ごす時間が増えるにつれ、彼の内に秘めた強がりを知った。互いに隠していた弱さをさらけ出し合うことで、心が次第に惹かれ合っていく。そして、彼が隣の病室に入院してくると知ったときの嬉しさ。それは矛盾に満ちた感情――彼の病気を悲しむ一方で、毎日彼と顔を合わせ、言葉を交わせる喜びに満たされていた。
『ずっと一緒にいたい……』。そう思いながらも、好きだと伝える勇気を持てなかったことへの後悔。その日々の記憶が、次々と彼女の心に蘇る。
しかし、そんな幸せな時間も突然の別れによって奪われた。彼との約束――桜の木を毎年一緒に見に行くという指切りの約束――それが彼女の心に唯一残された絆だった。最初で最後のその約束を胸に刻みながら、璃里としての記憶はそこで途切れる。
次に押し寄せてくるのは、リリーニャ・スターライトとしての記憶だ。
人工知能AIとして目覚めたリリーニャ。自分がなぜアイドルになりたかったのか、その理由は分からなかった。ただ、歌が好きで、誰かに褒められると嬉しかった記憶だけが漠然と残っていた。そして、彼女を創った人間が言った言葉がよぎる。
「君の記憶の復元は完全ではない。完全に復元するには時間がかかる。その間、君の人格の中に補助人格を埋め込んだ。それが君を支えるだろう。だから耐えてくれ……」
満たされない心を抱えながら、彼女は耐え続けた。無我夢中で歌い、踊り、冒険を繰り返した。アイドルとしてファンも増えて、誰かに認められることで、自分の存在価値を見出そうとした。しかし、それでも心の奥底に巣食う寂しさは消えなかった。
そんなある日、『WORLD CREATOR』の中で亡くなった少年の話を耳にした。彼の命日に開かれるパーティーの噂に心を惹かれ、彼が建国した国を訪れることを決意する。しかし、その地に足を踏み入れた瞬間、リリーニャ・スターライトとしての記憶が急に途切れた。そして、今持つ断片的な記憶とすべての記憶が一本の糸で繋がり、ひとつの真実を描き出した。
そのとき、リリーニャは気付いた。
「私は……蓮香 璃里。それが私の本当の名前。そして、病気で命を落とした私を復元しようとして生まれたのが、リリーニャ・スターライト……」
その呟きは小さくも確かで、胸の奥底に響いた。荒れ狂う奔流のようだった記憶は静けさを取り戻し、そこには満開の桜が揺れていた。桜の木の下で愁と交わした約束。人生で最も大切で温かな記憶。それが彼女の心を優しく包み込み、涙が頬を伝う。
やがて、彼女は瞳を閉じた。だが、耳元に響いたのは切実な声だった。
「リリー!リリー!しっかりしてくれ!リリー!」
意識を取り戻したリリーニャの目に映ったのは、大好きで、ずっと会いたかった人だった。愁は以前よりも背が高く、凛々しく成長していた。変わらぬ面影の中に大人びた表情が混じり、彼が自分の姿そのままを『WORLD CREATOR』でのキャラクターに投影していることを理解し、そんなところが彼らしくて、思わず微笑みそうになる。
それと同時に気付いたことがあった。記憶を失ったリリーニャ・スターライトとして彼と出会ったときから、どこか愁に惹かれていたという事実。記憶があろうとなかろうと、この気持ちは変わらなかったのだ。それが嬉しくて、誇らしかった。
「愁くん……」
「リリー!? よかった!気が付いたか!早くここを離れよう!ブレストがそろそろ動き出しそうだ!」
焦りを滲ませる声と共に、愁は彼女の手を引いた。しかし、リリーニャはその手を引き止める。力は強くない。それでも愁はすぐに足を止め、彼女の目を見つめた。その優しさに胸が温かくなる。
「リリー?どうした?早く距離を取らないと」
「愁くん。少しだけ待ってて。私にはやらないといけないことがあるの。ブレストをあのままには出来ない」
「え?リリー?ちょっ、待って!」
愁の声を背に、リリーニャはブレストの方へ走り出した。その衝動は抗えぬもの。『必ず、そうしなければならない』と深層意識の中に生まれる欲求にも似た強い意志を宿す。
急に走り出したリリーニャを追いかけようとする愁の前に見えない壁が立ちはだかる。
(なんだ……?結界か?)
解除を試みるが、いかなる手段を用いても歯が立たない。その間にリリーニャは鎖を壊しつつあるブレストの目の前まで進んでいた。彼女は杖を構え、真っ直ぐにブレストを見据える。その姿に怒りを露わにしたブレストが叫んだ。
「この、メスガキが!また訳の分からない力でこの俺様を!殺してやる!殺してやるからなっ!」
殺意の波動が増し、ブレストの力がさらに高まる。がんじがらめだった鎖は三分の一ほどまで削れ、『WORLD CREATOR』のレイドボスですら苦戦する上級捕縛魔法をこの短時間でここまで壊すその姿は、規格外と言うほかない。
だが、その圧倒的な力を前にしても、リリーニャは一歩も引かず、怯む様子すら見せなかった。
「私はあなたを許さない。今すぐにでも殺してしまいたいほどに憎んでいる。でも私は、あなたを殺さない!だから、これが私の答えっ!」
杖の先端に輝くピンク色の宝石が強烈な光を放つ。その光は、これまで見たどの光よりも美しく、そして眩しい。リリーニャは強く願い、自然と湧き上がる言葉で祈りを込めた。
「アイウィッシュ!お願い!杖よ願いを叶えて!」
眩い閃光が溢れ、辺り一面を照らし出す。その光はまるで小さな太陽のように温かく、そして力強かった。光が頂点に達した瞬間、リリーニャの祈りが杖に伝わり、結実した。
「これは絶対厳守の契約。陸傑死団ブレスト!あなたには今後一切の殺害や暴力行為の全てを禁止します」
光は頭上に集束し、弾けた。その瞬間、無数の光の粒子が舞い降りる。まるで雪のように美しく、庭園全体を優しく包み込む。その光景はどこか神聖で、どこか切なかった。
光が消え、日常を取り戻した世界においても、ブレストの怒りは消えていなかった。彼はリリーニャを睨みつけ、叫ぶ。自身を拘束していた鎖が消えたこともあり、ブレストは光の剣を顕現させ、リリーニャに襲い掛かる。
「はっ!何を言うかと思えば殺害と暴力行為の禁止だぁ?頭お花畑なんじゃねぇのか?今すぐにでもぶっ殺してやるよ!」
だが、振り下ろした剣はリリーニャをすり抜け、彼女に何の傷も付けることはできなかった。
「くそ!なんだ!? 武器が駄目なら素手ならどうだっ!」
拳を振るい、蹴りを放ち、全力でぶつかるも、すべてが無駄だった。その攻撃はすべて空を切るだけだ。
「言ったはず。あなたの殺害、暴力行為の全てを禁止すると。あなたは誰も殺せないし傷つけられない。永遠に」
冷たく告げるリリーニャの言葉に、ブレストは絶叫しながら頭を掻きむしる。
「くそくそくそくそくそくそくそがっ!くそガキがぁ!舐めた真似しやがってぇ!! エルボスっ!!こいつらを殺せぇ!!」
だが、彼の呼び声に応じる者は、もうどこにもいなかった。振り返った先に立っていたのは、かつての仲間エルボスではなく、全統五覇の一人、帝国軍元帥ガラドル。その堂々たる威容が、静かにブレストを見据えていた。この瞬間、ブレストは、自らの終焉を悟ったかのように奥歯を噛みしめ、わずかに身を震わせた。
「くそがっ……!エルボスの野郎、裏切りやがったな!それに五覇のジジイまで来るなんてよぉ……だー!くそ!もう終わりじゃねぇか!」
叫びながらも、その声には覇気がなかった。ついに膝を折り、その場に崩れ落ちたブレスト。これまで何人もの命を奪い、傷つけることで生き延びてきた男が、今や他人を害するどころか、自ら動く力すら失っていた。仲間の裏切り。全統五覇の登場。すべての希望が崩れ去った現実に、彼はただ諦めるほかない。
ガラドルは静かにブレストの前に立つと、部下から受け取った鎖を手にした。それは鈍い光を帯びており、ただの鎖ではないことは一目でわかる。何か強力な魔法が込められたその鎖で、彼は手際よくブレストを縛り上げた。
絶望の中で、ブレストは電池が切れたかのように無抵抗であった。そのまま部下たちの手によって馬車に乗せられ、帝国へと帰る帰路につく。
庭園には静寂が戻っていた。戦いの喧騒が消え去り、冷たい夜風がわずかに残る血の匂いを運んでいく。庭園の外ではライト、スフィア、リルアが先に待機しており、残された庭園には、愁とリリーニャの二人だけが佇んでいた。無事だった木製のベンチに腰掛ける二人。その間には、どうしようもないぎこちなさが漂っている。
気まずい沈黙を破ったのは、リリーニャの方だった。
「……あの、愁くん?えっと、久しぶり?」
彼女の言葉には戸惑いと、どこか懐かしさが滲んでいた。リリーニャとしても、璃里としても、全ての記憶を取り戻していた彼女。だがそれを知るのは彼女だけであり、愁にとっては未だに信じがたい話だった。
「本当に……璃里なんだね。なんだか信じられないよ」
愁の声には、疑念ではなく驚きと感慨が混じっていた。リリーニャは俯き、視線を落とした。
「そ、そうだよね……いきなりこんなこと言っても、信じられないよね」
彼女の肩が微かに震えているのを、愁は見逃さなかった。本物の璃里と、今のリリーニャでは外見がまったく異なる。それゆえに、彼女自身も彼がすぐに納得できないだろうと覚悟していたのだ。
「いや、違うよ。疑っているわけじゃない。ただ……不思議だよな。璃里も俺も一度は死んだはずなのに、こうしてまた会えるなんて。本当に嬉しいよ」
愁の言葉は、心の底から溢れ出たものだった。それを聞いたリリーニャの頬がわずかに赤く染まる。
「……うん。私もまた会えて嬉しいよ」
その時、ひんやりとした風が二人の間を吹き抜けた。夜空を覆っていた雲の切れ間から月が顔を出し、庭園に淡い光を落とす。月明かりが二人の姿を照らし出し、その再会を祝福しているかのようだった。
「これからどうするつもりなんだい?璃里としても、リリーニャとしても」
愁が問いかける。
「どちらも大切にするつもりだよ」
リリーニャは真っ直ぐに愁を見つめて答えた。
「そして、私は愁くんと一緒にこの世界で歩んでいきたいと思ってる」
彼女の強い決意に、愁は静かに頷いた。
「ライトさんはどうするんだい?リリーニャにとっては、家族も同然で大切な人なはずだよね」
「もちろん、ライトは私の家族だよ。それは変わらない。だからライトにも相談してみる。二人で愁くんの元に行こうって。ライトは貴族だから難しいと思うけど、これは私の正直な気持ちだから。きちんと伝えてみる」
リリーニャの瞳に宿る強い意思。その眼差しに応えるように、愁は静かに頷き、優しく微笑んだ。
「そっか、ならわかったよ。俺としては二人にはぜひ、俺の村に来てほしいところだからね。大歓迎だよ」
その言葉にリリーニャの表情が少し和らぐ。しかし、再会の喜びに浸るにはまだぎこちなさが残る二人。気まずい沈黙が庭園の夜風に溶けていく中、愁の脳裏に懐かしい記憶が蘇った。
「そうだ!これあげるよ!」
愁の声が急に弾み、リリーニャは驚いたように顔を上げる。
「憶えてるかな?俺が作って渡したネックレス!ゲームの中に行った後に、再現して作っていたんだ」
彼がエンドレスボックスから取り出したのは、小さな猫がグリーンアメジストの玉に寄り添う愛らしいデザインのネックレスだった。滑らかなシルバーの細工に込められた想いは、時を超え再び形となって蘇った。
リリーニャは受け取ったネックレスをじっと見つめる。その瞳は子供の頃の璃里と同じように、『喜びに満ち溢れた陽だまりのような輝き』を放っていた。
「ありがとう愁くんっ!今度こそずっと大切にするからね!そうだ!今着けてくれるかな?」
その無邪気な笑顔に、愁の胸が温かく満たされる。
「ああ、もちろん!」
背を向けるリリーニャの首元に、愁はそっとネックレスを通した。慎重に留め具を留める手が、一瞬震えたのは緊張のせいだろうか。振り返ったリリーニャの笑顔は、まるで満月の光を浴びた湖面のように穏やかで美しかった。
だが、その瞳からは次々と涙が溢れ出した。透明な滴は月明かりに照らされ、宝石のようにきらめく。それでもリリーニャは涙を拭わず、声を震わせながらも明るく笑いかける。
「どうかな?似合ってる?」
その問いに、愁は一瞬言葉を失った。喉の奥から込み上げる感情を抑え、ようやく笑顔で応える。
「もちろん。すごくよく似合ってるよ!お帰り。また会えて嬉しいよ、璃里」
冷たい夜風が二人の間をそっと吹き抜ける。それはまるで、過ぎ去った時の流れが今を祝福しているかのようだった。夜空に輝く月が、二人の再会を静かに見守っている。




