第44話 厄災を再び
――太陽が、落ちる。それは空の話ではない。
魔法を愛し、魔法に愛される国、ルミナスの象徴とも言える少女、クオーレ。その笑顔こそが、人々の心を照らす光であったはずだった。
だが今、その光は確かに翳っていた。
広場を覆うのは怒号と罵声。恐怖と絶望が混ざり合い、もはや理性という名の秩序は崩れ去っている。
本来ならば、感謝されるべきだった。共に苦難を乗り越えるべきだった。
メイディアも、クオーレも――誰よりも必死に、この国を守ろうとしているというのに、それでも民衆は、彼女たちに石を投げる——言葉という、目には見えない凶器をもって。
「嘘つきだ!」
「守るって言っただろ!」
「もういい加減にしろ!!」
その一つ一つが、鋭く、重く、クオーレの胸へと突き刺さっていく。彼女は知らなかった。こんな人の負の感情を。こんな世界の側面を。
「……どうして……?」
震える声。それは問いかけであり、祈りでもあった。
一切の穢れを知らないクオーレが、ありのままの世界の本当の姿を理解しようとしてしまった、その瞬間――それは、降ってきた。
漆黒。光を呑み込む、純然たる闇が、音もなく演説台へと落ちる。
空気が、凍りついた。誰もが息を呑む。
そこに“在る”と認識しただけで、本能が警鐘を鳴らす存在。それは人の形をしていた。だが、人ではない。あまりにも歪だった。
輪郭は揺らぎ、黒は黒でありながら深淵のように底が見えず、見る者の恐怖を映し取るかのように形を変える。
かつて全世界の負の感情が凝縮して生まれた存在――チェルノボーグ。
しかしその姿は、かつてクオーレの隣にいた彼とは明らかに違っていた。より濃く、より歪に。恐怖そのものを具現化したような、異形の姿へと変貌している。
「……あ……あれは……」
誰かの声が、震える。
「絶望の……化身だ……!!」
その言葉が、引き金となって、ある伝承が蘇る。
かつて辺境の地を、不毛の地へと変えた災厄。制御を失った闇が、すべてを呑み込み、命も、大地も、未来すらも奪い去ったという記録。その“姿”と、今、目の前にある存在は――あまりにも一致していた。
「終わりだ……」
「ルミナスは……もう……」
絶望が、確信へと変わる。その瞬間だった。
――グォォォォォォォォォッ!!
心を恐怖で揺さぶるような咆哮に続き、チェルノボーグの身体が膨れ上がり、歪み、巨大な怪物の姿へと変貌する。
裂けるように開いた口。底の見えぬ闇。そしてそれは、クオーレを一瞬で呑み込んだ。
「――っ!?」
「クオーレ様ぁぁぁぁぁっ!!」
広場が、悲鳴で満ちる。
つい先ほどまで悪意を向けていたはずの民衆が、今は恐怖に顔を歪めている。クオーレの身を案じている。
——矛盾。だがそれこそが、人という存在だった。唯一の希望が、目の前で喰われた。その事実が、全てを塗り潰す。
――闇。
光の届かぬ、静寂の世界。その中で、二つの影が向かい合っていた。
一つは、クオーレ。もう一つは――いつもの姿へと戻った、チェルノボーグだ。
「……なんだよ、その顔」
低く、しかしどこか呆れたような声。目の前のクオーレは、俯き、小さく震えていた。
「……みんなが……笑顔にならないの……」
その言葉は、あまりにも純粋で、あまりにも、重かった。
チェルノボーグは、短く息を吐く。
「……だからなんだよ」
吐き捨てるように言う。
「お前は、いつだって笑顔を諦めたりしないだろうが」
だが、クオーレは首を横に振る。
「……でも……怖いの……」
さらに視線を落とす。
「みんなの目が……表情が……言葉が……怖いの……」
その小さな肩が、震える。
初めて触れた『恐怖』。初めて知った『絶望』。それは、純粋すぎる彼女にはあまりにも強すぎた。
「……はぁ」
チェルノボーグは、深く息を吐くと、ゆっくりと歩み寄り――そのまま、クオーレを抱き寄せた。
「……クロちゃん?」
驚いたように呟く声。その耳元で、彼は静かに言う。
「クオーレ。お前は、いつも通りでいい」
低く、しかし確かな声音。
「笑っていればいい。お前が楽しいと思うことをすればいい」
その言葉は、闇の中にありながら、不思議と温かかった。
「俺はな」
一拍。
「お前の、その……誰にでも平等に光を与える、太陽みたいな笑顔が好きなんだよ」
ほんの僅かに、言葉が詰まる。だが、続ける。今は続けないといけなかった。
「だから――」
決意。それは、静かでありながら、確固たるものだった。
「クオーレに似合わねぇもんは、全部――俺が持っていってやる」
負の感情。悪意。絶望。そのすべてを引き受ける覚悟。
「だから、お前は……笑ってろ」
クオーレの瞳から、涙が零れた。それは、彼女にとって初めての“雨”。
「……クロちゃん……雨、降っちゃったわ……」
震える小さな体。震える声。しかし、チェルノボーグは、ふっと笑う。
「なら、晴れにすりゃいい。クオーレの得意技だろ?」
軽く言ってのける。
「ほら……最後に、笑顔見せてみろよ」
クオーレは、ゆっくりと顔を上げる。そこには涙で濡れた頬。それでも、その表情に――光が戻る。
いつもの、あの、太陽のような笑顔。
かつて、一生晴れることのないはずだった存在に、初めて『晴れ』をもたらした、そのとびきりの笑顔を。
「……それでいい」
チェルノボーグが、静かに呟く。
「その笑顔があれば……俺は、なんだってできる」
次の瞬間――爆ぜた。
クオーレを包んでいた闇が、内側から弾け飛び、眩い光が、広場を覆う。
人々は目を見開く。そこに立っていたのは――無傷のまま、光に包まれた笑顔のクオーレだった。
まるで絶望そのものを打ち払ったかのような、その姿。それはまるで、救国の聖女そのもの。
そして――闇は、空へと昇る。すべてを引き受けるかのように。
民衆の恐怖も、怒りも、憎しみも。その矛先を、ただ一つに集めるために――チェルノボーグへと。
誰もが、見上げる。そして理解する。あれこそが『敵』だと。あれこそが『絶望』だと。その対極に光があるのだと。
クオーレという、希望があると、無意識のうちに人々の視線は、彼女へと戻る。
太陽は、再び昇った。
だがその裏で、決して晴れることのない闇が、一つ。すべてを背負い、空へと消えていった。
――その覚悟を、誰も知らぬままに。
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