第42話 内外の敵
大魔法国家ルミナスの上空は、かつてないほど不穏な気配に満ちていた。
国を守る守護結界の消失――それは、この国にとって『絶対』が崩れたことを意味する。
これまで三百年、外敵の侵入を許さなかった不可侵の加護が、いまや存在しないという事実は、風のように国中を駆け巡り、瞬く間に人々の心を侵していった。
王宮内の作戦室では、巨大な魔導地図が宙に浮かび、国境線付近には無数の赤い光点が灯っている。
その前に立つのは、まだ幼さの残る一人の少女――メイディア。
小さな拳を握り締め、視線は真っ直ぐ前を向いていた。
「……現在の敵軍規模を、もう一度」
その声は、わずかに震えていたが、確かに指揮官のそれだった。
問われた軍の将官が一歩前に出る。
「はっ。空より侵攻する魔獣の群れが約三万。地上部隊が約五万。加えて、ケイオス魔道国の正規軍も確認されています」
敵の軍勢は八万以上。対するルミナス軍は、四万。単純計算で、倍の戦力差だ。
だが、メイディアは目を逸らさなかった。
「……迎撃は」
「ギリギリで展開が間に合いました。現在、国境線にて交戦中です」
魔導地図の光点が、一部だけ激しく明滅している。それはすなわち、戦闘の開始を意味していた。
命の奪い合いが始まっている現実に押しつぶされそうになりながらも、メイディアは、静かに息を吸う。
(……私がやるしかない)
ここにいる将軍や司令官たちは、皆、優秀な者ばかりだ。しかし、誰一人として『王族』ではない。
それはつまり、最終決定権を持つ存在ではないということ。
だからこそ――自分が立つ意味があるとメイディアは思う。たとえ飾りであっても、王族が前に出ること自体が、国を支えるのだと、彼女は理解していた。
「各部隊に通達。防衛線の維持を最優先とすること。無理な前進は禁止です」
「はっ!」
そのときだった。
ズン――
空気が震えた次の瞬間、王宮の外から、凄まじい圧力が押し寄せ、作戦室にいた全ての者が反射的に窓の外を見つめる。
皆の視線の先、大空を覆うようにして現れたのは――巨大な竜だった。
どす黒い紫の鱗。夜そのものを凝縮したかのような翼。そして、底知れぬ深淵を湛えた金色の瞳。
人類の殲滅を担う八体の竜王——数多の英雄が討伐を目指し、長年戦いを繰り広げ、それでも現代に生き延びた竜王の一体、『奈落』をその名に冠する竜王、ミスリラ。
その姿は、王都のどこからでも見えた。
住民たちの悲鳴が、一斉に上がる。
「な……なんだ、あれは……!」
「竜王……!?」
ミスリラは、ゆっくりと口を開いた。
その声は、空そのものを震わせるように響く。
「ルミナスの者たちよ」
低く、冷たい声音。
「我が名はミスリラ。ケイオス魔道国が魔王――そして、奈落の竜王である」
空気が凍りつく。
「宣言しよう」
巨大な翼が広がる。奈落がすべてを覆い隠すように。
「貴様らの国は、今日、滅びる」
一瞬の沈黙。そして――
ドォンッ!!
衝撃波のような風を残し、ミスリラの姿は掻き消え、残されたのは、絶望だけだった。
それを合図にするかのように――戦が、始まった。
国境線の空を埋め尽くす黒い影。約三万の飛行型魔獣が、雲を裂いて押し寄せ、地上では五万の魔物が、地鳴りのような音を立てて進軍していた。
「迎撃開始!!」
ルミナス軍の魔法使いたちが、一斉に詠唱を開始する。
無数の魔法陣が展開され、炎、氷、雷――あらゆる属性の魔法が空と大地を焼き払った。
轟音。閃光。爆炎。
確かに、ルミナスの魔法は強力だった。一撃で数十体の魔物を薙ぎ払うほどの威力を持つが――
「数が……多すぎる……!」
撃ち漏らしが、確実に増えていく。倒しても、倒しても、次が来る。そして何より、ルミナス軍は、『戦争』に慣れていなかった。
専守防衛。守護結界の下で守られてきた平和。それが、彼らから実戦経験を奪っていた。
指揮の遅れ。連携の乱れ。判断の迷い。それらすべてが、戦場で致命的な隙となる。
徐々に、そして確実に、戦線は、押し込まれていった。
その情報は、瞬く間に王都へと流れ込むが、それは『自然な伝達』ではなかった。
ケイオス魔道国の諜報員たちが、密かに潜入し、意図的に、ルミナスにとって不利な情報だけを流していたのだ。
「前線が崩壊寸前らしい……」
「もうダメなんじゃ……」
「結界もないのに……どうやって守るんだ……」
不安は伝染し、疑念は膨れ上がる。やがてそれは――国民たちの行き場のない怒りへと変わった。
今や王宮前の広場には、無数の民衆が押し寄せていた。
「何とかしろ!!」
「王族は何をしている!!」
「責任を果たせ!!」
怒号が飛び交う。
一部は暴徒のように柵を揺らし、兵士たちが必死に制止していた。
その中心に、メイディアは立った。高台に設けられた演説台に立つ小さな身体。だが、その背はまっすぐ伸びている。
「……皆さん、聞いてください!」
声を張る。
「ルミナスは――大丈夫です!」
ざわめきが広がる。
「現在、軍は全力で防衛にあたっています!必ず、この国は守ります!皆さんの命を守ります!」
だが、民衆の反応は、冷たかった。
「本当かよ……!」
「もう前線は崩れてるって聞いたぞ!」
「嘘をつくな!!」
「子供に何ができるんだ!」
怒号が、さらに強くなり、メイディアの胸が、締め付けられるように痛む。
(……違う……)
伝えたいのは、そんなことではない。ただ、安心してほしいだけなのに――言葉は届かない。
そのとき。
ヒュオオオオオ――!!
空を裂く音が鳴り響いた、次の瞬間。
ドォォォンッッ!!!!
遠方で、巨大な爆発が起きた。
それは王都の一角。建物が崩れ、炎が立ち上る。
「な……」
誰かの声が、震えた。
ルミナス軍が撃ち漏らした魔物が領空に侵入したのだ。
さらに、「ドンッ!!ドンッ!!」と連続する爆発音に続き、黒煙が空へと昇る。
演説会場にも、その衝撃が伝わった。
「きゃあああああ!!」
「攻撃だ!!」
「逃げろ!!」
民衆が一斉にパニックに陥る。
これまでこの国は、一度たりとも国内で攻撃を受けたことがなかった。すべては、魔術王シンの守護結界があったからだ。
だが今、その『絶対』は、失われた。死が――すぐそこにある。その現実が、人々の心を完全に壊した。
「いやだ……死にたくない……!」
「なんでこんなことに……!」
恐怖。絶望。怒り。あらゆる負の感情が、渦を巻く。
その渦中で、メイディアは、ただ立ち尽くしていた。
伸ばした手は、誰にも届かない。叫びは、かき消される。世界が、崩れていく。
(……どうして……)
胸の奥で、何かが軋む。
(どうして、こんなことに……!)
だが、その問いに答えはなく、ただ一つ、確かなのは――
ルミナスは今、外敵と、そして――『内側の崩壊』という、もう一つの敵と戦っているという現実だった。
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