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クラフトマスター建国記  作者: ウィースキィ
第一部 第二章 新たなる世界 【第一次帝国編】

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第11話 自責の念と本当の気持ち


 ガバレント奪還作戦が成功し、ラリアガルド帝国の帝都シュトンベルドに愁たちが到着したのは夜遅くのことだった。空は月明かりも霞む曇天で、街の石畳には冷たい夜露が光っている。愁とスフィアはライトの私邸に案内され、翌日の昼に皇帝ノヴァン二世との謁見が予定されると、それぞれの客室へと向かった。スフィアと愁も一部屋ずつ与えられ、そこで翌朝まで疲労にまみれた体を休めるはずだった。


 しかし、愁の心は静まるどころかざわめき続けていた。風呂で温めたはずの体も、内側から冷えるような悔しさが胸に巣食い、心を締め付けてやまない。何度目だろう、あの瞬間が脳裏に蘇るのは──リリーニャがさらわれ、助けることができなかった自分の姿。頭の中でその記憶がループし、彼の意識を際限なく引きずり込む。


「……さっさと寝よう」


 呟いてベッドに身を投げ出すものの、枕に顔を埋めるたび、脳裏に響くのは自責の念ばかりだった。自分が近くにいながら、彼女を守れなかった。その事実は、愁にとって何よりも重い。思い出すのは、彼女が差し出した手。怯えた瞳。そして、その手をつかみ損ねた自分自身の無力さ。


(俺は自分の力に自惚れていた……)


 薄暗い客室の中、愁は目を閉じた。だが闇に包まれるほど、記憶の中の光景が鮮明になり、胸の奥を激しくえぐる。自分は本当に王としてふさわしいのだろうか。王になどなれるのだろうか。皆を守ると言いながら、その一人を救えなかった。愁は自分に問い続けた──その問いの答えが、どこにもないことを知りながら。


 突然、扉の方から微かな気配を感じた。視線をやると、静かに扉が開き、廊下から漏れた灯りが逆光となり、人影を映し出す。長い黒髪とふわふわな耳、揺れる尾のシルエット──それだけで誰かはすぐに分かった。


「スフィアか……どうしたんだ?」


 愁の問いかけに、彼女はため息混じりに笑うような声で答えた。


「主様、起きていたか……残念だ」


「何をしようとしてたんだよ」


 軽口を叩きつつも、愁はどこか張り詰めた空気を感じていた。スフィアはそのまますたすたと歩み寄り、ためらいなくベッドの縁に腰を下ろす。そして、寝転ぶ愁をじっと見下ろしながら、問いを投げかけた。


「主様、落ち込んでいるのか?」


 普段は軽やかでどこか戯けた調子のスフィアの声が、この時ばかりは低く静かな響きを帯びていた。その異変に気づきながらも、愁は視線を伏せ、曖昧に答える。


「まあな……リリーがさらわれたのは俺のせいだからな」


 彼の声にはどこか諦めのような、自らを責める色が滲んでいた。


 スフィアは小さく息をついた。彼女の瞳にはほんの僅かに怒りと悲しみが混じり、その表情には言葉にできない感情が浮かんでいる。


「あれは主様のせいではないだろう?あんな力を使われて……仕方がなかった」


「いや、俺のせいだよ。俺がもっとしっかりしていれば──」


 愁が口を開きかけた瞬間、彼の言葉は唐突に遮られた。スフィアの手が愁の胸元を掴み、ベッドに強く押し付けたのだ。


「スフィア……⁉」


 狼耳を揺らし、スフィアの顔にはこれまで見たことのないほど険しい表情が浮かんでいた。エメラルド色の瞳に宿るのは怒りと、そしてそれ以上に深い悲しみ。スフィアの腕は微かに震えていたが、それでも愁を抑えつける力には揺るぎない決意が込められている。


「主様は、なぜいつも自分のせいにするんだ?」


 その声は鋭く、しかしどこか震えていた。


「何かあると、自分だけで行こうとする。誰も頼らず、自分の中だけで抱え込んで……まるで我々を守る『だけ』の存在にしている。そんなの、誰も望んでいない!」


 スフィアの言葉に、愁は返す言葉を失った。彼女の指摘は痛いほどに的を射ている。愁は仲間たちを『大切にしすぎる』あまり、失う恐怖に囚われていた。失えばもう立ち上がれないのではないかという不安。それが彼を動けなくさせていた。それをスフィアは見抜き、指摘していた。


「……スフィア、俺は──」


 取り繕うための言い訳を口にしようとした愁の声を、スフィアの鋭い一瞥が封じた。


「主様が我や他のみんなをどう思っているかは知らない。それでも、我は主様のことを本当に大切に思っているぞ!」


 その言葉は、力強くもどこか切なかった。


「怪我だってしてほしくないし、無理もしてほしくない。何かあれば頼ってほしいし、どんなことでも助けになりたいと思ってる。……主様が勝手にいなくなるなんて、絶対に嫌だ!」


 スフィアの声は次第に震え、最後の言葉は涙に濡れたようだった。それでも彼女は愁を見据えたまま、その感情をぶつけ続けた。


「わかってほしい。我々は、主様に『守られるだけ』の存在じゃないんだ!主様がそれを理解できないなら……主様はみんなの王になんてなれないし、そんな資格はないっ!」


 スフィアの言葉は愁の胸に突き刺さるようだった。それでも愁は、何も返せない。ただその場に押し付けられたまま、スフィアの腕の震えを感じていた。


 やがてスフィアの手が胸元から離れる。怒りと悲しみを抑え込むように、一歩、また一歩と部屋の扉に向かって歩き出した。


(行くな──)


 愁の心が叫んだ。気づけば彼の手は、扉に向かおうとするスフィアの手を掴んでいた。


「なんだ?主様にもう用はないぞ」


 振り返ることなく告げたスフィアの声は、これまでの彼女からは想像もつかないほど冷たい響きを帯びていた。愁の胸の奥で、鈍い痛みがじわりと広がる。それでも彼は、掴んだ手を離すことができなかった。もしここで手を離せば、『本当に彼女との絆が断ち切れてしまう』──そんな確信が、彼を突き動かしていたのだ。


 唇を噛み締め、愁は震える声を絞り出す。


「……待ってくれ。ごめん、スフィア。俺は、スフィアを……みんなを、失いたくないんだ」


 声は掠れ、弱々しく響いた。だが、その中に込められた思いは揺るぎないものだった。


 スフィアは振り返らず、掴まれた手を振りほどこうとする。その冷たい仕草は、愁の心に鋭い痛みを走らせた。


「何を悪いと思って謝っているのだ?中身のない謝罪なんて逆に腹が立つだけだ。離してくれ」


 静かに、しかし確かに彼女の言葉は愁を拒絶するものだった。スフィアの小さな背中が、遠ざかる。たった数歩の距離が、愁には果てしなく広がる深い闇のように感じられた。


(もう届かないのか……)


 心が大きく揺れる。失いたくない。孤独は、もう嫌だ──そんな想いが、愁の胸の中で渦巻く。


「違うんだ!その、失うのが怖いんだ。俺もスフィアやみんなを大切に思ってる!その気持ちに偽りはない。ただ……そんなみんなを失いたくなくて……俺は一度、すべてを失ってしまっているから……怖くてたまらないんだ……」


 愁はその場に膝をつき、肩を震わせながら、呟くように話し続ける。その声には、過去の痛みと恐怖が滲んでいた。


「これ以上、大切な人を失いたくないんだ……俺は弱い……弱い人間なんだ。いつも裏切られるんじゃないかとか、奪われるんじゃないかとか、そんなことばかり考えてしまう。……それでも寂しくて、誰かにすがりたくなるんだ……」


 愁の過去が、静かに彼の脳裏に蘇る。まだこの世界に転生する前、病気で体が不自由になる前の幼い頃、愁は裕福な大企業の御曹司として暮らしていた。しかし、その輝かしい肩書きは彼に『孤独』という影を落とした。周りの大人たちは彼を敬うふりをしながら、心の底では彼を単なる『利用価値のある存在』としか見ていないようだった。学校でも、同級生たちは彼の財産や地位を気にして近づく者ばかりで、純粋な友好の手を差し伸べる者は誰一人いなかった。


 愁はそうした『偽りの笑顔』を敏感に感じ取る子どもだった。目を輝かせて近寄ってくる人々の言葉の裏に潜む打算や冷たい本音──それに気づいた瞬間、彼の心は冷え込んだ。『誰も自分を本当に見ていない。誰も、自分そのものを大切だと思ってくれない』。そう感じる日々が続くうち、愁は徐々に人を信用することを恐れるようになっていった。


 しかし、その裏側で彼の心は孤独に耐えられなかった。大人たちの偽善的な態度や、子どもたちの羨望混じりの疎外感に囲まれる中、愁の心には『寂しさ』という名の空洞が刻まれていく。それでも、誰かに助けを求めることはできなかった。臆病だったのだ。『裏切られるくらいなら、最初から誰も信じない方がいい』。そう自分に言い聞かせることで、なんとか心の平衡を保っていた。


 そんな彼の人生に唯一、光をもたらしたのは病院で出会った一人の少女だった。愁が定期的に検査を受けていたその病院で、彼女はまるで何も隠さずに彼に接してくれた。彼女の笑顔には作り物の輝きがなく、飾らない優しさと温もりがあった。それは、愁にとって『初めて自分を見てくれる存在』だった。


 彼女と過ごす時間は、愁にとってかけがえのない日々となった。病室でのひそやかな笑い声、何気ない会話、一緒に眺めた窓の外の景色──それは愁の心を癒し、彼に『人を信じたい』と思わせるきっかけを与えてくれた。だが、そんな穏やかな日々も長くは続かなかった。彼女は愁の前から突然いなくなった。病魔に侵されていた彼女は、ある日突然、その命を閉じたのだ。


 『また失った』──愁の胸にその言葉が刻みつけられた。そして、今度は彼自身も病に蝕まれ、体を失う運命をたどることになる。延命のために意識だけを電脳世界へ移して、新たな世界『WORLD CREATOR』で過ごし始めた愁は、そこでまた仲間たちに出会った。彼らは愁の新しい家族となり、信じられる存在となった。しかし、それさえも最終的には崩壊した。病気が彼から『すべて』を奪い去ったのだ。


 そうした過去を背負い、愁は今、この異世界で新しい仲間たちと出会った。しかし彼の心の奥底には、『再び失うことへの恐怖』が染み付いている。その恐怖は、彼を臆病にし、すべてを自分一人で抱え込ませる呪縛となっていた。床に視線を落としたまま、愁はスフィアの返答を待つ。その瞳には怯えと不安が宿り、彼女の姿を直視することさえできなかった。


(どうしても怖いんだ……もし、スフィアがこのまま去ってしまったら? 二度と戻らなかったら? 俺にもう、笑いかけてくれなくなったら?)


 愁の胸を締め付けるのは、自分の弱さと臆病さだった。何度も繰り返してきた『喪失』が彼の心に影を落とし、もう一度誰かを失うのではないかという恐怖が、彼を冷たい闇の中に閉じ込めていた。彼女を失いたくない──その一心で、愁は耳を澄ませていた。だが、その足音が自分に近づいているのか、それとも遠ざかっているのかさえわからない。ただ、『置き去りにされる恐怖』だけが彼を蝕んでいた。


 ──コツッ……。


 微かに響く足音。そしてその次の瞬間、愁の背中に『温かな感触』が降り注いだ。スフィアは何も言わず、ただ震える愁の背中に腕を回し、静かに抱きしめていた。


 スフィアの髪から漂う、森を思わせる優しい香りが、愁の心に沁み込んでいく。それはどこか懐かしく、そして心を癒す香りだった。彼女の腕の中には、全ての恐れや不安を包み込むような無限の優しさがあった。


「……我が主様を見捨てたり、裏切ったりするわけないだろう?」


 スフィアの柔らかな声が、愁の耳元に静かに響く。その声は、冷え切った愁の心を温める灯火のようだった。彼女の言葉一つ一つが、まるで雪解けのように愁の胸の奥に染み込んでいく。


「この際だから言っておくが、我は死が二人を別つまで一緒にいるつもりだ。だから主様も、もっと我を頼ってほしい。何でも一人で抱え込むのはやめてくれ。我はいつだって主様のそばにいるから……」


 その言葉には嘘偽りのない想いが込められていた。愁がどれだけ過去に傷つき、人を信じることに怯えていても、スフィアは彼を拒絶しない。むしろ彼の全てを受け入れ、その痛みすらも抱きしめていた。


 愁の頬にぽたりと落ちた温かな雫。それが自分自身の涙であることに気づいたとき、彼はようやく震える声を搾り出した。


「スフィア……ありがとう……こんな俺のそばにいてくれて……」


 その言葉に、スフィアはそっと微笑む。彼女の微笑みは、まるで夜空に浮かぶ月の光のように穏やかで、愁の胸に深い安心感を与えた。


 しばらくして、二人は並んでベッドに腰を下ろした。愁は少しずつ、自分の過去を語り始める。この世界に来るまでのこと、自分の生い立ち、そして失ったものたち──その全てを、スフィアは一言も遮ることなく、ただ静かに受け止めていた。彼の話に耳を傾けるスフィアの瞳は、ただの優しさではなかった。それは、彼の痛みを共有し、共に背負おうとする覚悟の光を宿していた。


 愁が全てを話し終えたとき、彼の胸に長い間積もっていた重い雲が、ようやく晴れていくのを感じた。深く息を吐き出しながら、彼は呟いた。


「……少しは気持ちも落ち着いたよ」


 スフィアは優しく頷きながら、そっと愁の手に触れる。そして、確かな温もりを込めて答えた。


「うん。よかった。主様の全てを知ることができて、我も嬉しいよ。それだけで、主様の痛みを少しでも癒せた気がするからな」


 愁は静かに瞳を閉じながら頷いた。その心には久しぶりに訪れた穏やかな感情が広がっている。隣で寄り添うスフィアの存在を感じながら、彼は思った。


(……スフィアがいてくれて、本当によかった)


 スフィアはそんな愁の寝顔を見つめ、そっと彼の髪を撫でた。まるで彼の傷ついた心を少しでも癒したいと願うように。その瞬間、部屋の中に漂っていた微かな不安の影が消え、代わりに深い安心感と温かな静けさが満ちていた。


「…………」


「…………」


 部屋の中には静寂が漂い、微かに揺れるカーテンの隙間から月明かりが漏れ、淡く床を照らしている。愁もスフィアも言葉を発しない。静かで緩やかな時の流れ。しかし、愁は気付いてしまった。


(……落ち着け、俺。今の状況を冷静に考えろ)


 愁は内心のざわめきを必死に抑え込もうとしていた。さっきまではスフィアに自分の弱さをさらけ出すことで精一杯だったが、今は違う。冷静になった途端、目の前の状況が意識にのしかかってくる。


 二人きりの薄暗い部屋。月光に照らされたベッドの上には、隣に寄り添うスフィアがいる。見た目の歳も近い彼女の存在が、今の愁にとって妙に意識させられるものだった。特に、彼女が着ている少し緩めの寝間着。その胸元がわずかに開いているのが目に入り、その奥にある美しい曲線を描く谷間がちらりと見えてしまい、慌てて視線を逸らす。


 鼓動はどんどん速くなる。『落ち着け』と心で念じても、抑えられる気配がない。このままでは、心臓の音が彼女に聞こえてしまいそうだ。


「そ、そろそろ寝ようか。明日も早いからな」


 愁はなんとか声を絞り出し、平静を装いながら提案する。けれど、隣にいるスフィアはどこ吹く風。あくまで自然体だ。


「んー?そうだな。夜も遅いしな」


 軽い返事だけが返ってきたが、彼女は動こうとしない。沈黙が続き、部屋の中には互いの微かな呼吸音だけが響く。


「えっと、スフィアさん?部屋に戻らないの?」


「……なんかめんどくさいから、このまま寝ようかな」


 スフィアは愁の言葉を軽く流すと、肩を寄せながら少し意地悪そうに笑った。


「ずっとリアばっかり主様と一緒にいてずるいと思ってたしな」


 その言葉に、愁の胸の鼓動がさらに激しくなる。近すぎる距離。触れ合う肩。彼女からふわりと漂う石鹸のような柔らかな香りが、緊張を煽る。どうにかこの状況を打開しようとするが、彼女の無邪気な表情が頭から離れない。


 そして、それを察したスフィアがにやりと笑う。


「主様?すごくドキドキしてるみたいだな?」


「え、いや、別にそんなことないぞ?」


 声が裏返る。焦りを隠せず、耳まで熱くなるのが分かる。案の定、スフィアはその様子を逃さない。


「ふふ、本当か?どれどれ……ん?やっぱりドキドキしてるじゃないか」


 そう言いながら、スフィアはふわふわの狼耳を愁の胸に寄せ、心臓の音を確かめる仕草を見せた。愁の顔はますます赤くなる。だが、彼女はさらに追い打ちをかけるように、覆い被さるような体勢で愁を見下ろした。


「……いらやしいことでも考えていたのか?」


 寝間着の緩い胸元が垂れ下がり、その隙間から二つのふくらみの一部が覗く。全てが見えない絶妙な加減が逆に想像力を膨らませる。慌てて愁は目を逸らした。


「なっ……!そんなこと考えてない!」


 愁は咄嗟に答えたが、余計に彼女を面白がらせるだけだった。スフィアの瞳はどこか悪戯っぽく輝いている。けれど、その奥には微かな優しさが見え隠れしていた。


 夜の静寂が、薄い月明かりと共に部屋を包み込んでいく。愁とスフィアの二人だけの空間には、どこか暖かさと気恥ずかしさが交錯していた。そんな中、スフィアの声がそっと響いた。


「よし、主様。今まで一人で頑張ってきたご褒美をあげようかな」


「ご、ご褒美……?」


 その言葉に反応し、愁は思わずスフィアを見つめる。彼女の表情は、いつものいたずらっぽさとどこか真剣さを含んでいた。


 ふいにスフィアの顔が近づいてくる。まるで空気そのものが重くなったかのように感じられ、愁の心臓は嫌でも鼓動を強める。ふと、彼女の小さな手が愁の頬にそっと触れた。その瞬間、柔らかな温もりが愁の唇に伝わる。


 柔らかく、温かく──それでいて、一瞬で愁の全身を包み込むような感触だった。


 時間が止まったような感覚に陥る。触れているのはほんの一瞬のはずなのに、心に刻まれるその瞬間はやけに長く感じられた。やがて、スフィアの顔がゆっくりと離れると、月明かりに照らされた彼女の顔がはっきりと目に入った。


 頬は薄紅色に染まり、瞳はどこか恥じらいを湛えている。それは、いつも冷静で余裕たっぷりの彼女には似つかわしくない、まさに『女の子』らしい表情だった。


「……唇にキスするのは初めてだ。どうだ、主様?嬉しいか?」


 スフィアは照れを隠すように言葉を紡ぐが、その声には微かな震えが混じっている。愁はそんな彼女の姿に、自然と微笑みが浮かんだ。


「……嬉しい。すごく……」


 簡単な言葉だったが、それが愁の本心だった。


 スフィアは言葉を聞くと、小さく「ふふ」と笑いながら愁の腕を掴んだ。


「今日はこうやって寝る。……温かいし、主様も寂しくないだろ?」


「……いや、俺は子供じゃないぞ?」


 照れ隠しから少し反発するような言葉が出てしまう。しかしスフィアはお構いなしとばかりに、腕枕の状態で愁に身を寄せる。


「じゃあ、やめるか?」


 意地悪そうに聞き返してくる彼女の言葉に、愁は小さく首を振った。


「……このままでいい。温かいし、スフィアが安心するなら」


「素直でよろしい」


 その一言と共に、スフィアが心地よさそうに目を閉じた。彼女の体温と石鹸の香りが、愁の全身に染み渡る。


(……なんだろう、この気持ち……こんなに落ち着くのは……こっちに来てから初めてだ)


 スフィアの穏やかな寝息が、まるで子守唄のように愁を包む。気付けば、自分もまた瞼が重くなっていった。こうして愁は、この世界に来てから初めて、『心からの安らぎ』を感じながら眠りについた。静かな月の光が、二人の姿を優しく見守り続けているのだった。


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