第9話 ガバレント奪還作戦 中編
首のない天使のアンデッドであるアリユスと、死霊術師である第一死団長ネルフェは、戦場の片隅でじっと様子を窺っている。しかし、新たに参戦した第六死団長フレディールはまるで獲物を狙う狩人のように、愁とスフィアの隙を逃さず攻め立てていた。
二刀の細剣を自在に操るその剣技は、まるで絡みつく蛇のように厄介だ。躱せば追い、受ければ絡みつく。しかも、その腕は紛れもなく一流。愁がかつて王都で対峙した暗殺者サリストよりも、さらに格上であることは明白だった。
さらに、もう一つの脅威が戦場に君臨する──竜王のアンデッド、ハルザドルド。生前は竜の頂点に立っていた存在。今やアンデッドとして蘇り、その圧倒的な威圧感とともに戦場を睥睨している。死してなお衰えることのないその力は計り知れず、ハルザドルドを相手にしながらフレディールを捌くのは、さすがの愁でも骨が折れる状況だった。
だが、その膠着状態を破るべく、スフィアが戦場に躍り出る。
背中合わせに立つ二人。愁はハルザドルドを、スフィアはフレディールを睨みつける。
「スフィア、このままじゃ埒が明かない。それに、このまま戦い続ければ消耗戦になりかねない……。だから、この町にいるアンデッドごと、すべて消し去るつもりだ。そのためには時間が必要になる。ドラゴンの動きは俺が止める。スフィアはあの暗殺者を頼む」
「了解だ、主様!我に任せてくれ!」
スフィアの瞳が鋭く光る。普段は呑気で自由奔放な彼女だが、その奥には、誰よりも仲間を想う真っ直ぐな心がある。愁はそんなスフィアを、心から信用していた。
「よし──行くぞ!」
二人は同時に地を蹴った。
その瞬間、フレディールが動く。まるで狩りの時間が来たかのように、愁たちの動きを捉え、鋭い笑みを浮かべながらスフィアに襲いかかった。
ギンッ──!
鋼と鋼が激突し、火花が散る。スフィアの剣と、フレディールの細剣が絡み合い、互いの刃が火を噴く。
「なんだお前は?ニヤニヤして気持ち悪いぞ!」
「いや、悪いな。俺は戦うのが好きなんだよ。特に──実力のある相手との戦いはな!」
言葉の合間にも、フレディールの剣は一瞬の隙すら逃さず襲いかかる。その一閃がスフィアの首筋をかすめ、細い血の筋が浮かぶ。しかし、スフィアは一歩も引かず、すぐさま反撃に転じた。
地を蹴り、体を低く沈めると、片手を地面につき、カポエイラのように流れる動作で鋭い回し蹴りを繰り出す。
「おっと!」
フレディールはギリギリでかわしながら、薄ら笑いを浮かべる。
「へぇ、なかなか面白い動きするじゃねえか。でもな、そんなに足癖が悪いと──スカートの中が見えちまうぜ?」
「我は別に剣士ではない!主様から様々な体術も習っているからな!……それと、もしスカートの中が見えたら教えろ。その時は殺してやる!」
スフィアは笑みを見せるも、その瞳には冷徹な闘志が宿っていた。彼女は理解していた。純粋な剣技ではフレディールには敵わないことを。しかし、体術を織り交ぜた変則的な戦いなら、対等に渡り合える──いや、勝機すら見出せると踏んでいた。
戦いは拮抗したまま続く。しかし、スフィアの目的は別にあった。愁からフレディールを引き剥がすこと。その目的は、すでに果たされている。あとはこの状態を維持することが重要だ。
一方、愁とハルザドルドの戦場。
巨体に似合わぬ速度で動く竜王のアンデッド、ハルザドルド。その動きはあまりにも速く、愁は防戦を強いられていた。鋭い爪が空を裂き、振り下ろされる尾撃は地を抉る。
(ちっ……こいつ、回復される前より強いんじゃないのか?)
さらに厄介なことに、アリユスがその背後で密かに魔法を紡いでいる。愁の直感が告げる──ハルザドルドは回復されるたびに、さらに強くなっていると。
(アイツの隠れた能力……なのか?だが今は、それを探る余裕がないな……)
愁は深く息を吸い込み、肺に溜めた空気をゆっくりと吐き出した。
目の前の脅威──ハルザドルド。その巨大な影が、燃え盛る炎の中で揺らめいている。
時間を稼ぐだけなら、ただ戦えばいい。だが、愁には『決着をつける』という使命がある。そのためには、確実に準備を進めなければならなかった。遠くではライトとリリーニャが戦っている。その気配がひしひしと伝わってくるが、今はそれに気を取られるわけにはいかない。
(焦るな……焦ったら負ける。冷静に、確実に──)
宵闇を強く握りしめる。黒き刃が闇を吸い込み、妖しく輝く。それと同時に、空気が震え、静かなる戦慄が辺りに広がった。
「こんな姿、ミーシャに見られたら説教されそうだな……」
荒れ果てた街中に乾いた風が吹き抜ける。
愁の脳裏に浮かぶのは、かつての仲間たちの面影。その中でも、彼の戦いを常に見守り、時に厳しくも温かい言葉をかけてくれたミーシャの声が、今もなお鮮明に甦る。
──『焦るのはしょうがないけれど、闇雲に動けばどうなるかわかるでしょう?』
彼女の叱るような、それでいて優しい声が耳の奥に響いた。
(うん。ミーシャなら呆れた顔しながら言いそうだ)
愁は拳を強く握りしめる。焦燥に飲み込まれそうになる自分を叱咤するように、一度深く息を吐き、目の前の現実へと意識を戻した。
巨大な影がゆらりと動く。眼前にそびえるのは、獰猛なる竜──ハルザドルド。その鋭い爪が閃くたび、空気が裂かれ、土煙が舞い上がる。黒曜石のように硬質な鱗は、いかなる魔法の干渉も受け付けない。愁の攻撃が届くには、この猛攻の隙を突かなければならなかった。
だが、愁は知っている。
ハルザドルドは、強靭な肉体と驚異的な速度を兼ね備えた敵であるにもかかわらず、一度たりとも魔法を使っていない。
──〈魔法完全耐性〉。
それが影響しているのか、あるいはそもそも魔法を扱えない種なのか。
ドラゴンとは本来、膨大な魔力を持ち、強靭な肉体と鋭い知性を併せ持つ種族だ。少なくとも、『WORLD CREATOR』ではそうだった。そして、愁の大切な仲間のひとりであった竜王ヴルムヴィードも、まさにその象徴となるような存在だったのだ。
(もしヴルムヴィードがこの場にいたなら、何て言うかな)
愁の脳裏に、かつての仲間たちの姿がよぎる。
ともに笑い、戦い、時に励まし合いながら歩んできた日々。その全てが、今となっては手の届かない過去となった。
──寂しい。声を聞きたい。助けてほしい。
心の奥底から湧き上がるその感情に、愁は目を閉じる。彼らはもうここにはいない。頼ることなど、できはしない。
──ならば、せめて。
彼らに笑われぬよう、胸を張れる自分でありたい。どんなに過酷な戦場でも、どれだけ孤独を感じようとも、愁の心には仲間たちがいる。そして今は、スフィアがいる。村で待つ新たな仲間たちがいる。『八乙女 愁』という存在を信じ、慕い、共に歩もうとする者たちがいるのだ。
ならば、背を向ける理由など、どこにもない。愁は宵闇を強く握り直し、静かに瞳を開いた。
「──行くぞ」
覚悟を胸に、愁は前へと踏み出す。仲間たちの誇りを、その背に宿して。
「……もう迷わない。見てろよ、世界!ここからが『本番』だ!」
愁の眼差しが鋭さを増す。〈気配探知〉を発動し、範囲を先頭範囲に絞り、ハルザドルドの動きに全力で集中する。巨体ゆえの鈍重さはないが、その巨大な身体は目立つ。見切ることさえできれば、対処は可能だ。
猛攻を避けつつ、愁は魔石のクラフトを開始する。攻撃系の魔法は通用しないが、〈守護者の聖域〉ならば〈魔法完全耐性〉でも即座に打ち消されないことは確認済みだ。ならば、それを利用するまで。
素早く、確実に。ハルザドルドの猛攻をかわしながら魔石を三十個、クラフトする。
「よし……これで準備完了だ」
愁は一旦ハルザドルドから距離を取り、エンドレスボックスの中から一つの武器を取り出す。
黒光りする無骨なフォルムの銃。それはかつて『WORLD CREATOR』で最高硬度の金属を用い、自ら設計し作り出した特注品だった。その制作にはヴルムヴィードが協力してくれた。彼との思い出と共に、確かな実績を刻んだ武器。
その銃身には複雑な魔術回路が組み込まれ、放たれる魔石弾の威力を『最大限』まで引き上げる。愁は素早くマガジンを作成し、十五発ずつ装填した。
だが、その刹那──ハルザドルドが猛然と迫る。巨躯が地を揺るがしながら突進してくる。
「ほら、どうだ!」
引き金を引くと、轟音と共に弾丸が炸裂した。
魔石弾は一直線に飛び、ハルザドルドの分厚い鱗を貫く。その瞬間、巨体が僅かに仰け反った。
「……効いたな」
確かな手応え。だが、それだけでは終わらない。ハルザドルドは咆哮を上げ、さらなる猛攻を仕掛けてきた。愁は瞬時に体勢を整え、再び銃を構える。鋭く目を細め、敵の動きを見極める。
「さて。ここからが本当の勝負だな」
目的は銃での攻撃ではない。
愁は集中し、怒り狂いながら襲いかかってくるハルザドルドに向けて何度も発砲する。銃弾は次々と着弾し、鱗の隙間に魔石弾が埋め込まれていった。
しかし、一瞬の隙を突かれた。
ハルザドルドの鋭い爪が横薙ぎに振るわれ、愁の身体を豪快に吹き飛ばした。視界が激しく回転し、背中が地面に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
肺の空気が一瞬で抜けたが、すぐさまポーションを取り出して飲み干す。冷たい液体が喉を駆け抜け、傷ついた身体が瞬時に回復していく。
愁は立ち上がると、怯むことなく再び銃を構え、攻撃を続けた。
(マジで銃の練習をしておいてよかった……!)
放った合計三十発の弾丸──すべてハルザドルドの身体に埋め込むことに成功した愁は安堵と共に息を整える。
「……準備完了だ」
愁はすぐさまハルザドルドから距離を取ると、スフィアとフレディールが戦っている戦場の近くまで移動し、大声で叫んだ。
「スフィア! 俺が合図をしたら六十秒間、全ての攻撃から俺を守ってくれ!」
フレディールと剣を打ち合いながら、スフィアは短く答える。
「六十秒だな! わかった! それなら我は全力で主様を守るとしよう!」
「すまん! 俺の命、スフィアに託すよ!」
スフィアはフレディールを強烈な蹴りで弾き飛ばし、距離を取る。そしてゆっくりと目を閉じ、身体の内に眠る力に語りかけた。
「黒白の雷神の力よ。今一度、我に従い、その威を示せ!」
次の瞬間──スフィアの周囲に黒と白の電撃が纏わりつき、激しく放電する。
黒髪は黒白に染まり、エメラルドの瞳は黒白のオッドアイへと変化した。双手に握るコピスも黒白の雷光を纏い、普段の稲妻とは比べものにならないほど強力な魔力が溢れ出す。
その場の空気が変わった。
「な、なにそれ? スフィア、そんなの使えたの?」
愁は思わず驚きの声を上げた。
「言ってなかったか? これが本来の力だぞ! ただし、長くは使えない。でも六十秒間なら、主様を完璧に守りきれる!」
フレディールが再び襲いかかる。だが、スフィアの剣が『今までとは段違いの速度』で振るわれ、彼の攻撃を弾き返した。
「なんだよ嬢ちゃん。そんなに速く動けたのかよ! いいね、いいよ! 楽しくなってきた! どっちが速いか、力比べだ!」
「主様を守る片手間に遊んでやるから、かかってこい!」
フレディールの闘志に火をつけてしまったようだ。だが、それは愁にとっては好機。
(頼むぞ、スフィア……!)
愁はハルザドルドのもとへと向き、手をかざす。
すでに埋め込んでおいた三十個の魔石──そのすべてに込めた〈守護者の聖域〉を遠隔で発動させる。
「全部発動だっ──!」
瞬間、ハルザドルドの全身に展開された魔石が発光し、〈守護者の聖域〉が一斉に発動した。
今回の魔石に込めた〈守護者の聖域〉は設置型だ。設置型の結界は発動した場所から動くことはない。そのため、肉体へ埋め込まれた魔石を核に発動した〈守護者の聖域〉の結界範囲に巻き込まれたハルザドルドは身動きが取れなくなった。巨体が僅かに震え、苦しそうにのたうち回る。
だが、〈守護者の聖域〉も永遠に持つわけではない。それはあくまで時間を稼ぐための手段にすぎない。本命は『別』にあるのだ。
「よし、スフィア! 今から六十秒だ! 頼むぞ!」
「了解だ!」
戦場に新たな『戦況の転機』が訪れる。
フレディールの剣撃を受け流しながら、スフィアは周囲に目を配る。解放された力が彼女の感覚を研ぎ澄ませ、敵の動きを鮮明に捉えることができる。そんな彼女を横目に、愁は虚空を裂くようにしてエンドレスボックスから一本の杖を取り出した。
それは全体が光沢のある銀色の杖。先端には赤く輝く球体が嵌め込まれ、黒龍の装飾が絡みつくように巻き付いている。
愁は静かにその杖を地面にコツンと突いた。
瞬間、愁を中心に五メートルほどの球状魔方陣が展開される。空間に刻まれた魔術文字が脈動し、軌跡を描くようにゆっくりと回転する。その神秘的な光景は、まるでこの世ならざる理の顕現だ。
愁は冷静に状況を確認した。フレディールはスフィアに圧倒され、ハルザドルドは〈守護者の聖域〉に縛られ身動きが取れない。ネルフェはアリユスに守られながら、まるで舞台の劇を楽しむ観客のようにその光景を眺めていた。
(動かないのなら、それに越したことはない。余計な刺激は与えないほうがいい)
刻まれた時間が三十秒を迎えた。残り半分──このままいけば、状況を一変させることができる。だが、最後の十秒を切ったとき、それは起こった。
ハルザドルドが〈守護者の聖域〉を完全に打ち破り、解き放たれた。自由を得た彼は怒りを露わにし、こちらへと突進してくる。その巨体が地面を踏みしめるたびに、大地が震え、恐るべき威圧感が戦場を包み込んだ。
「残念だったな。これでお前も終わりだ」
だが──残り時間は三秒。
ハルザドルドの巨体が目前に迫る。しかし、その瞬間──
ハルザドルドの動きを察知したスフィアがフレディールへと電撃を放つ。その雷撃を避けようと、フレディールは大きく後退。直後、スフィアが疾風の如く愁の前に躍り出て、迫り来るハルザドルドの巨影と対峙する。
ハルザドルドの太く雄々しい腕が振り上げられ、口には火炎を含み、木々を容易くなぎ倒す尾がスフィアと愁を狙う。だが、もう遅い。
──刻限は満ちた。
「全てを浄化する聖なる光を──〈太 陽 神 の 裁 き〉!」
愁の声が響いた刹那、杖の先の赤い球体が『爆発的な輝き』を放った。まるで世界そのものを照らし尽くさんとするかのような光。直後、魔方陣が消失し、代わりに天を覆っていた暗雲が一瞬にして霧散する。
そして、黄金の光が降り注いだ。『神の裁き』が、戦場を包み込んでいく。
それはただの光ではない。まるで太陽そのものが降臨したかのような、灼熱と神聖が融合した極光。世界が閃光に満ち、大気が震え、地面はまるで生き物のように揺れ動いた。
聖なる審判の光は、抗うことのできない『絶対』の力をもって、ガバレントの町に巣食う膨大な数のアンデッドたちを包み込む。
ハルザドルドの巨体が、アリユスの姿が、光に呑まれていく──否、『浄化』されていく。
「──────────ッッッ!!」
それは断末魔にすらならない、魂が消滅していく悲鳴。この魔法は、アンデッドをただ倒すのではない。『消し去る』のだ。地上に巣食う邪悪を、神の名の下に完全に消し去る。
本来、神代魔法を扱えるのは魔法職の最上位、マスタークラスである『神代の魔法使い』のみ。しかし、愁は多額の投資によって手に入れた貴重な課金アイテムを用い、それを行使することができた。この課金アイテムで神代魔法が発動できるのは、たったの『五回』。その一回の価値は、計り知れない。
光が降り注ぎ続けること、しばし。
それはまさに『神の審判』だった。
天を焦がし、大地を焼く黄金の輝きは、万物を超越した威光そのもの。神代魔法〈太 陽 神 の 裁 き〉が放たれた瞬間、この世の理が塗り替えられるかのように世界が震撼し、灼熱の閃光が全てを包み込んだ。
やがて、その輝きが収束すると──そこには、何もなかった。
ハルザドルドも、アリユスも、そしてこの町に蔓延っていたアンデッドの気配すら、一片も残っていない。まるで、初めから存在しなかったかのように。
あまりの光景に、スフィアも、フレディールも、戦いを忘れて立ち尽くしていた。
「……やった……のか?」
愁は〈気配探知〉を展開し、周囲を確認する。
──反応なし。
すべてのアンデッドの反応が消え去っていた。
「よし! やってやったぜ!!」
愁の叫びが、勝利の証として戦場に響いた。
「よし!じゃないぞ主様!なんだ今のは!世界級魔法か?」
「世界級?なんだそれは?」
愁は聞いたことのない単語に首を傾げる。しかし、今はのんびり話している場合ではないので深追いはしなかった。アンデッドを消し去ったとはいえ、陸傑死団の死団長と盗賊たちは依然として健在なのだ。さらに言えば、ネルフェの姿がいつの間にか消えていることも気がかりだった。愁の〈気配探知〉の範囲からも外れており、その対応の速さに舌を巻くしかないが、潜んでいる可能性もゼロではない。
改めて〈気配探知〉で町の中を確認すると、強い反応──おそらく死団長と思われる気配が六人から三人へと減っている。帝国側の強い反応の四人は健在なので、おそらくは戦闘の末に倒されたか、あるいはネルフェのように逃走したかのどちらかだろう。
そして、愁がフレディールに目を向けた、その瞬間──
「ま、待ったー!お前みたいな化け物相手にこれ以上やってられるか!俺はもう抜ける!じゃあな!」
そう叫ぶと、フレディールは全速力で駆け出していった。
念のため〈気配探知〉で気配をたどって確認すると、フレディールは本当に町の外まで逃げ続けている。もはや戦意喪失、完全なる敗走だった。
「……ま、いいか。小物だったし」
呆れたように肩をすくめる愁。スフィアの方を見ると、先ほどの力の解放の影響か、彼女も疲れた様子を見せていた。
「ありがとうね、スフィア。おかげで助かったよ。それと、置いていってごめんね」
「別にわかってくれればいいぞ。これからはちゃんと頼ってくれよ?主様」
「ああ、頼りにしてるよ。これからもよろしくな」
その時──
「おーい!愁くん!」
遠くから響く声。振り返ると、リリーニャがライトと共に駆け寄ってきていた。彼らの姿を確認し、愁は安堵の息をつく。大きな怪我もなく、無事なようだった。
「よかった、無事で。リリーもライトさんも、怪我とか大丈夫かな?」
「うん、大丈夫! それよりさ! すごい光がピカーってなって、アンデッドみんないなくなったの! あれやったの、愁くん?」
リリーニャの弾んだ声が静寂を破る。彼女の大きな瞳が、興奮と驚きに輝いていた。
「あ、うん。一応ね」
「すごーい!」
歓喜の声とともに、リリーニャは勢いよく愁に抱きついた。小柄な身体が無邪気にしがみつき、その熱が愁の胸元にじんわりと伝わってくる。
「リリー、まだ陸傑死団の連中がいるから油断は禁物だよ? 死団長は残り二人いる。そいつらを見つけて話を聞き出してみよう」
「はぁーい……」
渋々といった様子で愁から離れるリリーニャ。その姿を見て、ライトは相変わらず申し訳なさそうに眉を下げていた。
戦いは、まだ終わっていない。そう悟った四人は、一旦ギルドへと向かうことにした。散発的に現れる盗賊たちはリリーニャとライトに任せ、愁は破れた服の修理と体の回復に集中しながら後を追うように移動した。
移動すること数分後、冒険者ギルドの建物に到着する。かつては冒険者たちが賑わっていたはずの建物は、今や陸傑死団の本拠地となっている。しかし、帝国との戦争中だからか、中は閑散としており、誰の気配も感じられなかった。
四人は慎重に中へと足を踏み入れる。二階へ上がり、かつてギルドの事務室だった部屋に向かうと、ブレストの情報を探すため、ライトとリリーニャは手分けして書類を漁り始めた。
一方、愁はその間に今度はスフィアの服の修理を行いながら、ポーションで自身の体力を回復していた。そんなとき、不意にスフィアの声がかかる。
「なあ、主様」
「ん? どうした?」
服を直す手を止め、愁はスフィアの方へ顔を向けると、エメラルド色の美しい瞳がじっと見つめてきていた。
「我の言うこと、聞いてくれるんだろう?」
その声は、まるで真剣な誓いのように響いた。スフィアの顔には、まじめな表情が浮かんでいる。彼女の目は輝き、愁はその視線に圧倒されながら返事を返した。
「え?ま、まあそうだな。迷惑かけたしな」
(ついにこの時が来たのか……)
内心、愁はヒヤヒヤしながらも、自分の言葉に責任を持たなければならないとも考えていた。そもそも約束を反故にしたらスフィアに何をされるかわかったものではない。
そんなことを愁が思案していると、スフィアはそのまま、真剣な面持ちを崩さずに口を開いた。
「なら、キスでもしてもらおうか」
「…………」
一瞬、愁の言葉は凍りついた。思わず間が空いてしまい、少し遅れて愁は呆れたように返す。
「いやいや、キスって何さ」
スフィアの発言には、彼女特有の破天荒さが滲んでいた。愁はその期待を裏切らない彼女の言葉に、困惑の色を隠せなかった。
「なんだ?リリーニャにはあんなにデレデレしてたのに、我じゃ嫌なのか?」
「いや、デレデレしてないわ!」
(してない……いや、してるかもしれない。しかし、それは決して下心ではなく、保護欲なのだ。保護欲なのだ……)
愁の心の中で、呪文のようにその言葉が反響する。
「だからってキスって……ちなみにどこに?」
「口」
「ですよねー」
愁は心の中で苦笑した。このスフィアのからかいが本気なのか、それともただの冗談なのか、判断がつかないことが恐ろしい。もし本気なら、下手な態度を取れば彼女を傷つけることになるし、ふざけているだけなら、真剣に受け止めた自分が馬鹿にされる未来が見えてしまう。
どうしたものかと悩んでいると、スフィアは突然、クツクツと笑い出した。その笑い声は、周囲の静けさを破り、まるで春の訪れを告げる風のようだった。
「主様は本当に考え込むのが好きだな!冗談だ。とりあえず落ち着いたら、主様の一日を我にくれ!それで手打ちにしてやろう」
スフィアの顔にはニヤニヤとしたいたずらな笑みが浮かび、楽しそうな様子の彼女は、ふわふわなしっぽを左右に振っていた。
「う……またからかわれたのか?まったく勘弁してくれよ、スフィア。まあ、わかった。村に戻ったら予定立ててスフィアの好きなことをしようか」
彼らのやり取りは、まるで穏やかな湖面に波紋を広げるように、心の奥に温かな感情を呼び起こす。そんな会話を交わしながら、服の修理と体力の回復はほぼ完了した。
その後、愁とスフィアも総出でギルド内を隈なく探したものの、ブレストに関する重要な情報は見つからなかった。残された手段は、残り二人の死団長を問い詰めることだけだ。四人はギルドを後にし、愁が〈気配探知〉を使って確認した、ギルドから一番近い死団長の元へと向かうのだった。




