第7話 戦闘の訓練
訓練を開始してから三日が経過した。初日から今日まではライトの剣術指導をしつつ、愁が作成した武器と防具を体に馴染ませるため、ひたすら基礎動作を繰り返すことから始まった。
ライトに渡された剣は、柄に三つの魔石を装備できる仕様のロングソードだった。魔力を行使せずとも、魔石をセットすれば簡単な補助魔法を発動できる利便性を持つ。そして、剣術の習熟が足りないライトのために、刃の切れ味と耐久性を強化し、筋力や攻撃力に補正をかける細工が施されていた。
防具は徹底的に防御力に特化させた。物理と魔法双方の耐性を高め、わずかではあるがHPを自動回復する効果まで付与している。頑丈でありながら、普段着に近い見た目の灰色の騎士服として仕立てられており、動きやすさも確保されている。
「どうですか? ライトさん、防具と武器の使い心地は?」
愁の問いかけに、ライトは荒い息を整えながら、ゆっくりと頷いた。額には玉のような汗が浮かび、全身は疲労で軋んでいる。
「えぇ……。すごく馴染みます。思ったより軽くて、動きやすいですし……」
「それならよかったです。しばらく休憩してください。次はリリーの指導に行きますので」
愁は言い終えると、軽やかな足取りでその場を離れる。その姿を見つめながら、ライトは奥歯を噛みしめた。自身が限界を迎えそうになっているのに、愁は平然としている。その圧倒的な差に、否応なく自分の未熟さを突きつけられる。
(……まだまだ弱いことは分かっている。だからこそ──やるしかないな)
決意を胸に、愁の背中を見つめながらライトは拳を握りしめた。
一方その頃、愁はリリーニャとの訓練が始まっていた。
「ほら、リリー! 結界は常時展開できるようにするんだ! それを維持しつつ、連発できる魔法の手札を増やしていくよ!」
愁の鋭い掛け声とともに、剣がリリーニャの展開した結界に何度も叩き込まれる。結界というものは、攻撃を受ければ不安定になる。壊されずに維持するには、途切れない集中力と瞬時の対応力が求められる。愁はそれを鍛え上げるため、わざと彼女を極限まで追い込んでいた。
「うわわっ! これ難しいよーっ!」
必死に耐えるリリーニャの表情は、焦燥と苦悶に満ちていた。全身から噴き出す汗が地面に滴り落ち、足元の砂を濡らしていく。呼吸は荒く、体力の限界が近づいているのは明らかだった。
「結界の維持だけじゃ相手は倒せないよ! その杖は強いけど、それに頼りきってたら必ず足元をすくわれる!」
リリーニャの持つ杖は、魔力消費なしで強力な上級魔法を発動できる。だが、それに甘えれば己の成長を阻むことになり、杖が使用できない場合には弱みとなってしまう──愁はそれを許さない。
「もっと! もっと集中して! 限界だと思ったところからが、本当の勝負だよ!」
「ひ、ひぃぃぃっ! も、もう無理ぃぃぃっ!」
悲鳴を上げながらも、リリーニャは必死に結界を維持する。その必死さに、愁は密かに満足げに頷いた。
(よし、そろそろ限界か……)
最後の一撃を加えた後、愁はふっと剣を下ろした。
「よし! リリー、少し休憩しようか」
「は、はい~。ふぅ、愁くん! リリー疲れたぁぁぁ!」
力尽きたようにその場に倒れ込むリリーニャ。全身汗だくで、肩で荒い息をする彼女を見て、愁は苦笑しながら手を差し伸べた。
「そんなところで寝たら服が汚れるよ」
「じゃあ、ライトのところまで運んで!」
リリーニャは両手を広げ、甘えるように要求する。愁は呆れたようにため息をついたが、結局は彼女を優しく抱き上げた。
「はいはい、お姫様抱っこでよろしいですね、お嬢様?」
「わーい! やったぁ!」
無邪気に喜ぶリリーニャを抱え、愁はライトのもとへと向かう。ライトはその様子を見て苦笑した。
「すみません、またリリーがわがままを……」
「いえいえ、もう慣れましたから」
そう言って、愁はリリーニャを優しく地面に下ろし、エンドレスボックスから水筒とコップを取り出した。中身は湯気の立つ紅茶だ。
「これは……いい香りですね」
ライトが感嘆しながら紅茶を口に含むと、リリーニャも興味津々でカップを手に取る。
湯気の立つ紅茶に、ふうっと息を吹きかけながら、一口飲むリリーニャ。しかし、口に含んだ瞬間、彼女の猫耳がピンと立ち、予想以上の熱さに小さく舌を出し、眉をひそめた。
「あついっ! けど美味しいね!」
そんな彼女の様子を見て、愁は優しく微笑みながら、そっと砂糖を差し出す。
「気を付けてね。あと、これを入れてごらん。甘くて美味しくなるよ」
リリーニャは興味津々に砂糖を紅茶に入れ、スプーンで静かにかき混ぜる。そして、おそるおそる再びカップを傾けた。紅茶が舌に触れた瞬間、彼女の顔がぱっと輝く。
「あまーい! こっちの方が好きかも!」
彼女の満面の笑みが、場の空気を和やかにする。束の間の安らぎ。しかし、それはあくまで短い休息に過ぎなかった。次に待ち受けるのは、苛烈な訓練だ。
ライトは微笑ましい様子を見届けると、静かに紅茶を飲み干し、迷いなく立ち上がった。その瞳には、揺るぎない決意が宿っている。
「愁さん、続きお願いします」
「え? もう休憩大丈夫なんですか?」
「はい、大丈夫です。時間がもったいないですから」
その言葉には一切の迷いがない。愁は軽く息をつきながらも、彼の真剣な眼差しを見て、心の中で小さく頷く。
「……わかりました。行きましょう」
リリーニャに水筒と砂糖を渡し、愁はライトの訓練を再開する。ライトの瞳には強い意志が宿っているが、それと同時に、どこか焦燥感も滲んでいるのが気になった。
(焦ってるよな……?今は『土台』を作る段階だから、あまり焦ってはほしくないけど……)
現在のライトは、装備によって身体能力を大幅に底上げされている。しかし、その恩恵を最大限に活かすためには、強化された身体に適応しなければならない。だが、彼の動きにはまだ僅かなぎこちなさが残っていた。身体の強化に身体そのものが追い付いていないのだ。
「とりあえず、俺がひたすら打ち込みますので剣で受け止めてください。徐々に速度を上げていくので、最終的には全て捌くのを目標にしましょう」
「わかりました。よろしくお願いします!」
ライトの声には熱がこもっている。努力を惜しまない姿勢は素晴らしいが、一ヶ月という短い期間で形にするには、ただがむしゃらにやるだけでは不十分だ。焦れば焦るほど、基本の精度が乱れ、習得すべき技術が歪んでしまう。
──訓練開始。
愁は宵闇を構え、一歩踏み込む。瞬間、鋭い風切り音と共に斬撃が走る。ライトは必死に剣を構え、受け止めようとするが、衝撃で体勢が崩れかけた。
「っ……!」
「足元が甘いです!」
愁の容赦ない一喝。ライトは歯を食いしばりながら踏ん張り、何とか体勢を整える。しかし、次の一撃はすぐに迫っていた。
◆◇◆◇◆◇
訓練開始から二週間もの間、ライトは何度も何度も愁の剣を受け続けた。指の皮が剥け、腕は悲鳴を上げ、全身は泥と汗に塗れた。それでも、彼は一度も音を上げなかった。
努力の成果は確実に表れている。最初は弾かれるだけだった剣も、今では安定した構えで受け止めることができるようになっていた。装備の強化に身体が馴染み、動きも格段に洗練されてきている。
一方、リリーニャもまた着実に成長していた。結界を維持しながら魔法を行使する訓練により、彼女は並行して複数の魔法を扱う力を身につけつつあった。現在は、さらに多様な魔法を習得するため、応用訓練に入っている。
『WORLD CREATOR』で使われていた魔法は、初級・中級・上級に分類される。愁が普段魔石を用いて使っているのは初級魔法であり、リリーニャが杖を使って発動した〈メテオ・インパクト〉は上級魔法。そして、そのさらに上に位置するのが、『神代の魔法使い』だけが扱うことを許される『神代魔法』である。
この世界における魔法の仕組みは未だ不明な点が多い。それでも、リリーニャは『WORLD CREATOR』の魔法を実際に行使できている。それが意味することは──
(やはり、魔法体系の違いはそこまで大きくないのかもしれないな)
愁はそう考えながらも、訓練の手は決して緩めない。
そしてついに、二週間に及ぶ『過酷な基本訓練』が完了した。これからはより実戦に即した訓練が始まる。
この二週間、彼らは血の滲むような努力を重ね、繰り返し振るわれた剣は、幾度となく汗と泥にまみれ、握りしめる手のひらには無数のひび割れが刻まれている。筋肉は悲鳴を上げ、限界を超えるたびに意識が遠のいた。それでも、ライトもリリーニャも立ち上がることをやめなかった。
流した汗と涙のすべてが、これからの戦いに直結する。次なる試練は、彼らをさらなる高みへと導くために待ち受けている。
ライトはすでに冒険者ギルドで登録を済ませていたため、愁の指示で討伐のクエストをいくつか請け負ってもらうことにした。実戦を経験しながら報酬も得られる、一石二鳥の選択だった。
本日の討伐対象は、洞窟などから人里に降りてくる魔物──フェイスイーターの群れ。彼らは夜になると家畜を襲い、人を拐い去るという。依頼した村の住民は恐怖に怯え、助けを求めていた。
愁が〈気配探知〉で依頼書にあった出没情報のあった森を探ると、フェイスイーターは二十九体潜んでいることが判明した。今回、リリーニャには初級魔法と結界のみで戦うように指示が出されている。そして、彼女を護衛するのがライトの役目だった。
「それじゃあ、クエストを始めましょうか。説明した通り、リリーが魔法で遠距離攻撃、リリーに近づく敵はライトさんが仕留めてください。その際、リリーは結界や魔法でライトさんを援護しつつ、遠くの敵にも注意を向けること」
愁はそう伝え、いつでも援護できるように木の上で待機する。
「よし、行こうか。頼りにしてるよ、リリー」
「任せてライト!二人でやっつけちゃおう!」
二人は気合十分で討伐に向かった。
森の奥に広がる暗闇の中、フェイスイーターの姿が浮かび上がる。彼らの顔には目も鼻もなく、不揃いな歯が並ぶ口のみが存在している。その青白い体は人型に近いが、どこか異様な雰囲気を醸し出していた。そして、数体の個体には干からびた人間の皮と思われるものが顔に貼りついており、さらに一本の錆びた剣を持つ個体もいた。恐らく、群れのリーダー格だろう。
フェイスイーターたちは二人の存在にまだ気づいていない。その隙に、リリーニャは杖に魔力を込め、無詠唱で〈火球〉を放つ。
放たれた火球は、一メートルほどの大きさとなり、まるで小さな太陽のように赤々と輝きながら、フェイスイーターの群れのど真ん中へと落ちた。
けたたましい爆発音とともに、五体のフェイスイーターが一瞬にして焼き尽くされる。これまでの訓練の成果が明確に表れた瞬間だった。
「やった!うまくできたよ!」
「リリー!喜ぶのはまだ早いよ。次に備えて!」
ライトの声に、リリーニャはハッとして身構える。
火球の衝撃で目標を定めたフェイスイーターたちは、一斉に二人に向かって駆け出した。響き渡る奇声、よだれを垂れ流しながら迫る群れ。森の静寂を切り裂くような恐ろしい咆哮が響き渡る。
「わわ!いっぱい来た!えい!えい!」
リリーニャは慌てつつも、空気を圧縮して不可視の刃とする〈空撃波〉を連続で放ち、先頭の二体を上半身と下半身に切り裂く。しかし、それだけでは群れの勢いを止めることはできない。
さらに〈電撃〉や〈火球〉を繰り出しながら、近づくフェイスイーターをできるだけ阻止しようとする。だが、足の速い個体が二人に迫る。
──その瞬間、ライトが疾風のように動いた。
「リリー、下がって!」
鋭い指示とともに、ライトの剣が閃く。刃が一閃し、フェイスイーターの首が宙を舞う。さらに、すぐさま反転し、もう一体の腹部を斬り裂いた。返り血が宙に散る中、二人は距離を取りながら応戦を続ける。
彼らは息を合わせ、着実に数を減らしていった。
──そして、最後の一体をライトが単身で撃破し、二十九体すべての討伐を完了させた。
見届けていた木の上から軽やかに降り立った愁が、満足げに手を叩いた。
「ライトさん、今の動きは素晴らしかったですよ。太刀筋も洗練され、無駄のない斬撃でした。それに、状況に応じた判断も完璧でしたね。リリーも、魔法での牽制が非常に的確だったよ。遠距離での制圧力が格段に上がってるね」
愁の言葉に、ライトとリリーニャは肩で息をしながらも、達成感に満ちた表情を浮かべた。だが、この時の二人はまだ理解していない。──これが、まだ訓練の『序章』に過ぎないことを。
明日から始まる訓練は、これまでの比ではない。甘さを一切排した、まさに『地獄』とも呼べる実戦形式の訓練が待っている。生半可な覚悟では、途中で折れることになるだろう。それでも、彼らは歩みを止めることはない。
なぜなら、この戦いの先にあるものこそが──彼らが目指す『未来』なのだから。
◆◇◆◇◆◇
地獄の実戦形式の訓練は順調に進んでいた。慣れが生まれたことで動きも精度を増し、クエストの達成経験も二人の自信となっていた。また、二人が次第に実践訓練に馴染み始めていたこともあり、途中で脱落するような事態には陥っていない。
そこからの一週間、愁は二人に毎日五つの討伐クエストを課した。彼らは二人だけでその全てを攻略しなくてはならない。戦う相手も愁が意図的に変化を加えた。俊敏な魔獣、強靭な甲殻を持つ魔物、飛行する敵、さらには狡猾な野盗──それぞれ異なる戦術を要求される試練だった。
容赦のない戦闘の連続。剣を振るう腕は悲鳴を上げ、魔力は枯渇寸前にまで追い込まれた。深夜に及ぶ戦闘の果て、倒れ込むように眠りにつき、夜明けと共に叩き起こされる。
しかし、その果てに、確かな『成果』が刻まれた。
ある日、愁は二人に『真実の石板』を手渡した。本人の許可があれば簡単なステータスを見ることができる特殊なアイテム。開示されるステータスは三種。『名前』『レベル』『種族』だ。
「手をかざしてみてください」
ライトとリリーニャが緊張しながら石板に触れると、淡い光と共に数値が浮かび上がる。
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ネーム:ライト・シィラビュロン
レベル:49
種族:人族
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ネーム:リリーニャ・スターライト
レベル:59
種族:亜人族
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ライトのレベルは『28』から『49』になり、リリーニャのレベルは『39』から『59』へとなった。愁はその数字を見つめ、静かに微笑えむ。この短期間に確かな成果があったからだ。
「二人とも、よくここまで成長しましたね。この調子なら、作戦までに十分間に合いますよ」
その言葉を聞いた瞬間、ライトとリリーニャの表情が弾けた。これまでの苦しみが報われた証。確かな成長を実感できる瞬間──それは、何物にも代えがたい歓びだった。
「愁さんのおかげです。本当に、ありがとうございます!」
ライトが真剣な眼差しで頭を下げる。
「いえいえ。これは二人が限界を超え、努力を積み重ねた結果ですよ」
レベルという概念がこの世界でどこまで信頼できるかは不明だが、実際の戦闘経験と基礎能力の向上という点では確かな成長を示していた。それに三週間という期間を考えれば、驚異的な速度だった。
(ガバレント奪還作戦まで残り『十日』──この調子なら、間に合う)
愁はひとまず安堵すると、ふと二人の疲労が限界に近いことに気づいた。
「……というわけで、明日は一日休みにしましょう」
「え?」
「しっかり体を休めて、心身ともにリフレッシュしてください。戦いは、万全の状態でこそ力を発揮できますからね」
二人は一瞬驚いたが、やがて安堵の表情を浮かべた。過酷な訓練の果てに得た、束の間の休息。身体の奥深くにまで染みついた疲労が、ようやく癒される時間だ。
だが、それは単なる安息ではない。次なる戦いへ向けた『覚悟』を固めるための時間でもあった。
遠くで風が木々を揺らし、葉擦れの音が静かに響く。戦いの幕開けは、もうすぐそこに迫っていた。
◆◇◆◇◆◇
愁は、二人と別れた後、拠点としている村へ戻ってきていた。三週間ぶりの帰還だ。ガバレント奪還作戦の前に、一度顔を出しておこうと思ったのだった。
「ただいまー。誰かいるかい?」
屋敷の扉を開け、声をかける。すると、しばらくして軽やかな足音が近づいてきた。
「愁さま!お久しぶりです。ずっと帰ってこないから心配しましたよ」
出迎えてくれたのはリアだった。ぱっと花が咲いたように微笑み、その顔には嬉しさが溢れている。
「ごめんね、少し忙しくてさ。一人かな?」
「スフィアさんは森の巡回に、メラリカさんは村の人たちに授業をしています」
「そうなんだ。じゃあ今は二人きりだね」
何気なく言った一言だったが、リアの頬がかすかに赤く染まる。
「は、はい!あの、お茶、用意してきますね!」
「あ、うん。ありがとう」
どこか焦ったように足早に去っていくリア。その様子に首をかしげながら、愁は自室へ向かった。
ソファに腰を落ち着けた頃、リアが湯気の立つ茶器を手に戻ってきた。
「どうぞ飲んでください」
「ありがとう、リア。いただくね」
湯飲みを受け取り、そっと口をつける。ふわりと立ち上る香ばしい茶の香りが、疲れた身体を優しく包み込んだ。
リアはそのまま隣に座り、ふと寂しそうな声を漏らす。
「愁さま……またすぐに行ってしまわれるのですか?」
「うん、十日後に大事な作戦があるからね。明日にはまた戻らないと」
「それじゃあ今日は一緒にいれるんですね?」
「そうだね。今日は一日こっちでゆっくりしていくよ」
それを聞いた瞬間、リアの表情がぱっと明るくなった。
「それなら……愁さまにお願いがあるんですが、いいでしょうか?」
「ん?いいけど、お願いって何?」
「少し待っててください」
リアは立ち上がり、部屋を出ていった。そして、すぐに戻ってくると、一冊の本を大事そうに抱えていた。
「この本、愁さまの国の本ですよね?」
彼女の手にあったのは『WORLD CREATOR』の料理レシピ本だった。現実世界の料理も作れる仕様になっている優れものだったが、異世界であるこの世界では珍しい料理の調理法が記された書物だった。
「うん、そうだよ。それがどうしたの?」
「わたしに、愁さまの国の文字や言葉を教えてほしいんです」
「教えるのはいいけど、いきなりどうしたんだい?」
意外な申し出に、愁は首をかしげる。
「エリサさんとエリスさんに愁さまが翻訳してレシピを渡していると聞きました。それをわたしが代わりにできるようになれば、少しは愁さまのお役に立てると思ったんです」
リアの健気な思いに、愁は自然と頬が緩んだ。
「確かに、翻訳を頼めるならかなり助かるよ。ちょうど俺が作った文字の表があるから、それを見て、まずは平仮名を覚えてもらおうかな」
「はい!わかりました。ご指導お願いします!」
机に並べられた文字表を見ながら、一文字ずつ丁寧に説明していくが、リアは驚くほどの吸収力を見せ、あっという間に平仮名を覚えてしまった。
「リアはすごいね!こんなにすぐ理解できるなんて」
「そ、そうですか?愁さまの説明がわかりやすいからですよ」
嬉しそうに笑う彼女の頭を優しく撫でると、リアは照れくさそうに微笑んだ。次に片仮名を教えると、こちらも短時間で習得してしまった。
「この『かんじ』っていう種類の文字が読めるようになれば全部ですか?」
「そうだね。本当にすごいよ、覚えるのが早くてビックリだ」
驚きながら愁が辞書を手渡すと、リアは目を輝かせながらそっとページをめくり始めた。指先が紙をなぞるたび、微かな擦れる音が静寂の中に溶けていく。その表情は真剣そのもので、一文字一文字を大切に味わうように視線を落としていた。
暖炉の炎がぱちりと小さな音を立てる。揺れる橙の光が壁に柔らかな影を作り、部屋全体を『温もり』で包み込んでいた。静かな時間が流れ、リアは夢中で辞書を読み進め、愁はそんな彼女の姿を横目にしながら本を開いた。
三十分ほど経ったころ、ふとリアが顔を上げる。
「愁さま、日本語は綺麗な言葉が多くて素敵ですね」
その瞳は、まるで新しい世界に触れた子供のように輝いていた。憧れと感動が入り混じるその表情に、愁は自然と口元を緩める。
「そうだね。難しいなんてよく言われるけど……そう言ってもらえると嬉しいよ」
リアはこくりと頷き、再び辞書へと視線を戻した。その横顔には、言葉の美しさに魅了された者特有の熱が宿っている。
暖かな時間が静かに流れていった。炎のゆらめきが一定のリズムを刻み、部屋の空気に安らぎを添える。リアが辞書を手に学び続ける中、愁は本を読みながら、次第にまぶたが重くなっていく。心地よい暖かさと静寂が、彼をゆっくりと夢の世界へ誘った。
どれほどの時が経っただろう。うっすらと目を開けると、視界の端に白銀の髪が映った。リアが愁のすぐ隣で寄り添うように眠っている。無防備な寝顔は穏やかで、どこか幼さを残したまま。そっと目を下ろすと、いつの間にかふわりと毛布が掛けられていた。
(リアが……掛けてくれたのか)
微かにくすぐったい感情が胸を満たす。乱れることなく丁寧に掛けられた毛布が、彼女の優しさをそっと伝えてくれるようだった。
壁に掛けられた時計の針が五時を指しているのを見て、愁は小さく息を吐く。
「まだ五時か……もう少し寝ようかな」
呟いた声は火のはぜる音にかき消されたが、それでも隣に眠る少女は微動だにしない。規則正しい寝息が静かに響き、暖炉の火の温もりとともに、心までじんわりと温めてくれる。
隣から伝わる『確かな温もり』。それが何よりも心地よくて、愁はそっとまぶたを閉じた。再び夢の淵へと沈んでいく感覚の中で、微かにリアの穏やかな寝息を感じながら、彼は静かな眠りへと落ちていった。




