第3話 リリーニャの過去 中編
リリーニャがこの村に来てから、早くも一年が過ぎた。
決して豊かとは言えない暮らしの中でも、彼女はすくすくと育ち、その小さな身体には生命力が満ち溢れていた。太陽のように明るく、活発で愛嬌たっぷりな少女は、瞬く間に村の人気者となった。
そもそも、この村には子供がいない。だからこそ、リリーニャの存在は村人たちにとっての癒しであり、希望そのものだった。行く先々で誰もが優しく声をかけ、頭を撫でたり、お菓子を分け与えたりする。そのたびに、リリーニャは無邪気な笑顔を輝かせて「みんなが家族みたい!」と嬉しそうに言うのだった。
昨晩のそんなリリーニャの無垢な笑顔を思い出しながら、オルトスは薪割りに精を出していた。力強く振り下ろされた斧が乾いた木を正確に捉え、パキンと気持ちの良い音を響かせる。
しかし、ふと視線を感じた。
オルトスは手を止め、振り返る。すると、茂みの影に見慣れたアッシュベージュの髪と猫耳がちらりと覗いていた。草の間からは、好奇心に満ちた丸い瞳がこちらをじっと見つめている。
「ん?おーい、リリー?そんなところで何してるんだ?こっちにおいで」
オルトスが手招きすると、茂みの奥で微かなざわめきが起こる。見つかってしまったことに驚いたのか、リリーニャの小さな身体がぴくりと震えた。
「えへへ……パパ、なにしてるの?」
照れくさそうに笑いながら、リリーニャはちょこちょこと小動物のような足取りで駆け寄る。そして、オルトスの足にぎゅっとしがみつき、首をかしげた。
「んー?これはね、薪を作ってるんだよ。これをたくさん作れば、寒い日でも温かく過ごせるし、美味しいご飯も食べられるんだ」
「え?おいしいものー?」
ぱっとリリーニャの表情が輝く。食べることが大好きなリリーニャにとって、『美味しいご飯』の言葉は特別な魔法のようなものだった。
「なら、リリーもやるっ!」
大きな瞳を輝かせながら、リリーニャは斧へと手を伸ばす。しかし、オルトスはその手をすっと遮り、優しく制止した。
「だーめ。リリーにはまだ早いよ。代わりに、ママのお手伝いを頼めるかな?リリーは良い子だから、できるよな?」
途端に、リリーニャの顔がしゅんと曇る。しかし、それも束の間のこと。次の瞬間には、満面の笑顔でぴょんと跳ね、元気いっぱいに答えた。
「えー、わかった!ママのおてつだいしてくるねっ!」
リリーニャはくるりと向きを変え、小さな足を精一杯動かして家へと駆けていった。その後ろ姿を見送りながら、オルトスはふと物思いにふける。
リリーニャは本当に賢い子供だった。物覚えが早く、手先も器用で、すでにミリラと一緒に笠を編めるようになっていた。そのおかげで、家の収入もわずかに増えた。そんな風に家族を支えてくれるリリーニャには、できる限り不自由のない生活を送らせてやりたい──そう思うたびに、オルトスはさらに仕事へと精を出した。
それから数日後、村には独特の緊張感が漂っていた。
今日は、年に数回訪れる帝国貴族の徴税の日。今回から新しく徴税の担当者が変わると知らされており、村人たちはどんな人物が来るのかと不安を抱えていた。
正午を過ぎた頃、遠くから馬車の音が響く。やがて村の入口に姿を現したのは、豪華な装飾が施された立派な馬車だった。馬車の扉が開き、まず降り立ったのは鎧をまとった三人の兵士。次いで、華やかな服を身にまとった一人の青年が現れる。
「……若いな」
村人たちは思わずざわめいた。
彼らの前に現れたのは、想像よりもはるかに若い貴族だったからだ。だが、村の代表であるテヌイとオルトスは動じず、すぐに丁寧に迎え入れる。
「遠路はるばる、このような辺境の村までお越しくださり、誠にありがとうございます。私は村長のテヌイと申します。こちらは村のまとめ役、オルトスという者です。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
深々と頭を下げる二人に、貴族の青年は穏やかに微笑んだ。
「はじめまして。今回からこの村の徴税を担当することになりました、ライト・シィラビュロンと申します。まだ若輩者ですが、何卒よろしくお願いしますね」
驚くべきことに、その笑顔は実に『まっすぐで、温かい』ものだった。
常の貴族であれば、村人を見下し、傲慢な態度を取る者がほとんどだ。しかし、目の前の青年はそんな様子を一切見せず、まるで対等な相手に接するように振る舞っていた。
オルトスとテヌイは戸惑いながらも、しっかりとライトと握手を交わす。
「ライト様、亜人族の者を相手にそのような態度を……」
傍らの兵士が不満げに呟く。しかし、ライトは肩をすくめ、軽やかに微笑んだ。
「いいんですよ」
その言葉はまるでそよ風のように軽やかで、どこか温かさを含んでいた。
テヌイは静かに用意していた税金を布袋に詰め、恭しくライトへと差し出した。貴族の中には必要以上に徴収し、村を搾取する者も少なくない。彼らにとって、亜人族の住むこの村など、ただの金づるに過ぎないのだ。しかし、ライトは定められた額のみを受け取り、それ以上の徴収を求める素振りすら見せなかった。
その場にいた村人たちは、誰もが息を呑んだ。
「……っ」
驚きと安堵が入り混じった沈黙が、辺りを包み込む。
帝国の貴族が、亜人族の村を相手にこれほどまでに誠実な対応をするなど、誰が想像できただろうか。彼が本当に『貴族』なのかと、村人たちは目の前の光景が信じられないでいた。
だが、この日を境に、ライト・シィラビュロンという貴族が、他の貴族とは『決定的に異なる存在』であることを、村人たちは次第に知ることとなるのだった。
しばらくして、テヌイとオルトスがライトと近況の報告を交わしている最中、ふいに小さな影が現れた。
「パパー?おきゃくさんなの?おにいちゃん、こんにちはっ!」
弾けるような明るい声が響き渡る。くりくりとした大きな瞳を輝かせながら、リリーニャは無邪気に笑い、目の前の青年を見上げた。
オルトスは慌ててその口を手で塞ぐ。
「すみません!うちの子がご無礼を。よく言い聞かせておきますので、どうかお許しください!」
リリーニャは突然のことで目を瞬かせ、呆然とした。けれど、ライトは驚くどころか、ゆっくりと微笑んだ。そして、まるでお姫様の手を取るかのように膝をつき、小さな手をそっと包み込む。
「こんにちは、可愛いお嬢さん。私はライト・シィラビュロン、よろしくね。お嬢さんのお名前を教えてくれるかな?」
その優しい声に、リリーニャは目を丸くする。そして、オルトスの手をどかし、弾むように答えた。
「リリーはねっ!リリーニャっていうの!七さいだよ!よろしくね、おにいちゃん!」
元気いっぱいの自己紹介に、ライトは微笑を深める。
「こらっ、リリー!貴族様に失礼だぞ」
オルトスの叱責に、リリーニャはしゅんと耳を伏せる。しかし、ライトはその頭を優しく撫で、穏やかに言った。
「いいんですよ。子供が元気なのはとても良いことですからね」
「いえ、しかし……申し訳ありません。ありがとうございます」
オルトスは、今までの貴族の在り方とはまるで異なるライトの態度に、どこか戸惑いを覚えつつも、胸の奥に温かいものが芽生えるのを感じていた。
その日の夕暮れ、ライトは村人一人ひとりに丁寧に挨拶をし、馬車へと乗り込んだ。村の者たちは彼の後ろ姿を見送りながら、胸の中で新たな希望を抱いていた。
──そして、夜。
ミリラが用意したスープの湯気が、食卓を優しく包み込む。トロトロに煮込まれた野菜の甘い香りが広がり、温かみのある夜を演出していた。
「はい、リリーの分もできたわよ」
ミリラが器を差し出すと、リリーニャは目を輝かせて受け取り、熱々のスープにふうふうと息を吹きかけながら、夢中でスプーンを運んだ。
そのせっかちな様子を見て、ミリラは思わず頬を緩める。
「それにしても、新しい貴族様は随分とお優しい方みたいでしたね?どんな人が来るのかと心配していましたが、あの御方なら安心ですね」
「ああ、そうだな。まさかあんなに優しい方が担当になるなんてな。しかし、リリーが出てきた時は、どうなることかと思ったよ」
オルトスは苦笑しながら肩をすくめた。
だが、当のリリーニャは、そんな父の心労など露知らず、スープに夢中だ。ようやく飲み干すと、綺麗に平らげた器をミリラに見せ、満面の笑みで言った。
「えへへ、ママのごはん、おいしい!」
その無邪気な笑顔に、ミリラもまた微笑む。そして、湯気の立つスープをおかわりの器にそそぎ、優しく言った。
「いっぱい食べてね」
リリーニャは嬉しそうに受け取り、小さな手でぎゅっと器を抱え込むようにして飲み始める。オルトスはそんな娘の姿を眺めながら、小さくため息をついた。
「ふぅ。まったく……でもまあ、リリーは将来、大物になるかもしれないな」
柔らかなランプの灯りが揺れ、家族の団欒を優しく照らしていた。村には静かな夜が訪れ、穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
──この幸福な時間が、いつまでも続くようにと願いながら。
◆◇◆◇◆◇
さらに時は流れ、幾つかの月日が過ぎた。春の訪れとともに、村のあちこちには柔らかな陽光が差し込み、木々は芽吹き、野花が色とりどりに咲き誇る。澄んだ空気には草木の香りが漂い、遠くからは鳥のさえずりが心地よく響いていた。
そして、今年も徴税の日が巡ってきた。
村の入り口に馬車が停まると、ライトは軽やかに降り立ち、護衛の兵士たちにその場で待機するよう指示を出す。彼は一人、村の長であるテヌイと、もう一人の代表者であるオルトスのもとへと向かった。
「今年もお願いします、テヌイさん、オルトスさん。それと……リリーもね」
微笑みながらそう言うと、オルトスの背後からひょっこりと小さな頭が覗く。幼い少女──リリーニャは、ライトの声を聞くや否や、ぱっと顔を輝かせた。だが、恥ずかしさもあるのか、すぐにオルトスの背中に隠れてしまう。それでも、ちらちらと顔を覗かせ、ライトの笑顔を目にすると、彼女も負けじと弾けるような笑みを返した。
「いつもうちの子がすみません。それで、ライト様、これが今回の分です。お受け取りください」
オルトスは硬貨の入った袋を差し出す。ライトはそれを受け取り、中身を確認した後、懐から羊皮紙を一枚取り出した。
「確かに受け取りました。これはその証明書です。大切に保存しておいてくださいね」
証明書には日付と納税の証明が記され、しっかりと印が押されている。亜人の村では、貴族によって二重徴税が行われることも珍しくない。しかし、ライトはそのような不正を許さぬよう、こうして自費で証明書を作成し、必ず村に渡していた。
テヌイは深く頭を下げる。
「いつもありがとうございます。ライト様のおかげで、村の生活もずいぶん良くなりました」
「いえ、それは皆さんが日々頑張っているからですよ。それに、担当する村の発展を考えるのも貴族の務めですから」
ライトは爽やかな笑顔で答えると、ふと視線を落とした。すると、オルトスの背後からそわそわと飛び出しそうなリリーニャの姿が目に入る。
「リリー、今日は何をしようか?」
ライトが優しく問いかけると、リリーニャはぱあっと表情を輝かせ、勢いよくライトの手を握った。
「こっちこっち!あのね、おにいちゃんにおはなのくびかざり、つくったの!」
彼女の小さな手は温かく、柔らかかった。そのままライトは、彼女に手を引かれて村の端にある小さな花畑へと向かう。
護衛の兵士たちはもはや何も言わない。最初こそライトの行動に呆れていたものの、今ではすっかり慣れた様子で、村人が用意した食事に舌鼓を打ちながら静かに待機していた。
花畑に着くと、リリーニャはそっと手のひらに載せた花飾りを掲げる。小さな指で一つ一つ編み込まれた花々は、鮮やかな色をまといながら光を受けて輝いていた。
「はい!おにいちゃんにあげる!リリーがひとりでつくったんだよ!すごいでしょ?」
彼女の笑顔は『太陽のように眩しい』。ライトは驚きながらも優しく受け取り、その場で首にかけた。
「ありがとうね、リリー。大切にするよ」
「うん!」
リリーニャは嬉しそうに頷くと、すぐに「ねえねえ!」と目を輝かせた。
「おそとのおはなし、して!」
彼女はライトが語る村の外の話が大好きだった。見たことのない町の賑わい、お城の壮麗さ、険しい山での冒険や楽しいお祭り──どの話も彼女の心をわくわくと躍らせる。
しかし、楽しい時間ほど、過ぎ去るのは早い。空が茜色に染まり始めると、ライトは名残惜しげにリリーニャの頭をそっと撫でた。
「よし、リリー。今日はおしまい。また今度来たときに続きを話してあげるよ。それまで、いい子で待ってられるかな?」
リリーニャはライトの服の裾をぎゅっと握りしめ、今にも泣き出しそうな顔をする。
「つぎは、いつくるの……?はやくくる?」
「そうだなあ……次は夏になったら来るよ。今よりもっと暑くて、太陽がきらきらと輝くころにね。それまで元気に待っててくれる?」
「わかった!」
元気よく頷くリリーニャをそっと地面に降ろし、ライトは彼女の小さな手を握った。
「それじゃあ、リリーのパパたちのところに戻ろうか」
「うん!もどる!」
夕陽が沈んでいくなか、二人は村へと帰っていく。リリーニャの手の温もりを感じながら、ライトはまた次に訪れる日のことを思い浮かべた。
──彼女の笑顔が、いつまでもこの村に咲き続けるようにと願いながら。
◆◇◆◇◆◇
それからさらに八ヶ月の月日が流れ、季節は再び冬を迎えた。
今日はリリーニャが心待ちにしていた徴税の日、そして、彼女がオルトスとミリラの家族になった記念の日でもある。大切な日と大好きな日が重なるこの日を、リリーニャは『人生で最も幸せな日』だと感じていた。
村は雪に覆われ、白銀の世界が広がっていた。枯れた木々の枝にはふわりと雪が積もり、まるで白い花が咲いたかのように美しく輝いている。澄んだ空気に冬の匂いが混じり、吐く息は白く染まる。リリーニャは窓辺にちょこんと座り、雪化粧を施された村の入り口を見つめていた。彼女の小さな耳がぴくりと動く。遠くから、聞き慣れた馬車の車輪の音が微かに響いてきた。
やがて見覚えのある馬車の姿が雪道の向こうに現れると、リリーニャは弾かれたように立ち上がった。
「ライトおにいちゃん!」
弾む声とともに、彼女は勢いよく家を飛び出した。白い息を弾ませながら駆けていくと、ちょうど馬車から降りてきたライトと目が合う。優しく微笑む彼の姿に、リリーニャの顔がぱっと輝いた。
本来の目的である徴税を滞りなく終えた後、リリーニャはいつものようにライトにべったりとくっついて離れなかった。
正確な誕生日がわからないリリーニャにとって、オルトスとミリラと出会ったこの日は、まるで誕生日のような特別な日だった。それを知っていたライトは、彼女のために小さなプレゼントを用意していた。
「誕生日おめでとう、リリー。はい、これは私からのプレゼントだよ」
そう言って差し出されたのは、繊細な装飾が施された銀色の腕輪だった。リリーニャは息を呑み、大きな瞳を輝かせる。彼女の世界には存在しなかった、美しく光を反射するその腕輪。そっと手に取ると、きらきらと輝くそれをじっと見つめた。
「……すごい! きれい!」
無邪気な歓声を上げると、リリーニャは急いで腕にはめてみせた。そして、ライトに向かって誇らしげに両腕を広げる。
「おにいちゃんありがとうっ! みて! 似合ってる?」
「うん、よく似合ってるよ。とっても可愛いね」
くるくると腕を回して腕輪を眺めるリリーニャは、まるで光そのものだった。ライトは、そんな彼女の笑顔が好きだった。貴族である彼の周りには、常に計算や策略が渦巻いていた。そんな世界の中で、純粋なリリーニャは、闇に染まりかけた彼の心を照らしてくれる太陽のような存在だった。
しかし──その平和な時間は、突然崩れ去った。
突如、村の入り口の方で爆発音が鳴り響いた。
乾いた空気を裂くような轟音が広がり、リリーニャはびくりと肩を震わせた。次いで、護衛の兵士の怒声がこだまする。
「敵襲! 盗賊と思われる者たちの攻撃です!」
それを合図に、村の入り口の方からは剣と剣が交じり合う音が響き始めた。戦闘が始まったのだ。
ライトの顔色が変わる。
「リリー、こっちだ!」
彼はすぐさまリリーニャの手を取り、雪を蹴立てながら駆け出した。向かった先は、冬の間ほとんど使われない農具小屋だった。
小屋の中に入り、ライトは素早く床の一部分を強く押す。すると、床板がわずかにずれ、中には人がひとり入れるほどの隠しスペースが現れた。これはオルトスがライトに教えていた避難場所だった。万が一のとき、リリーニャを安全に隠せるようにと用意されたもの。
「リリー、ここに入って。何があっても絶対に出てきちゃダメだよ。私が戻るまで、静かにここで待っているんだ。いいね?」
リリーニャは震える小さな手で、ライトの腕をぎゅっと掴んだ。
「おにいちゃんは? パパとママは? いっしょじゃなきゃいやだよ……」
震える声には、不安と恐怖が滲んでいた。
「大丈夫、パパとママは僕が助けに行く。だから、リリーはここで良い子にして待ってて。リリーは強い子だからできるよね?」
迷いのない声が、優しくリリーニャの心に響いた。小さな手が、ゆっくりと離れていく。
「……うん。わかった! リリー、ここで待ってるね。だから、ちゃんと迎えにきてね?」
「もちろんだよ。約束する」
ライトは微笑み、優しくリリーニャの頭を撫でる。その温もりが、消えないようにと願いながら、彼は床板を戻し、素早く小屋を後にした。そして、戦火の待つ村の入り口へと向かっていった。
 




