魔法士官学校上級生編 3
面会室は、候補生の父親など男性が利用することもあるため、女子寮の個室からは少し離れた場所に設けられている。普段なら、予約が入っている時間帯には隣室の受付に職員が待機しているはずだった。
けれど、今日は誰の姿もない。アンジェリカは室内に入ってからそのことに気づき、目の前に座るバシュロへ視線を向けた。彼はなにも言わず、ただ静かにこちらを見ていた。
声を荒らげているわけでもなければ、あからさまに怒りを表しているわけでもない。それなのに、眼鏡の奥にある目を見ただけで、機嫌が悪いことは嫌というほど伝わってきた。
きっと、あらかじめ人払いがされているのだ。心臓が、ひどく嫌な音を立てはじめた。
「いつまでそんなところに立っているのですか? それでは話もできません。もっと近くに来なさい」
「はい……」
アンジェリカは逆らわず、二歩、三歩と距離を縮めた。すると、それまで椅子に腰かけていたバシュロが立ち上がる。その動きを目で追った、次の瞬間だった。
頬に強い衝撃が走った。なにが起きたのか理解するより先に身体が傾き、軽いアンジェリカはそのまま床へ倒れ込む。肩を強く打ち、その勢いで頭まで床にぶつけた。
「くっ……は……」
遅れて痛みが押し寄せ、息が詰まる。耳の奥で音がこもり、視界がわずかに揺れたが、バシュロは待ってはくれなかった。
「愚か者め。よりにもよって、レルカン家の息子に負けるなど」
冷え切った声とともに、腹へ重い衝撃が落ちてくる。硬い靴底が容赦なく食い込み、アンジェリカは身体を丸めた。
「ごめん……なさい……」
息をすることさえ苦しく、声はまともな形にならなかった。それでも謝らなければならないと思った。これ以上怒らせてはいけないし、絶対に逆らってはいけない。
床に伏したまま視線を上げると、バシュロの手には細身のステッキが握られていた。それを振り上げる気配が見えて、アンジェリカは反射的に目を閉じた。
また痛みがくる――。
そう身構えたものの、いつまで経っても衝撃は落ちてこなかった。代わりに、短い舌打ちの音が聞こえてくる。
「立ちなさい。アンジェリカ」
アンジェリカは恐る恐る目を開けた。身体のあちこちが痛んだが、その場に座り込んでいることは許されない。床へ手をつき、どうにか身体を起こすと、ふらつきながら立ち上がった。
これまでにも、出来が悪ければ叩かれることはあった。けれど、ここまで強く殴られたことははじめてだ。倒れたところを、踏みつけられたことも。
それだけ今回の失敗が重いのだと、思い知らされる。
「今回のことは、侯爵閣下もさぞ残念に思われるでしょう」
バシュロは何事もなかったかのように椅子へ戻り、乱れた袖口を整えた。
「あなたは、首席であることの意味を正確に理解しているのですか?」
「しゅ、首席で卒業した魔法士は……軍で将来を約束され、特別な待遇を受けられます」
まだ息が整わず、ところどころ声が震えたが、どうにか言い切る。
「わかっているなら、どうして簡単に譲り渡したのですか?」
眼鏡越しの視線が、まっすぐアンジェリカへ向けられる。
「努力が足りない。いったいこれまでなにをしていたのですか?」
「本当に……申し訳ございません」
それ以外になにを言えばよいのかわからなかった。少なくとも、できる限りのことはしたつもりだった。けれど、その言葉を口にすることは許されない。
「まあいいでしょう。過ちは一度限りです。……次は最後の試験ですね?」
「はい……」
「どんな手を使っても、必ず首席を取り戻しなさい。いいですか? どんな手を使ってでもです」
「……はい」
そう、返事をするしかなかった。
でも本当は、取り戻す方法など、今の自分には見当もつかない。
今回の試験では、筆記は全科目満点だった。それ以上の点数を取ることはできない以上、差をつけるとすれば実技しかない。けれど、そこで負けたのだ。
「そうそう……」
バシュロが、ふと思い出したように声を変えた。
「あなたの母君ですが、また体調が悪くなっているようですね?」
アンジェリカは、はっと顔を上げた。
「母が……?」
そんな話は聞いていない。最近届いた手紙にも、母はいつもどおりだと書かれていた。けれど、母がアンジェリカに余計な心配をかけまいと、体調の悪化を隠していた可能性は十分にある。
「母は……大丈夫なのですか?」
「さて。私は医者ではありませんから、詳しいことまではわかりません」
バシュロは淡々と答えた。
「ただし、治療には今後も相応の金がかかるでしょう」
その一言で、アンジェリカの背筋が冷えた。母が受けている治療も、薬も、ガイエ侯爵からの支援があるから続けられている。アンジェリカ自身も、寮での生活費として与えられた金を貯金しているが、医療費がおそろしく高いことも知っている。
「母親のことを大切に思うなら、これ以上私を失望させないでください」
「……はい」
返事をする声が、先ほどより小さくなった。
「今日はこれで帰ります」
うつむくアンジェリカの横を通り過ぎ、彼は去っていく。
扉が閉まる音が響いたあとも、アンジェリカはしばらく動けなかった。人の気配が完全に遠ざかってから、ようやく頬へ手を当てる。熱を持ったところに指先が触れ、鈍い痛みが走った。腹もまだ痛む。
けれど、それよりも頭から離れないのは、最後に告げられた母のことだ。
(……できません。私には、もう……できません)
今回、できる限りのことをして、それでも負けた。実技だって、失敗したわけではない。それでも、エセルバートのほうが上だった。
(次もきっと、エセルに負けてしまいます)
そうなれば、どうなるのだろう? ガイエ侯爵に見限られれば、これまで受けていた支援はなくなり、母は治療を続けられなくなる。
その先を想像しようとしただけで、息が苦しくなった。アンジェリカは誰もいなくなった面会室で、ただ呆然と立ち尽くしていた。




