魔法士官学校入学編 4
季節が巡り、一年生の終わりに行われた試験でも、アンジェリカは首席の座を守った。もっとも、以前と比べればエセルバートとの差は縮まっている。
特に目覚ましく伸びたのは、あれほど嫌っていた戦史だった。
「……八十七点」
返却された答案を覗き込み、アンジェリカは感心した。
「すごいですね。前回より二十点以上上がっています」
「だろう?」
エセルバートは誇らしげに答案を掲げた。
「アンジェリカの年表方式はなかなか使える。あと、一緒に勉強したのもよかった」
「それならよかったです」
「だから、お礼にケーキくらいご馳走させて」
「ケーキ、ですか?」
「そう。君は、休日になると寮に引きこもってばかりだろう? たまには外に出たほうがいい」
「引きこもってはいません。ゆっくり休んでいるんです」
必要なものは購買部で揃うし、出かけなければ困ることもなかった。
「だからそれを引きこもりと言うんだよ。首都には美味しい菓子店がたくさんあるし、せっかく住んでるのに、一度も行かないなんてもったいない」
「でも……」
「お礼なんだから、遠慮しないで」
出会ったばかりのころ、一度だけ昼食を奢られたことがある。
あのときアンジェリカが好まない様子を見せてから、エセルバートはなにかにつけて金を出そうとすることはなくなった。
(……でも、ケーキなら)
今回は施しではなく、勉強を手伝った礼だという。それなら、素直に受け取るのも礼儀だ。
「わかりました。ぜひ」
「決まりだね」
エセルバートが満足そうに笑った。
「今度の休日、街の時計台の前で待ち合わせしよう」
「はい」
アンジェリカは頷きながら、手帳を取り出して予定を書き込んだ。
休日に、エセルバートと、街へ出かける。ただそれだけのことなのに、書き込んだ文字を妙に丁寧になぞってしまう。
「そんなに真剣に書かなくても、忘れないだろう?」
「約束ですから」
「真面目だなぁ」
からかわれ、アンジェリカは手帳を閉じる。
この頃のアンジェリカは、まだなんの危機感も持っていなかった。ただ、次の休日にはエセルバートが美味しいと言うケーキを食べられること。……その約束を、素直に楽しみにしていただけだった。
◇ ◇ ◇
その日の朝は、いつもより身支度に時間がかかってしまった。
「ああ……どうして今日に限って髪が……」
鏡の前で、アンジェリカは困り果てた声を漏らす。肩のあたりで切りそろえている茶色い髪は、もともと少し癖があり、放っておくと緩やかに波打つ。それ自体はいつものことなのだが、今日に限って片側だけが頑固に外へ跳ねていた。
手で押さえてみても、櫛で何度とかしてみても、結局同じところがぴょこんと浮き上がってしまう。
普段なら気にしなかった。成績にはなんの影響もないから。けれど、今日は事情が違う。……これからエセルバートと二人で街へ出かけるのだから。
壁に掛けられた時計を見れば、待ち合わせの時間は少しずつ近づいている。
「もう……しかたありません」
これ以上髪と格闘していては、本当に遅刻してしまう。アンジェリカは諦めて、跳ねているほうの横髪だけを編み込み、耳へかけることにした。慣れないことなので完璧な仕上がりとはいえないが、どうにか形にはなっている。……寝癖のままよりましだ。
(……変では、ないですよね?)
誰かに見てもらえるわけでもないため、鏡へ顔を近づけ、よく確認するが、最後は自分に言い聞かせるしかない。そして、服については選びようがなかった。
候補生として生活するようになってから、ほとんど毎日制服を着ている。私服が必要になる場面そのものが少なく、アンジェリカが持っている服はわずかなものだ。
その中から、一番上等に見えるものを選ぶ。黒を基調とした、白い襟つきのワンピースだ。
襟の形を直し、裾に皺が寄っていないかまで確かめる。そこまでしてから、ふと我に返った。
(……私は、いったいなにをこんなに気にしているのでしょう)
ただ友人と街へ出かけるだけ。
しかも目的は、勉強を手伝った礼としてケーキをご馳走してもらうこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう自分に言い聞かせたものの、鏡に映る頬はわずかに赤く見えた。
それからすぐに、アンジェリカは部屋を出た。女子寮の廊下を歩いて、出入り口のほうまでいくと、見知った人に出会う。
「……珍しいのね?」
声をかけてきたのは、オレリア・セシャンだ。アンジェリカと同じ学年で、同じ特別クラスに所属している女子候補生である。また、この寮では同学年のまとめ役も務めていた。
オレリアがいぶかしげな視線を向けている理由は、すぐにわかった。アンジェリカが制服ではなく、私服を着ているからだ。
魔法士官候補生は、外出するときにも制服を着用することが推奨されている。もっとも、あくまで推奨であって義務ではない。休日くらい軍人らしい格好から解放されたいという者は多く、ほとんどの候補生は私服で街へ出ていた。
一方のアンジェリカは、これまで外出といっても本屋へ行くか、日用品を買い足す程度だった。わざわざ着替える理由もなく、いつも制服のまま出かけていた。
だからこそ、オレリアの目にはよほど珍しく映ったのだろう。
「あっ……はい。たまには……そういうこともあります」
なぜだか後ろめたいことでもしているような気分になり、アンジェリカは曖昧に答えた。二人は、休日の予定や行き先まで語り合うほど親しい関係ではない。
あからさまに悪口を言われるわけではない。寮で必要な連絡事項があればきちんと教えてくれるし、まとめ役としての仕事も真面目にこなしている。
けれど、アンジェリカには彼女のことが少し苦手だった。不快なものを見るような、あるいは値踏みするような眼差しを向けられている気がしたから。
オレリアも、外出するところらしい。
深みのある赤色のワンピース、それに足元には細い踵の靴。腕には、小さいながらも一目で高価だとわかる鞄を提げている。まっすぐに伸びた白金色の髪には、ワンピースと同じ赤色のカチューシャ。……どこから見ても、よく似合っていた。
オレリアは伯爵家の令嬢で、立ち姿ひとつを取っても、アンジェリカとは違う。本人が意識しているのかどうかはわからないが、背筋の伸ばし方や顎の角度、服の着こなしにまで、生まれ育った環境の違いが現れているように感じられた。
アンジェリカは、つい自分の服へ視線を落とした。黒い安物のワンピース。……それに磨いたとはいえ、使い慣れた靴だ。オレリアの隣へ立つと、急にひどく質素なものに思えてくる。
その様子を見ていたオレリアが、ふっと口元を緩めた。
「墓参りなら、制服のままでもいいのに」
「……そ、そ、そう、ですね」
意味を理解するのに、一瞬だけ時間がかかった。黒い服だから、そう言ったのだろう。冗談なのか、それとも皮肉なのか、判断できないままアンジェリカは曖昧に頷いた。
オレリアはそれ以上なにも言わず、興味を失ったようにすれ違っていく。廊下に残されたアンジェリカは、しばらくその場に立っていた。
(……やっぱり、変でしょうか?)
先ほどまで鏡の前で、それなりに満足していた気持ちが一気に萎んでいく。髪も苦労して整えたが、今はそれすら子どもっぽく感じられた。




