第三百十八話 勝てるわけがない
ユウトとの圧倒的な力の差を思い知ったバット。
そこへ、戻りの遅さを不審に思った彼が姿を現します――。
ベルグラードの町外れ。
街道の脇で舞い上がっていた土煙が、ゆっくりと晴れていく。
地面には大きく抉れた跡が残り、その中心では、一人の魔族の男が仰向けに倒れていた。
「…………」
黒い翼は力なく地面へ広がり、先ほどまでの威勢など欠片も感じられない。
バットだった。
「……ぐっ」
僅かに指が動く。
続いて腕を持ち上げようとするが、身体中に走った痛みに顔を歪め、再び地面へ倒れ込んでしまった。
(……何が、起きた……?)
意識はある。
だが、頭がうまく働かない。
確か、自分は終焉竜へ向かって突進したはずだった。
近距離なら勝機がある。
そう判断し、渾身の力を込めた拳を放った。
しかし、その直後に何かが頬へ触れたと思ったら、次の瞬間には空と地面が何度も入れ替わり、気づけばここへ転がっていたのである。
(……馬鹿な)
認めたくなかった。
魔王軍の一員として、それなりの戦いを経験してきた自負がある。
少なくとも、自分がこれほど一方的に打ち負かされるなど、想像したこともなかった。
それなのに――。
『……生きてる?』
「っ!?」
不意に頭上から聞こえた声に、バットの身体が跳ねた。
視界が暗くなる。
何か巨大なものが、自分へ覆いかぶさっていた。
恐る恐る顔を上げると、そこには巨大な竜の顔があった。
つい先ほど、自分を遥か彼方へ吹き飛ばした張本人である。
しかも、その顔は驚くほど近かった。
「ひっ……!」
『あ、生きてた』
「ち、近い! 離れろ!!」
『え?』
「その姿で顔を近づけるな!」
『なんで?』
「怖いからだ!!」
『俺のこと確認しに来たんじゃなかったのかよ!』
「それとこれとは別だ!!」
バットが必死に叫ぶ。
しかし、ユウトは納得できない様子で首を傾げていた。
『……変な奴だなぁ』
「貴様にだけは言われたくない!!」
『なんでだよ!』
ユウトは心底不思議そうだった。
バットはそんな相手から少しでも距離を取ろうと、慌てて身体を起こそうとした。
「……ぐっ!」
しかし、腕に力が入らない。
肘をついたところで身体が震え、再び地面へ崩れ落ちてしまう。
『……大丈夫?』
ユウトが心配そうに顔を近づける。
「触るな!」
『いや、起きられないのかなって』
「誰のせいだと思っている!!」
『お前が殴りかかってきたからだろ?』
「…………」
正論だった。
それが、何より腹立たしい。
『しかも俺、かなり加減したぞ』
「…………」
『本当に。だって、あんまり強く叩いたら危ないじゃん』
「……やめろ」
『……何が?』
「それ以上、言うな……」
バットは地面に両手をついたまま、震える声を絞り出した。
『……なんで?』
「惨めになるだろうがぁぁぁ!!」
悲痛な叫びが街道へ響き渡った。
その様子を少し離れた場所から見ていたシアが、とうとう腹を抱え始める。
「……ぷっ! バット、ちょっと可哀想になってきたっす!」
「お前、めちゃくちゃ笑ってるじゃねぇか」
リトが呆れたように答えた。
「笑ってないっす!」
「声震えてるぞ」
「耐えてるっす!」
「それを笑ってるって言うんだよ!」
リトも口元を緩めながら突っ込む。
シエルはそんな二人を横目に見ながら、小さくため息を吐いた。
「……まったく。あれだけ大騒ぎしていたのに、結局こうなるのね」
「まあ、相手がアニキですからね」
リトが肩を竦める。
「それにしても、よく生きてたっすね」
「ユウトも一応、加減はしていたみたいだから」
「一応っすか!」
「ええ。一応ね」
三人の間に小さな笑いが起きる。
そんな中、ミレアだけはまだ少し離れた場所から巨大なユウトの姿を見上げていた。
世界を滅ぼす厄災として、伝承に語られる存在。
その姿を初めて目にしてから、まだそれほど時間は経っていない。
圧倒的な魔力。
巨大な身体。
危険な魔法を爪先だけで弾き、魔王軍の魔族を一撃で吹き飛ばすほどの力。
どれを取っても、自分の知る常識からは大きく外れていた。
しかし――。
『……立てる?』
「触るなと言っているだろう!」
『じゃあ自分で立てよ』
「立てたら苦労していない!!」
『どっちだよ!!』
「…………」
目の前の終焉竜は、どう見てもいつものユウトだった。
いや、むしろ身体が大きくなった分だけ、普段のやり取りが余計に滑稽に見える。
(……本当に、変わらないんですね)
ミレアは小さく息を吐くと、思わず微笑んだ。
その時だった。
――バサッ。
「……ん?」
再び、空から大きな羽音が響いた。
ユウトが顔を上げる。
『……また何か来た』
「……何?」
シエルもすぐに空へ視線を向けた。
青い空の彼方に、一つの影が見える。
それは真っ直ぐ、こちらへ向かってきていた。
「……まさか」
地面に倒れたままだったバットの表情が変わる。
何かを感じ取ったらしく、痛む身体を忘れたように顔を上げた。
「……この魔力……!」
その声には、先ほどまでとは違う緊張が滲んでいる。
「……ゴルダン様……?」
『……え?』
ユウトが目を丸くした。
空から近づいてくる影が、少しずつ大きくなっていく。
そして、次の瞬間。
――トンッ。
その男は、街道の上へ静かに降り立った。
鍛え上げられた身体と、黒を基調とした威圧感のある姿。
ただ立っているだけだというのに、周囲の空気が僅かに引き締まる。
ゴルダンだった。
「…………」
ゴルダンは周囲を一度見渡した。
街道の端から不安そうに様子を窺うベルグラードの住民たち。
警戒を解かずに立つシエル。
シア、リト、ミレア。
そして、巨大な終焉竜。
最後に、その視線が地面へ向けられる。
「…………」
そこには、満身創痍のバットが転がっていた。
僅かな沈黙。
『……あっ!』
最初に口を開いたのは、ユウトだった。
『ゴルダン!』
「……ユウト」
『久しぶり!』
「……ああ」
『元気だった?』
「……お前は……聞くまでもないな」
ゴルダンは小さく息を吐いた。
そして、改めてバットへ視線を向ける。
「私はこいつに、少し様子を確認してこいと言った」
『……うん』
「それだけのはずだった」
『……うん』
「ところが、いつまで経っても戻ってこない」
『……うん』
「嫌な予感がしたので、様子を見に来たのだが……」
ゴルダンは一度言葉を止めた。
地面に倒れるバットを見下ろし、再び口を開く。
「……見事に当たったな」
『……当たったね』
「…………」
バットの身体が、小刻みに震え始めた。
先ほどまでの恐怖とは、また別の種類の緊張だった。
「ゴ、ゴルダン様……!」
掠れた声を絞り出す。
ゴルダンの視線が、ゆっくりと彼へ向けられた。
「……バット」
「は、はい!」
「私は、お前に何と言った?」
「…………」
「答えろ」
低く、落ち着いた声だった。
決して怒鳴っているわけではない。
しかし、その声を聞いたバットの背筋は、痛みも忘れて伸びかけていた。
「ベ、ベルグラードへ向かい……」
「……ああ」
「終焉竜の状況を確認せよ、と……」
「そうだ」
「…………」
ゴルダンは周囲へ視線を向けた。
地面に残された大きな抉れ跡。
折れた街道脇の木々。
まだ完全には収まっていない土煙。
それだけでも、ただの状況確認では済まなかったことは明らかだった。
「……では、聞こう」
「……はい」
「私は、お前に戦ってこいと言ったか?」
「…………」
「……バット」
「……いいえ」
「住民を巻き込むような魔法を放てと命じたか?」
「…………」
「答えろ」
「……いいえ」
「終焉竜の正体を、町の住民たちへ公表してこいとでも言ったか?」
「………………いいえ」
バットの声は、今にも消え入りそうだった。
すると、その横から――。
『……全部やってたぞ』
「……ユウト、今は黙っていてくれ」
『……はい』
「…………」
あまりにも素直に返事をしたユウトを見て、シアの肩が震えた。
「……主が素直に黙ったっす」
「今は笑うな」
リトが小声で注意する。
「……無理っす!」
ゴルダンは聞こえていたのか、僅かに眉を動かした。
しかし、今は構っている場合ではないらしい。
「……他には何をした?」
再びバットへ尋ねる。
「…………」
バットは何も答えられなかった。
いや、正確には答えたくなかったのだろう。
しかし――。
『……最大魔法、撃ってきた』
「……ユウト」
『あ、ごめん』
「…………」
ゴルダンの眉間に、僅かな皺が寄った。
「……最大魔法?」
「…………」
「……バット」
「……はい」
「ここで?」
「…………はい」
「住民がいる町の中で?」
「…………はい」
ゴルダンが黙った。
バットも黙る。
その場には、しばらく重苦しい沈黙が流れた。
やがて――。
「……何をしているんだ、お前は」
ゴルダンが、心底呆れたように呟いた。
「……申し訳、ありません……」
バットは地面へ視線を落とした。
つい先ほどまで、終焉竜を前に威勢よく叫んでいた男とは思えないほど小さくなっている。
しかし、バットにもまだ言い分はあった。
「し、しかし! ゴルダン様!」
「……何だ?」
「あの者は危険です!」
『……俺?』
「黙ってろ!」
『……はい』
「…………」
シアがとうとう顔を背けた。
笑いを堪えるのに必死なのだろう。
バットはそんなことにも気づかず、必死に訴え始めた。
「あの者は! 私の黒滅砲を!」
「…………」
「我が最大魔法を、まるで何でもないかのように弾き返したのです!」
ゴルダンは、少しも表情を変えなかった。
「……そうか」
「…………え?」
バットが目を瞬かせる。
「……それがどうした?」
「…………」
バットの顔から、表情が消えた。
「……ゴルダン、様?」
「何だ?」
「……驚かれないのですか?」
「なぜ驚く必要がある?」
「……なぜって!」
バットが思わず声を上げる。
「黒滅砲ですよ!? 私の最大魔法です! それを爪先だけで弾かれたのですぞ!」
「……それで?」
「それで、とは……!」
バットは言葉を失った。
自分にとって、信じがたい出来事だった。
終焉竜が強いことは知っていた。
伝承に残る最強種であることも、理解していたつもりだった。
しかし、自分の最大魔法がまるで通用しないなど、想像の範囲を遥かに超えていたのである。
それなのに、ゴルダンは少しも驚いていない。
むしろ、それが当然であるかのような反応だった。
「……お前は、何を勘違いしている?」
ゴルダンが静かに口を開いた。
「終焉竜だぞ」
「……はい」
「伝承に語られるほどの存在だと、知っていたのだろう?」
「……はい」
「ならば、なぜ自分の魔法が通用すると思った?」
「…………」
バットは何も答えられなかった。
そして、ゴルダンの視線が巨大なユウトへ向けられる。
「……ユウト」
『……何?』
「まだ、その姿でいるのか?」
『……あ』
ユウトが自分の身体を見下ろした。
大きな四肢。
鋭い爪。
背中の翼。
そして、地面へ長く伸びる尾。
『……忘れてた!』
「…………」
『戻るわ!』
ユウトはそう言うと、意識を集中させた。
次の瞬間、巨大な身体が光に包まれる。
鱗に覆われた巨体が徐々に小さくなり、広がっていた翼も光の中へ消えていった。
そして、眩しい光が収まった時。
そこには、いつものユウトが立っていた。
「……よっと!」
ユウトが軽く肩を回す。
「やっぱ、こっちの方が動きやすいな!」
「……そうか」
ゴルダンが頷く。
「…………」
バットは、そんな二人を交互に見つめていた。
巨大な終焉竜が人の姿へ戻ったというのに、ゴルダンは少しも驚いていない。
それどころか、まるで日常的な出来事であるかのように受け止めている。
「……あの」
「何だ?」
バットが恐る恐る口を開いた。
「ゴルダン様……」
「……ああ」
「随分と……慣れておられませんか?」
「……何に?」
「終焉竜の姿です。まったく驚かれていませんが……」
ゴルダンは一瞬だけユウトへ視線を向けた。
そして、何でもないことのように答える。
「見たことがあるからな」
「…………え?」
バットの顔が引きつった。
「み、見たことが……?」
「ああ」
「……あの姿を?」
「そうだ」
「…………」
バットは口を開けたまま、二人を交互に見つめた。
その頭の中で、これまでの会話が少しずつ繋がり始める。
ユウトは、ゴルダンを呼び捨てにしていた。
しかも、まったく遠慮する様子もない。
ゴルダンもそれを咎めず、普通に会話している。
そして今、ゴルダンは終焉竜の本来の姿を見たことがあると言った。
(……まさか)
バットの胸に、嫌な予感が広がった。
「……ゴルダン様」
「今度は何だ?」
「もしかして……」
バットは恐る恐るユウトを指さした。
「ゴルダン様も、この者と……?」
「戦ったことならある」
「……あったな!」
ユウトが何気なく頷いた。
「…………」
バットの顔色が、みるみる青くなっていった。
「……た、戦った……?」
「ああ」
「……終焉竜と?」
「そうだ」
「…………」
バットは、何度か口を開け閉めした。
そして、ようやく声を絞り出す。
「……結果は?」
「…………」
ゴルダンが静かにバットを見た。
「……聞きたいか?」
「…………」
聞きたくない。
バットの顔には、はっきりとそう書いてあった。
しかし、ここまで聞いてしまった以上、知らないままでいるのも恐ろしかった。
「……はい」
震える声で答える。
ゴルダンは、特に隠そうとする様子もなく口を開いた。
「……負けたよ」
「…………」
バットの時間が止まった。
「…………え?」
「私も、ユウトには勝てなかった」
「…………」
「……あったなぁ、そんなこと!」
ユウトが懐かしそうに笑う。
「…………」
シアが、そっと顔を背けた。
「……これは効いたっすね」
「やめてやれ」
リトが小声で注意する。
しかし、その声にも笑いが混じっていた。
「……ゴルダン様が……」
バットは、ようやく言葉を絞り出した。
「……負けた……?」
「ああ」
「……こいつに……?」
「こいつって言うなよ!」
ユウトが抗議した。
しかし、バットにはもう、その言葉へ反応する余裕すらなかった。
自分が心から敬意を抱いている上官。
魔王軍の中でも、確かな実力を持つゴルダン。
そのゴルダンですら、目の前の青年には勝てなかったという。
(……では、私は……)
バットの脳裏に、先ほどの光景が浮かんだ。
黒滅砲を爪先で弾かれたこと。
渾身の一撃を、軽く払われただけで吹き飛ばされたこと。
そして、自分がそれまで誇っていた力のすべてが、まるで通じなかったこと。
それらが、ようやく一つの答えへ繋がった。
「……バット」
ゴルダンが静かに名前を呼ぶ。
「…………はい」
「私でも勝てなかった相手に、お前が敵うと思うか?」
「…………」
バットがゆっくり顔を上げた。
ゴルダンは、淡々と続ける。
「相手の力量も見極めず、勝手に戦いを挑んだ。その結果がこれだ」
「…………」
「それも、町の住民まで巻き込んでな」
「…………はい」
バットは、力なく頷いた。
その肩が、完全に落ちる。
先ほどまでの威勢は、もはや見る影もなかった。
「……でもさ!」
そこで、ユウトが口を挟んだ。
「ゴルダンは、すげぇ強かったぞ?」
「……ユウト」
ゴルダンが静かに制した。
「……何?」
「今は慰めるな」
「……なんで?」
「余計に惨めになる」
「…………」
バットの肩が、さらに落ちた。
「……あ」
ユウトが小さく声を漏らす。
「なんか……ごめんな」
「謝るなぁぁぁぁぁ!!」
バットの絶叫が、ベルグラードの街道へ響き渡った。
その瞬間、シアがとうとう耐えきれずに吹き出した。
「……ぶはっ! もう無理っす!」
「ガッハッハ! アニキ、完全にとどめ刺してるじゃねぇか!」
「なんでだよ! 慰めただけじゃん!」
「だから、それが駄目なのよ」
シエルが呆れたように答える。
「……難しいな!」
ユウトは心底困ったように頭を掻いていた。
そんな一行を見ていたミレアも、思わず小さく笑ってしまった。
巨大な竜の姿を見せられた時には、あれほど驚いていたというのに。
今では、まるでいつもの仲間たちのやり取りに戻っている。
その中心にいるのは、やはりユウトだった。
◇
ひとしきり騒ぎが収まった頃。
ゴルダンは改めて周囲を見渡した。
「……それで、ユウト」
「……ん?」
「町は無事なのか?」
「……うん!」
ユウトが頷く。
「こいつの魔法は、上に弾いたから!」
「……そうか」
「建物も大丈夫だと思うし、怪我した人もいないはず!」
ユウトは周囲の住民たちへ視線を向けた。
避難していた人々も、少しずつ街道へ戻ってきている。
遠巻きにこちらの様子を見ている者もいれば、ユウトの姿が元に戻っていることに驚いている者もいた。
しかし、少なくとも大きな怪我をした者はいないようだった。
「……畑とかも大丈夫だと思うよ!」
「……畑?」
「うん。最近、魔獣が出た時も気をつけたんだけどさ。作物が駄目になると困るだろ?」
「…………」
ゴルダンは少しだけユウトを見つめた。
そして、小さく息を吐く。
「……相変わらずだな、お前は」
「……何が?」
「いや、何でもない」
「最近それよく言われるんだけど!」
ユウトが不満そうに答える。
ゴルダンは小さく首を振ると、再びバットへ視線を向けた。
「……運がよかったな」
「…………はい」
「相手がユウトでなければ、どうなっていたか分からん」
その声が、僅かに低くなる。
「あれだけの魔法を、町の中で放ったのだろう?」
「…………」
「防げる者がいなければ、大勢の命が失われていたかもしれん」
「……はい」
「自分が何をしたのか、理解しているか?」
バットは、今度こそ何も言い返さなかった。
先ほどまで、自分の最大魔法が防がれたことばかり気にしていた。
しかし、ゴルダンの言葉によって、ようやく別の事実にも向き合わされたのである。
自分の力を示すためだけに、何の関係もない住民たちを危険へ晒したこと。
そして、その被害を防いだのが、倒そうとしていた終焉竜だったこと。
「……申し訳、ありません」
バットは深く頭を下げた。
その様子を見届けたゴルダンは、静かにユウトへ向き直った。
「……ユウト」
「……何?」
「申し訳ない」
「……え?」
ユウトが首を傾げる。
すると、ゴルダンはその場にいたミレアや、少し離れたところから様子を見守っていた住民たちへも視線を向けた。
そして、僅かに頭を下げた。
「私の部下が、迷惑をかけた」
「…………」
その場にいた者たちが、驚いたように顔を上げた。
魔王軍。
先ほどまでのバットの振る舞いを見ていた住民たちにとって、その言葉には恐ろしい印象しかなかった。
しかし、目の前の男は、部下の行動について自ら頭を下げている。
「命じたのは、あくまで状況の確認だけだ。戦闘も、正体の公表も、ましてや住民への攻撃も命じていない」
ゴルダンは淡々と続けた。
「とはいえ、私の配下であることに変わりはない。今回の件は、私の監督不足でもある」
「……いえ」
ミレアが一歩前へ出た。
「そうして謝罪していただけるのであれば、少なくとも私たちは事情を理解できます」
ゴルダンがミレアへ視線を向ける。
「……そうか」
「ですが、今回の行為は、決して軽いものではありません」
ミレアの表情は真剣だった。
「ユウトさんが防いでくださったからこそ、大きな被害は出ませんでした。しかし、もし間に合わなければ……」
「……分かっている」
ゴルダンが頷く。
「だからこそ、謝罪している」
「……承知しました」
ミレアは静かに頭を下げた。
ユウトはそんな二人を見ながら、少しだけ考え込んだ。
「……まあ、俺は別に大丈夫だけどさ」
「お前だけの問題ではない」
ゴルダンが即座に答える。
「……え?」
「こいつは町の住民を危険に晒した。お前が無事だったからといって、それで済む話ではない」
「…………」
ユウトは周囲へ視線を向けた。
まだ不安そうな表情を浮かべている住民たち。
その中には、先ほど自分の正体を知り、恐怖に顔を強張らせていた者もいる。
確かに、今回の出来事を軽く考えてよいわけではない。
「……そっか」
ユウトは小さく頷いた。
「まあ、そうだよな」
ゴルダンはそれを確認すると、地面に座り込んでいるバットへ向き直った。
「……バット」
「……はい」
「帰るぞ」
「…………はい」
「歩けるか?」
「……たぶん」
「なら立て」
「……はい」
バットは震える腕を地面につき、ゆっくりと身体を起こした。
何度かふらつきながらも、どうにか立ち上がる。
しかし、その姿には登場した時の威勢など欠片も残っていなかった。
黒い翼は力なく垂れ下がり、肩も大きく落ちている。
もはや、魔王軍の威厳を示そうという気力すら残っていないようだった。
「…………」
ユウトはそんなバットを見つめた。
「……大丈夫か? 帰れそう?」
「…………」
「……バット?」
「もう何も言うな……頼むから……!」
バットの悲痛な声に、シアが再び肩を震わせた。
「……ぷっ」
「シア」
シエルが静かに名前を呼ぶ。
「……はいっす!」
「少しは我慢しなさい」
「……無理っす!」
シアはとうとう顔を背けてしまった。
その様子にリトも苦笑する。
「……まあ、気持ちは分かるけどな」
「なんでみんなそんな笑ってるんだよ!」
ユウトが抗議する。
しかし、その本人こそがバットの自尊心を粉々に砕いた張本人であることに、どうやら気づいていないらしい。
ゴルダンはそんな光景を見ながら、小さく息を吐いた。
「……まったく」
そして、バットへ声を掛ける。
「行くぞ」
「……はい」
二人が歩き出そうとした、その時だった。
「……あっ!」
ユウトが声を上げた。
「ゴルダン!」
「……何だ?」
「またな!」
「…………」
ゴルダンが少しだけ振り返る。
その表情は、先ほどまでバットを叱っていた時とは僅かに違っていた。
「……ああ」
短い返事。
ただ、それだけだった。
しかし――。
「…………」
バットの動きが、再び止まった。
ゆっくりとゴルダンを見る。次にユウトを見る。
そして、もう一度ゴルダンを見る。
「…………」
何かがおかしい。
いや、最初からおかしかった。
ユウトはゴルダンを呼び捨てにする。ゴルダンはそれを咎めない。
二人はかつて戦ったことがあり、ゴルダンはその敗北を隠そうともしなかった。
それどころか――。
『またな!』
『……ああ』
今のやり取りには、敵同士というにはあまりにも自然な響きがあった。
(……どういうことだ?)
バットは混乱していた。
ゴルダンは魔王軍に属する実力者だ。
そして、目の前の青年は終焉竜。
伝承に語られる最強種であり、魔王軍にとって脅威となり得る存在のはずだった。
それなのに、この二人はまるで昔からの知り合いのように接している。
「……ゴルダン様」
「……今度は何だ?」
「やはり、その……」
バットは少しだけ言い淀んだ。
「随分と、親しげではありませんか……?」
「…………」
ゴルダンの表情が、僅かに変わった。
その変化を、バットは見逃さなかった。
「……ゴルダン様?」
「……バット」
「は、はい!」
ゴルダンは静かに口を開いた。
「今日、ここで見聞きしたことについて」
「……はい」
「余計なことまで報告する必要はない」
「…………!」
バットの目が見開かれた。
「……それは、どういう……」
「分かったな?」
「…………」
ゴルダンの声は、決して大きくなかった。
しかし、それ以上の質問を許さない響きがあった。
バットは何か言いかけたものの、結局その言葉を飲み込むしかなかった。
「……はい」
小さく頷く。
ゴルダンはそれを確認すると、再び歩き始めた。
「……帰るぞ」
「……はい……」
バットは力なく答え、ふらつく足取りでその後を追った。
その背中を、ユウトたちが見送っている。
「……行っちゃったな」
ユウトが呟いた。
「そうね」
シエルが頷く。
「……ゴルダン、元気そうでよかった!」
「……あなたね」
「……何?」
「さっきまで、あの人の部下と戦っていたのよ?」
「……そうだけど?」
「……まったく」
シエルは呆れたように首を振った。
その隣では、シアとリトがまだバットの話で盛り上がっていた。
「……バット、可哀想だったっすね!」
「お前、最後まで笑ってただろ!」
「だって主が、慰めるたびに追い打ち掛けるんすもん!」
「そんなつもりなかったって!」
「そこが一番ひどいんだよ、アニキ!」
「なんでだよ!?」
またしても笑い声が広がる。
しかし、その少し後ろで、ミレアだけは静かに考え込んでいた。
終焉竜。
魔王軍。
ゴルダンという男。
そして、二人の間にある不思議な関係。
今日一日で、あまりにも多くのことが起きた。
それでも、ひとつだけ確かに分かったことがある。
ユウトという青年は、まだ自分の知らない一面をいくつも持っている。
そして、そのすべてを知るには、まだ時間が掛かりそうだということだった。
◇
一方、ベルグラードから離れた街道では。
「…………」
バットが、黙々とゴルダンの後を歩いていた。
身体中が痛む。
翼も重い。
そして何より、砕け散った自尊心がどうにもならない。
終焉竜の力を確認する。
ただ、それだけのはずだった。
しかし、実際には自分の最大魔法が通用しないことを思い知らされ、肉弾戦では一撃で吹き飛ばされ、挙げ句の果てに上官から説教まで受けてしまった。
これ以上ないほどの失態だった。
だが、それ以上にバットの頭を悩ませていることがあった。
(……ゴルダン様と、終焉竜……)
敵対しているはずの存在。
それなのに、二人の会話はあまりにも自然だった。
ゴルダンは終焉竜へ敗れたことを認めながら、恨みを抱いている様子もない。
終焉竜の方も、ゴルダンを恐れるどころか、友人にでも声を掛けるような態度だった。
(……一体、どういう関係なのだ……?)
答えは分からない。
そして、今のバットには、それを尋ねる勇気もなかった。
「……バット」
「は、はい!」
ゴルダンの声に、身体が跳ねる。
「歩くのが辛いなら、少し休むか?」
「……い、いえ!」
バットは慌てて首を振った。
「大丈夫です! 歩けます!」
「……そうか」
ゴルダンはそれ以上何も言わず、再び前へ向き直った。
「…………」
バットは、その背中を見つめた。
そして、今日の出来事をもう一度思い返す。
黒滅砲。
自分が誇る最大魔法。
それを、あの終焉竜は――。
――ペンッ。
「…………」
バットの肩が、がくりと落ちた。
続いて思い出すのは、渾身の力を込めた突進だった。
――ペシッ。
「…………」
バットは、そっと顔を覆った。
(……もう、嫌だ……)
そして、ボロボロの身体と完全に砕け散った自尊心を引きずりながら、バットはゴルダンの後をついていくのだった。
第318話をお読みいただき、ありがとうございます!
完全に心まで折られてしまったバット。
しばらくは、ゆっくり休んでもらいましょう。
「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります!
それでは、また次回お会いしましょう!




