第三百十七話 それが最大?
ついに大勢の前で明かされてしまったユウトの正体。
そしてバットは、その力まで確かめようと動き出します――。
「……終焉、竜?」
ミレアの声が、静まり返った大通りに響いた。
その問いに、ユウトはすぐには答えられなかった。
目の前に立つミレアだけではない。周囲に集まったベルグラードの住民たちも、誰一人として口を開かず、ただユウトの返答を待っていた。
つい先ほどまで、笑いながら声を掛けてくれていた人々。
困ったことがあれば相談に来て、問題が解決すれば嬉しそうに礼を言ってくれた人々。
そんな彼らの視線が、今は一人の青年へ集中していた。
「……終焉竜って、あの?」
「世界を滅ぼすと伝えられている……?」
「そんな馬鹿な。だって、あいつは……」
少しずつ声が上がり始める。
誰もが困惑していた。
信じられないという顔をする者もいれば、恐ろしいものを見るように一歩後ずさる者もいる。
中には、幼い子供を自分の背後へ隠す母親の姿もあった。
「…………」
ユウトはその様子を見て、少しだけ眉を下げた。
(……やっぱり、こうなるよなぁ)
これまで、自分の正体を積極的に明かしてこなかった理由の一つが、まさにこれだった。
終焉竜。
その名前には、長い年月をかけて積み重ねられてきた恐怖がある。
いくら自分が違うと言ったところで、すぐに信じてもらえるとは限らない。
「……まあ」
ユウトが口を開きかけたところで、ミレアが一歩前へ出た。
「……ユウトさん」
「……うん」
「本当……なのですか?」
その声に、責めるような響きはなかった。
ただ、信じてきたものと今耳にした言葉が、どうしても結びつかない。
そんな戸惑いが浮かんでいた。
ユウトは少しだけ迷った。
ここで冗談だと言ってしまえば、もしかすると場を収められるかもしれない。
しかし、それではミレアに嘘をつくことになる。
それに、いつまでも隠し続けられることではないのだろう。
「……うん」
ユウトは静かに頷いた。
「俺、終焉竜だよ」
ざわり、と空気が揺れた。
「……本当に?」
「嘘じゃなかったのか……」
「終焉竜が、こんなところに……?」
周囲の人々が互いの顔を見合わせる。
不安そうに距離を取る者が増え、通りの中央にはぽっかりと空間ができ始めていた。
その様子を見たユウトは、困ったように頭を掻いた。
「……そんな怖がらなくても」
言いかけて、口を閉じる。
怖がるなと言われたところで、簡単にどうにかなるものではない。
そのくらいはユウトにも分かっていた。
「……主」
シアが心配そうに声を掛ける。
「……アニキ」
リトも、いつもの笑顔を浮かべてはいなかった。
この二人にとって、ユウトが終焉竜であることは今さら驚くような話ではない。
しかし、その正体を初めて知った者たちがどう反応するのか。
そればかりは、二人にも分からなかった。
そんな重苦しい空気を――。
「フハハハハハ!」
一人の男の笑い声が、容赦なく切り裂いた。
「やはりそうか!」
バットだった。
黒い翼を大きく広げ、嬉しそうにユウトを指さしている。
「ゴルダン様の報告に間違いはなかった! 貴様こそが、伝承に残る終焉竜!」
「……お前さ」
「何だ!」
「なんでそんな嬉しそうなんだよ」
「当然だろう!」
バットは胸を張った。
「数多の伝承に語られる最強種! 世界を滅ぼす厄災! その存在が、今まさに私の目の前にいるのだぞ!」
「……俺、世界滅ぼしたことないけど」
「そういう話ではない!」
「じゃあどういう話だよ!」
「貴様という存在そのものが重要なのだ!」
「……よく分かんないな」
ユウトが首を傾げる。
シアはそんなやり取りを見て、少しだけ表情を緩めた。
「……主、いつも通りっすね」
「ああ。いつも通りだな」
リトも小さく笑う。
正体が知られたからといって、ユウト自身が変わったわけではない。
それを改めて感じたのだった。
シエルも静かにユウトの隣へ並ぶ。
「……それで?」
その視線は、バットへ向けられていた。
「何だ?」
「あなたの目的は、ユウトが終焉竜なのか確認することだったのでしょう?」
「……ああ」
「だったら、もう用事は終わったんじゃないの?」
「…………」
バットが黙る。
「帰れば?」
「…………」
「ゴルダンに報告するんでしょう?」
「ゴルダン様だ!」
「そこ、まだやるの!?」
ユウトが思わず叫んだ。
バットの額に、再び青筋が浮かぶ。
「確かに、貴様が終焉竜であることは確認した!」
「……じゃあ帰れよ」
「だが!」
バットの翼が、勢いよく広がった。
「私には、もう一つ確かめなければならんことがある!」
「……何だよ?」
「その力だ!」
バットの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
「貴様が伝承に語られるほどの力を、本当に持っているのか!」
「……なんで?」
「我々にとって脅威となる存在なのか、見極める必要がある!」
「……それだけ?」
「重要なことだ!」
ユウトはしばらくバットを見つめた。
「……それ、ゴルダンに頼まれたの?」
「…………」
バットが黙った。
「……あれ?」
ユウトが首を傾げる。
「また違うの?」
「……主」
シアが小さく呟く。
「どうやら、勝手にやろうとしてるっすね」
「……そうみたいだな」
リトが苦笑する。
「黙れぇぇぇ!」
バットの怒声が響いた。
次の瞬間、その身体から凄まじい魔力が溢れ出した。
――ゴォッ!
突風が巻き起こり、石畳の上に積もっていた砂埃が舞い上がる。
近くの商店では、軒先に吊るされた看板が激しく揺れ、置かれていた木箱が音を立てて転がった。
「……っ!」
ミレアの顔色が変わった。
先ほどまでの威圧とは、比べ物にならない魔力量だった。
「皆さん! ここから離れてください!」
彼女はすぐに住民たちへ向き直った。
「早く! 建物の奥や、広場から離れた場所へ!」
「……え?」
「何が起きるんだ!?」
「危険です! 急いでください!」
その切迫した声に、ようやく人々が動き始めた。
「シア! リト!」
ミレアが叫ぶ。
「分かってるっす!」
「おう!」
二人はすぐに住民たちの避難へ回った。
シアは混乱する人々へ逃げる方向を指示し、リトは通りに取り残された老人や子供たちを安全な場所へ誘導する。
「落ち着くっす! 押さなくても大丈夫っすから!」
「そっちの路地へ行け! 走れる奴は先に進んでくれ!」
そんな中、獣人族の母親が抱えた子供を落としそうになり、近くにいた人間族の男が慌てて支えた。
「大丈夫か!?」
「あ、ありがとう!」
「礼はいい! 早く行こう!」
人々は互いに手を貸しながら、通りの外へ逃げていく。
つい一か月前なら、見知らぬ種族同士でそこまで自然に助け合えたかどうか。
少なくとも、今のこの場所では、そんなことを気にしている者はいなかった。
しかし、バットはその光景に目も向けていなかった。
「どうした、終焉竜!」
黒い翼を広げ、高笑いする。
「伝承ほどの力があるというのなら、この程度の魔力など恐れるに足らんだろう!」
バットの両手の間に、黒い魔力が集まり始めた。
渦を巻くように膨れ上がるそれは、周囲の光すら飲み込むような、不気味な黒さを帯びている。
「……まずいわね」
シエルが小さく呟いた。
「……え?」
ユウトが振り返る。
「あれだけの魔力を、こんな場所で解放するつもりなのよ」
「……だから?」
「町まで巻き込むわ」
「…………」
その一言で、ユウトの表情が変わった。
「……町まで?」
「ええ。あの規模なら、この辺りの建物だけでは済まないかもしれないわ」
ユウトはゆっくりと周囲を見渡した。
逃げ惑う住民たち。
子供を抱えて走る母親。
足の悪い老人へ肩を貸す若者。
人間族も、獣人族も、鬼人族も。
つい先ほどまで自分の正体に怯えていた人々が、今度は目の前の魔族が放とうとしている魔法から逃げている。
そして、バットはそんなことをまるで気にしていなかった。
「……おい、バット!」
「何だ!」
「それ、ここで撃つつもり?」
「当然だ!」
「住民がいるんだぞ!?」
「それがどうした!」
「…………」
ユウトの目が、僅かに細くなった。
「……巻き込む気かよ」
「貴様が終焉竜だというのなら!」
バットは笑った。
「この程度の魔法など、防いでみせろ!」
両手の間で、黒い魔力の塊がさらに膨れ上がる。
すでに、人の身体を遥かに超える大きさになっていた。
ユウトは小さく息を吐いた。
「……シエル」
「何?」
「もうバレたしさ」
「……そうね」
「隠す意味、ないよな?」
シエルはユウトを見つめた。
その表情から、彼が何を考えているのかを察したのだろう。
やがて、小さく頷く。
「好きにしなさい」
「……分かった!」
「ただし、町を壊さないでね」
「分かってるって!」
その会話を聞いていたミレアが、思わず振り返った。
「……ユウトさん?」
ユウトは、すでに周囲の人々が避難したことを確認していた。
通りの中央には、十分な空間ができている。
彼はバットを見据えたまま、静かに口を開いた。
「――竜化」
次の瞬間だった。
◇
空気が、震えた。
「…………え?」
ミレアの口から、小さな声が漏れる。
ユウトの身体から、膨大な魔力が溢れ出した。
しかし、それはバットの放つ荒々しい魔力とはまるで違っていた。
静かでありながら、圧倒的。
その存在だけで周囲の空気が変わっていくような、不思議な感覚だった。
ユウトの身体が光に包まれ、輪郭が大きく変化していく。
肌を覆う強靱な鱗。
鋭く伸びる爪。
背から広がる巨大な翼。
そして、徐々に大きくなる身体。
その変化は、瞬く間に進んでいった。
「…………」
ミレアは、ただ見上げることしかできなかった。
先ほどまで、目の前に立っていたのは、一人の青年だった。
いつも笑い、時にはふざけ、困っている人がいれば誰よりも早く手を差し伸べる。
そんな不思議なEランク冒険者。
しかし、今そこに立っているのは――。
一体の、巨大な竜だった。
堅牢な鱗に覆われた巨体。
その背に広がる翼は、今にも空を覆ってしまいそうなほど大きい。
四肢には圧倒的な力が宿り、鋭い爪は容易く岩を砕くことができるだろう。
西洋竜を思わせるその姿は、どこか威厳を感じさせながらも、他の竜種とは明らかに異なる存在感を放っていた。
その場にいた誰もが、息を呑む。
「……これが」
ミレアが震える声で呟く。
「……終焉竜……」
巨大な竜が、ゆっくりと彼女へ顔を向けた。
『そうだよ』
「…………」
『びっくりした?』
「…………」
ミレアは何度か口を開きかけたものの、すぐには言葉が出てこなかった。
やがて――。
「……はい」
小さく頷く。
「とても……驚いています」
『だよなぁ』
返ってきたのは、あまりにも普段通りの声だった。
「…………」
ミレアが瞬きをする。
『まあ、急にこんなのになったらびっくりするよな』
「……ええ」
『でも俺だから!』
「…………」
その言葉に、ミレアは再び言葉を失った。
恐ろしい伝承に登場する最強種。
しかし、その口から出てくる言葉は、いつものユウトそのものだった。
その違和感に、どう反応すればいいのか分からなかったのである。
だが――。
「フ……」
その光景を見ていたバットが、低く笑い始めた。
「フハハハハハ!」
『……何?』
「ようやく!」
バットの顔が、歓喜に歪む。
「ようやく真の姿を現したな!」
『だって、お前がバラしたんだろ』
「細かいことはどうでもいい!」
『細かくないよ』
「受けてみろ!」
バットの両手に集まっていた魔力が、さらに膨れ上がった。
黒い光が周囲を照らし、激しい風が吹き荒れる。
近くの建物が軋み、石畳が小さく震え始めた。
「……この魔力量……!」
ミレアの表情が強張った。
「ミレアさん! ヤバいっすか!?」
避難誘導を終えて戻ってきたシアが尋ねる。
「……直撃すれば」
ミレアは息を呑んだ。
「あの魔法が町へ放たれれば、この一帯が消し飛ぶ可能性があります」
「…………」
シアの笑顔が消えた。
「……マジっすか」
「ええ」
リトもバットへ目を向ける。
「……アニキ!」
思わず叫んだ。
しかし、巨大な竜は慌てた様子を見せなかった。
ただ、目の前の男が何をしようとしているのかを見つめている。
「見るがいい、終焉竜!」
バットが声を張り上げた。
「これこそ、魔王軍に名を連ねる我が力!」
『……うん』
「我が最大魔法!」
『……うん』
「その身をもって、味わうがいい!」
バットが両手を前へ突き出した。
「――黒滅砲!!」
瞬間。
巨大な黒い魔力の奔流が放たれた。
――ゴォォォォォ!!
空気を引き裂くような轟音。
石畳が抉れ、巻き上がった砂埃が黒い光の周囲で渦を巻く。
それは、まるで周囲のものすべてを飲み込みながら進む、巨大な濁流のようだった。
「逃げろぉぉぉ!!」
誰かの叫び声が響く。
住民たちが必死に身を伏せる。
ミレアも反射的に防御魔法を展開しようとした。
しかし――。
『……あれさ』
ユウトの声が響いた。
『町に当たったら、絶対危ないよな』
「何を今さら――!」
バットが叫び返そうとした、その時だった。
ユウトは、ゆっくりと右の前肢を持ち上げた。
巨大な黒い奔流が、目の前まで迫っている。
だが、ユウトは逃げようともしなかった。
ただ、爪の先をそっと前へ伸ばす。
そして――。
――ペンッ。
「…………」
黒滅砲が、曲がった。
「…………は?」
バットの口が、ぽかんと開く。
目の前で起きたことが、理解できなかった。
自らの持つ最大魔法。
全魔力を込めたわけではないにせよ、並の魔獣や冒険者であれば、まともに受ければひとたまりもない一撃。
それが――。
ただ、爪の先で弾かれたのである。
まるで、軽い球でも指で弾いたかのように。
巨大な黒い魔力の奔流は、急激に軌道を変え、斜め上空へと飛んでいった。
「…………」
住民たちが空を見上げる。
黒い光はさらに高度を上げ、町から遠く離れた空へ消えていく。
そして――。
――ズドォォォォォォォン!!
遥か上空で、巨大な爆発が起きた。
黒い光が一瞬だけ空を染め、遅れて重い爆発音が町へ届く。
大気がびりびりと震え、住民たちは思わず身を竦めた。
しかし、それだけだった。
建物が崩れることもなければ、逃げ遅れた住民が吹き飛ばされることもない。
黒滅砲の直撃による被害を受けた者は、一人としていなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
誰もが、呆然と空を見つめていた。
そんな中、ユウトがぽつりと呟いた。
『……危な』
巨大な竜が、首を傾げる。
『あれ、普通に町へ当たってたらヤバかったじゃん』
「…………」
バットの身体が、僅かに震え始めた。
「……な……」
『……ん?』
「な、な、な……」
『何?』
「何をしたぁぁぁぁぁ!?」
『……弾いただけだけど?』
「そういう意味ではない!!」
『じゃあ、どういう意味だよ!』
ユウトが不思議そうに聞き返す。
バットは、完全に言葉を失っていた。
理解できない。
自分の最大魔法を、目の前の竜は防御魔法すら使わずに逸らしてみせた。
しかも、まるで何でもないことのように。
「……主!」
その横で、シアが肩を震わせていた。
『……何?』
「今、ペンッてしたっす!」
『……うん』
「爪で、ペンッて!」
『見てたから分かるだろ!』
「笑っちゃダメっすけど……無理っす!」
シアがとうとう腹を抱えて笑い出した。
「……アニキ」
リトも、完全に呆れた表情だった。
『……何?』
「今の、あいつの最大魔法だったんだよな?」
『……そう言ってたよな』
「…………」
リトはバットへ視線を向けた。
そして、小さく呟く。
「……なんか、可哀想になってきたな」
「貴様ぁぁぁぁ!!」
バットが怒鳴った。
『俺、何もしてないだろ!』
「しただろうが!!」
『……え?』
「我が黒滅砲を! あんなふざけた方法で!」
『ふざけてないよ!』
「ならば何故、あんな軽々と弾けるのだ!!」
『……いや、飛んできたから?』
「理由になっておらん!!」
バットは顔を真っ赤にして叫んだ。
「黒滅砲だぞ!?」
『……うん』
「我が最大魔法だぞ!?」
『……うん』
「伝承に名を残す終焉竜といえど、もう少し反応があってもよいだろう!!」
『……えー』
ユウトが大きな首を傾げる。
『本当に最大魔法だったの?』
「自分で聞いていただろう!!」
『いや、確認』
「馬鹿にしているのか!!」
『してないって!』
「ならば何故、そんな反応なのだ!!」
ユウトは少しだけ考えた。
そして、悪気のない声で答えた。
『だってさ……もっとすごいのが来ると思ってたから』
「…………」
バットの表情が止まった。
数秒間、沈黙が流れる。
その間、誰も何も言えなかった。
ただ、シアだけが必死に笑いを堪えていた。
「……ぶっ殺す!!」
ついに、バットの怒りが爆発した。
「お前だけは絶対に許さん!!」
『……なんでだよ!』
ユウトは心底不思議そうだった。
しかし、バットはすでに冷静さを失っていた。
「ふざけるな! ふざけるなよ、終焉竜!!」
その身体から、再び魔力が噴き出す。
だが、先ほどまでとは明らかに様子が違っていた。
魔力の流れは乱れ、黒い翼も落ち着きなく震えている。
怒り。
焦り。
そして、その奥に確かに存在する恐怖。
バットは、どうしてもそれを認めたくなかった。
(……そんな馬鹿な)
目の前の存在が最強種だということは、最初から分かっていた。
自分より強い可能性があることも、覚悟していたつもりだった。
しかし、これほどまでとは思っていなかった。
自分の最大魔法を、爪先で弾かれるなど。
そんなもの、想像できるはずがない。
「……貴様など!」
バットが勢いよく空へ飛び上がった。
黒い翼が大きく広がる。
「ただ身体が大きいだけだ!!」
『……そうかな』
「魔法を防げたところで、近距離での戦闘まで優れているとは限らん!」
『……あ』
ユウトが何か言いかける。
しかし、バットは聞く耳を持たなかった。
「今度こそ、その身に思い知らせてやる!」
全身に魔力を纏い、凄まじい勢いで急降下する。
黒い翼が空気を切り裂き、拳の周囲に魔力が集まっていく。
「死ねぇぇぇぇ!!」
放たれた拳は、一直線にユウトの顔へ向かっていた。
その速さは、普通の冒険者では目で追うことすら難しいほどだった。
だが――。
『……危ないって』
ユウトの右手が動いた。
軽く。
ほんの少しだけ横へ。
まるで、顔の前を飛んでいる虫を払うように。
――ペシッ。
「ぐべっ!?」
バットの姿が消えた。
「…………」
「…………」
「…………」
あまりにも一瞬の出来事だった。
黒い翼を広げ、凄まじい勢いで突進してきた魔族の男。
その姿が、ユウトの軽い一振りとともに、視界から消えてしまったのである。
「……あれ?」
シアが目を瞬かせる。
「どこ行ったっす?」
「……ん?」
リトが遠くへ視線を向ける。
そして――。
「……あそこじゃねぇか?」
遥か先。
町外れへ続く街道の方角で、土煙が大きく舞い上がっていた。
どうやら、バットはその辺りまで吹き飛ばされたらしい。
「…………」
全員が、その土煙を見つめる。
『……あ』
ユウトが固まった。
『……ちょっと強かった?』
「……ちょっと?」
ミレアが思わず聞き返す。
『いや、軽く払っただけなんだけど』
「……軽く、ですか」
『……うん』
「…………」
ミレアは遠くの土煙と、目の前の巨大な竜を交互に見た。
先ほど、危険度Bの魔獣を一人で倒したと聞いた時ですら驚いたというのに。
今度は、魔王軍を名乗る魔族の攻撃を軽々と弾き飛ばしてしまった。
しかも、本人は少しやりすぎたかもしれないと心配している。
「……本当に、規格外なんですね」
『……そう?』
「……はい」
ミレアは小さく息を吐いた。
その横でシエルが、呆れたように腕を組む。
「……あなたがやったのでしょう」
『だって、殴ってきたんだよ!』
「分かっているわ。でも、あそこまで飛ばすことはなかったんじゃない?」
『……そうかな』
「少なくとも、もう少し力加減は覚えた方がいいわね」
『……はーい』
ユウトが素直に返事をする。
その光景を見ていたリトが、ついに吹き出した。
「ガッハッハ! アニキ、完全に怒られてるじゃねぇか!」
『笑うなよ!』
「だってよ! 相手は魔王軍だぞ!? その魔族をぶっ飛ばした直後に、シエルから力加減を注意されてるんだぞ!」
「主、いつも通りっす!」
シアも笑い出した。
『何が!?』
巨大な竜が首を傾げる。
その姿に、二人はますます笑っていた。
しかし、そんな賑やかなやり取りとは対照的に、周囲の住民たちはまだ動けずにいた。
◇
終焉竜。
世界を滅ぼす厄災。
恐れられし最強種。
つい先ほどまで、そんな言葉が通りに響いていた。
そして住民たちは、その姿を目の当たりにした。
巨大な竜の身体。
全身を覆う鱗。
圧倒的な魔力と、常識では考えられないほどの力。
伝承の中で語られてきた、恐ろしい存在そのものだった。
しかし――。
「……なあ」
一人の獣人族の男が、ぽつりと呟いた。
「……何だ?」
隣にいた人間族の男が顔を向ける。
「あいつ……俺たちを守ってくれたんだよな?」
「…………」
人間族の男は、ゆっくりと巨大な竜を見上げた。
あの魔族が放った魔法。
もし、そのまま町へ直撃していたら。
今、自分たちが立っている場所はどうなっていただろう。
想像するだけで、背筋が冷たくなる。
「……ああ」
男は静かに頷いた。
「そうだな」
別の場所では、一人の老人が震える手を握りしめていた。
以前、北門の近くで魔獣に襲われそうになった畑を管理していた、人間族の老人だった。
その目には、巨大な竜の姿が映っている。
しかし、彼の脳裏に浮かんでいたのは、別の光景だった。
『あんなでかいのが畑で暴れたら、作物が駄目になっちゃうだろ?』
そう言って笑っていた青年。
自分たちの生活を守るため、わざわざ魔獣を森の奥へ誘導してくれた青年。
そして、礼を言えば――。
『じゃあ、よかったな!』
そんなふうに笑っていた、あの青年だった。
「……守ってくれた」
老人が、小さく呟く。
「……え?」
近くにいた獣人族の男が振り返る。
「俺たちを……守ってくれたんだ」
「…………」
「あの魔族は、町がどうなっても構わないと言った」
老人はゆっくりと顔を上げた。
「でも、ユウトは違った」
「…………」
「俺たちが巻き込まれないように、魔法を空へ弾いたんだ」
その言葉に、周囲の人々が静かに頷き始める。
「……確かに」
「この前の魔獣の時だって、畑まで守ってくれたんだろ?」
「ああ……」
「それに、うちの工房の話も聞いてくれた」
「俺の店もだ」
少しずつ、声が広がっていく。
もちろん、全員がすぐに安心したわけではなかった。
今も恐怖に顔を強張らせたまま、建物の陰から様子を窺っている者がいる。
伝承の厄災を目の前にして、簡単に考えを変えられない者もいた。
それでも、誰かが口にした。
「……でもさ」
声の主は、先ほどユウトへ礼を言っていた獣人族の女性だった。
「あの人が終焉竜だとして、それが何だっていうんだい?」
「……何だって?」
隣の男が聞き返す。
「だって、今までずっと助けてくれたじゃないか」
「…………」
「人間族だろうが獣人族だろうが、困っていたら同じように話を聞いてくれた。魔獣が出たら、町まで守ってくれた」
女性は、巨大な竜へ視線を向けた。
「今日だって、そうだろう?」
「…………」
「怖い名前だっていうのは分かるよ。でも、あたしが知ってるユウトさんは、そんな恐ろしいことをする人じゃない」
誰も、すぐには答えなかった。
だが、その言葉を否定する声も上がらなかった。
人々の視線は、もう一度ユウトへ向けられていた。
世界を滅ぼす厄災。
その伝承が、今ここで消えるわけではない。
しかし、それとは別に、人々が自分の目で見てきた事実がある。
この町で暮らす者たちを助け、少しずつ変化を生み出してきた青年。
その姿もまた、紛れもない事実だった。
そして、ミレアもまた――。
「…………」
遠ざかっていく巨大な竜の背中を、静かに見つめていた。
彼女は、終焉竜という名を知った。
その姿を見た。
圧倒的な力も、目の前で見せつけられた。
もし、この力が町へ向けられたなら。
そんな考えが一瞬、頭をよぎったことも事実だった。
しかし、ユウトはその力を町へ向けなかった。
むしろ、町を守るために使った。
魔王軍を名乗る相手が住民たちを巻き込もうとした時、誰よりも先にそのことを気にしていたのはユウトだった。
(……そうでしたね)
ミレアの脳裏に、一か月前の光景が浮かぶ。
人間族と評議会の間に立ち、何度も話を聞いていたユウト。
どちらか一方を責めるのではなく、互いの事情を確かめながら、どうすれば争わずに済むのかを考えていた。
時には驚くほど落ち着いた態度で話をまとめ、話し合いが終われば途端にいつもの騒がしい青年へ戻ってしまう。
その姿は、今も何も変わっていなかった。
伝承に語られる厄災。
最強種。
終焉竜。
そんな言葉をいくつ並べても、ミレアの頭に浮かぶのは、たった一つの名前だった。
「……ユウトさん」
彼女は小さく呟いた。
その声に応えるように、巨大な竜が振り返る。
『……ん?』
「…………」
『どうしたの、ミレアさん?』
その声は、いつものユウトだった。
ミレアは少しだけ目を伏せると、ゆっくりと顔を上げた。
「……いえ」
そして、小さく微笑んだ。
「何でもありません」
『……そう?』
「はい」
『……そっか!』
ユウトは頷くと、再び町外れの方角へ顔を向けた。
『じゃあ、バット見てくる!』
「……お気をつけて」
『おう!』
巨大な竜が、のしのしと歩き始める。
「…………」
その後ろ姿を、ミレアは静かに見送った。
終焉竜。
世界を滅ぼす厄災。
それが、ユウトの正体だという。
しかし――。
(……あなたは、あなたなんですね)
ミレアは、胸の中でそう呟いた。
その時。
「……あっ!」
少し離れたところから、シアの声が響いた。
「主ー!」
『……何!?』
「バット、生きてるっすかね!?」
『……あ』
ユウトの足が止まった。
『……それ、俺も気になってた』
「今さらっすか!?」
「アニキ! 早く見てこいよ!」
『分かってるって!』
そのやり取りを聞いて、リトが豪快に笑い出す。
「ガッハッハ! まったく、アニキらしいな!」
シエルも呆れたように首を振っていた。
「……本当に、少しは力加減を覚えてちょうだい」
『だから軽く払っただけなんだって!』
「それであそこまで飛ばしたのでしょう?」
『……うん』
「だったら、それが軽くないのよ」
『……難しいな!』
思わず、ミレアの口元が緩んだ。
巨大な竜の姿で、いつものようにシエルから注意されているユウト。
その光景は、どこか滑稽で。
そして、不思議なほど安心できるものだった。
周囲の住民たちも、少しずつ表情を和らげ始めていた。
もちろん、恐怖が完全に消えたわけではない。
それでも――。
「……あれ、本当に終焉竜なんだよな?」
「……そうらしいな」
「……シエルさんに怒られてるぞ」
「……だな」
男たちは顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく小さく笑った。
ベルグラードの人々は、この日初めて終焉竜の姿を目にした。
伝承に語られる厄災の、圧倒的な力を知った。
だが同時に、その力が自分たちを守るために使われるところも目撃したのである。
そして、ただ一つ確かなことがあった。
終焉竜であると知ったところで、彼らがこの一か月で知ったユウトという青年が、別人になったわけではないということだ。
もっとも――。
『……バットー! 生きてるー!?』
町外れへ向かう巨大な竜の声に、住民たちは再び顔を見合わせることになった。
「……終焉竜って、あんな感じなのか?」
「……さあな」
「少なくとも、伝承とは随分違うな」
「……そうだな」
そんな会話が、小さな笑いとともに広がっていく。
恐れられし最強種。
世界を滅ぼすと伝えられる厄災。
その正体を知ったベルグラードの人々が、これからユウトをどう受け止めていくのか。
答えは、まだ出ていない。
ただ、少なくとも今日。
町を滅ぼしかねない魔法を放ったのは、終焉竜ではなかった。
そして、その魔法から町を守ったのは――。
他でもない、終焉竜だった。
第317話をお読みいただき、ありがとうございます!
最大魔法すら軽く弾かれ、圧倒的な力の差を見せつけられたバット。
しかしベルグラードの人々が目にしたのは、厄災ではなく自分たちを守る終焉竜の姿でした。
次回もよろしくお願いします!
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それでは、また次回お会いしましょう!




