第二百九十二話 逃げてきた人々
捜索していた商隊を無事に発見したユウトたち。
しかし、その馬車には商隊とは別の数人の人間が乗っていた。
彼らがやって来た場所は――ベルグラード。
「……ベルグラード」
ユウトは、もう一度その名前を口にした。
「ミレアさんの故郷だ」
「確か、アルヴェインからかなり遠いって言ってたわよね」
シエルが確認するように尋ねる。
「ああ。それに、どこの国にも属してない辺境だったよな?」
「そうね。街とその周辺の集落を含めて、ベルグラードと呼ぶらしいわ」
数日前、ミレアから聞いたばかりの話だった。
アルヴェインから遠く離れた辺境にあり、どの国にも属さず、独自の暮らしを営んでいる地域――ベルグラード。
その名前を、まさかこんなに早く聞くことになるとは思っていなかった。
「……そこから来たんすか?」
シアが馬車の中にいる男へ尋ねた。
「……はい」
男は小さく頷く。
「でも、かなり遠いんだろ?」
ユウトが聞き返す。
「ええ。とても遠いです」
「どのくらい?」
「…………」
男は少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「ベルグラードを出たのは、一か月以上前になります」
「……一か月!?」
ユウトが驚きの声を上げた。
「そんなにかかるんすか!?」
シアも目を丸くする。
「ずっと歩いてきたの?」
シエルの問いに、男は首を横に振った。
「いえ。途中までは荷馬車に乗せてもらったり、小さな集落に泊めてもらったりしていました。ですが、ほとんどは歩きでしたね」
「……そうだったのね」
「道が分からなくなって、何日も同じ場所を行き来したこともありました。食べ物を手に入れるのにも苦労しましたし……」
男はそこで言葉を止め、隣に座る女性と子供へ視線を向けた。
女性は子供の肩を抱き寄せ、静かに俯いている。
その様子を見る限り、決して楽な旅ではなかったのだろう。
「……じゃあ、一か月以上も移動し続けてきたんだ」
「はい。途中で休んだ日もありますが、できる限り先へ進むようにしていました」
「…………」
ユウトは改めて馬車の中を見回した。
汚れた服。
僅かな荷物。
疲れ切った表情。
そして、母親らしき女性に寄り添い、不安そうにこちらを見つめる子供。
一か月以上。
これほどの距離を、幼い子供まで連れて移動してきたというのだ。
そこまでして、彼らはどこへ向かおうとしていたのだろうか。
「……アルヴェインを目指してたの?」
ユウトが尋ねると、男は意外にも首を横に振った。
「……いえ」
「……違うの?」
「アルヴェインという街があることは、旅の途中で聞きました。ですが、どんな街なのかまでは詳しく知らなかったんです」
「……え?」
ユウトは思わず首を傾げた。
行き先もよく知らずに、一か月以上も旅をしてきたというのか。
「……じゃあ、どこへ行くつもりだったんだ?」
「…………」
男は視線を落とした。
そして、絞り出すように答える。
「……とにかく、ベルグラードから離れたかったんです」
「…………」
その言葉に、場の空気が変わった。
男の声には、先ほどまでとは違う重みがあった。
「……離れたかったって」
ユウトは男の顔を見つめた。
「何かあったのか?」
「……主」
隣にいたシアが、小さな声で呼び掛けてきた。
「……ん?」
「たぶん、この人たち……」
「……あ」
そこでユウトも気がついた。
一か月以上の長旅。
旅人にしては少なすぎる荷物。
そして、目的地すら決まっていない。
単なる旅行や移住にしては、あまりにも不自然だった。
「……もしかして」
ユウトは少し声を落とした。
「ベルグラードから、逃げてきたの?」
「…………」
男はすぐには答えなかった。
隣に座る女性へ視線を向ける。女性は子供を抱き寄せたまま、しばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
それを見た男も、静かに口を開く。
「……はい」
一度、言葉を区切った。
「俺たちは、ベルグラードから逃げてきました」
「…………」
ユウトたちは、すぐには言葉を返せなかった。
数日前、ミレアが話していたことを思い出す。
ベルグラードでは、人間族が他の種族よりも劣っていると考える者が多い。
そのため、人間族というだけで不当な扱いを受けることがある、と。
「……人間族だから?」
ユウトが尋ねた。
「……はい」
男は力なく頷く。
「……実はさ、少しだけ聞いたことがあるんだ」
「……え?」
「ベルグラード出身の人が、アルヴェインのギルドで働いてるんだよ。ミレアさんっていう人なんだけど」
「……ミレア?」
男が小さく呟いた。
「鬼人族の人なんだけど、知ってる?」
「……鬼人族」
男は少し考えるように眉を寄せたが、やがて首を横に振った。
「いえ……申し訳ありません。存じ上げない方です」
「いや、気にしないで! 同じ地域の出身だからって、知り合いとは限らないよな」
ユウトは軽く笑い、それから表情を戻した。
「そのミレアさんが言ってたんだ。ベルグラードでは、人間族が他の種族より下に見られてるって」
「…………」
男の表情が僅かに曇った。
「……その方のおっしゃるとおりです」
「……やっぱり」
ユウトは小さく呟いた。
ミレアから聞いた時も、不愉快な話だとは思っていた。
しかし、実際にその土地で暮らしていた人から聞くと、言葉の重みがまるで違って感じられる。
「同じ仕事をしても、俺たち人間族は他の種族より少ない賃金しかもらえません」
「……同じ仕事なのに?」
「はい。仕事内容も、働く時間も変わらなくても、人間族というだけで報酬が低いんです」
「…………」
「それに、住める場所も決められています。好きな場所に家を借りることも、土地を手に入れることも簡単にはできません」
男は淡々と話していた。
まるで、特別なことではないと言うように。
「店によっては、人間族専用の入口があるところもあります。正面から入ることは許されず、裏口へ回らなければならないんです」
「……は?」
ユウトが思わず声を漏らした。
「……なんで?」
「…………」
「なんで人間族ってだけで、そんな扱いになるんだ?」
男は困ったように笑った。
「……昔から、そうだからです」
「……昔から?」
「はい」
男は小さく頷く。
「ベルグラードでは、それが普通なんです。人間族はそういうものだと、子供の頃から教えられてきました」
「……普通って」
ユウトは眉をひそめた。
同じ仕事をしても、報酬が違う。
住む場所を自由に選ぶこともできない。
店の入口さえ、種族によって分けられている。
しかも、それを疑問に思わない者が多いという。
前世では不動産の仕事に携わっていたユウトにとって、住む場所を選ぶ自由が制限されているという話は、特に引っ掛かるものだった。
「……家を借りるのも難しいって、どういうこと?」
ユウトが尋ねる。
「人間族に貸してくれる家主が少ないんです。たとえ空き家があっても、人間族だと分かれば断られることがあります」
「……なるほど」
ユウトは静かに頷いた。
家賃を払えるかどうか以前に、種族だけで断られる。
しかも、そのような扱いが特別なことではないというのなら、個人の努力だけではどうにもならない問題だろう。
「……ひどい話ね」
シエルが小さく呟いた。
男は力なく笑った。
「ですが、それでも以前は……どうにか暮らしていけたんです」
「……以前は?」
シエルがすぐに反応する。
「はい」
「じゃあ、今は違うの?」
「…………」
男の表情が変わった。
先ほどまで淡々と話していた口が閉じられ、視線がゆっくりと下がっていく。
ユウトもその変化に気づいた。
「……最近、何かあったんだね?」
シエルが静かに尋ねる。
「……はい」
男は小さく答えた。
「……何があったの?」
「それは……」
男は言葉に詰まった。
隣にいる女性が、子供を抱く腕に僅かに力を込める。
その様子を見て、ユウトはそれ以上急かさず、男が話し始めるのを待った。
しかし、その時だった。
「……おい、ちょっといいか?」
商人の男が声を掛けてきた。
「……ん?」
ユウトが振り返る。
「話の途中で悪いが、ここで長話するのはやめた方がいいんじゃねぇか?」
「……あっ」
ユウトは改めて周囲を見回した。
先ほど襲ってきた魔物はすべて倒した。
しかし、ここは街道の途中だ。
周囲には草原や林が広がっており、いつ別の魔物が現れてもおかしくない。
しかも、商隊はすでに予定より到着が遅れている。
今は一刻も早く、安全な場所へ向かった方がいいだろう。
「……そうね。まずはアルヴェインへ戻りましょう」
シエルも頷いた。
「だな! 商隊も見つけたし!」
「この人たちも一緒に連れていくっす!」
「もちろん!」
ユウトは即答すると、馬車の中にいる人間族の者たちへ顔を向けた。
「……とりあえず、アルヴェインまで一緒に行こう!」
「……いいんですか?」
男が驚いたように尋ねる。
「いいも何も、ここに置いていくわけにはいかないだろ?」
「……ですが」
男は戸惑ったように視線を落とした。
「俺たちは、人間族です」
「……うん?」
ユウトは首を傾げた。
「俺もだけど?」
「……え?」
男が目を瞬かせる。
「……あ、いや。正確にはちょっと違うけど」
「主は、ちょっとどころじゃないっす」
シアがぼそりと呟く。
「シア! 今はいいから!」
「事実っす!」
ユウトが慌てて言い返すと、シエルが小さく笑った。
「でも、アルヴェインなら人間族だからという理由だけで追い出されることはないわ」
シエルは男へ視線を戻した。
「実際に人間族の人たちも暮らしているし、仕事をしている人もいる。普通にお店を利用している人だっているわよ」
「…………」
男は信じられないというようにシエルを見つめた。
「……本当に、そんな街があるんですか?」
「あるわよ。もちろん、何もかもが理想どおりというわけではないでしょうけどね」
「少なくとも、俺たちが見てきた限りじゃ、人間族だからってそこまでひどい扱いを受けることはなかったぞ」
リトも頷いた。
「そう……なんですか」
男の声が僅かに震えた。
隣の女性も顔を上げ、子供を抱き寄せたままユウトたちを見つめている。
今まで当たり前だと思っていたことが、他の場所では当たり前ではない。
その事実が、彼らには簡単に信じられないようだった。
「……まあ、行ってみれば分かるって!」
ユウトが明るく笑う。
「街に着いたら、ギルドの人にも相談してみよう。俺たちだけじゃ分からないこともあるだろうしさ」
「…………」
「それに、今はゆっくり休んだ方がいいよ。一か月以上も旅してきたんだろ?」
男はしばらくユウトを見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声には、先ほどまでの疲労に加えて、安堵の色が混じっていた。
「本当に……ありがとうございます」
「だから、まだ街に着いてないって!」
ユウトは笑いながら答えた。
「お礼は無事に着いてからでいいよ!」
「……主!」
「……ん?」
「今の、ちょっとカッコよかったっす!」
「……ちょっとって何!?」
ユウトが抗議すると、シアは楽しそうに笑った。
「ほら、出発するわよ」
シエルが話を切り上げる。
「シエルまで流すなよ!」
「早く準備しないと、また日が暮れるぞ」
リトも呆れたように声を掛けた。
「……分かったよ!」
こうして、商隊は再び出発の準備を始めた。
◇
やがて、数台の馬車がゆっくりと動き始めた。
目的地はアルヴェイン。
行きに予定していた商人たちに加え、今はベルグラードからやってきた人間族の者たちも乗っている。
ユウトたちは商隊の周囲へ散らばり、魔物の接近に注意しながら護衛を続けていた。
「…………」
ユウトは歩きながら、時折後ろの馬車へ視線を向けていた。
幌の向こうにいる人たちの姿は見えない。
しかし、先ほど聞いた話が頭から離れなかった。
「……気になる?」
隣を歩いていたシエルが声を掛けてきた。
「……シエル」
「ベルグラードのことでしょう?」
「……まあね」
ユウトは小さく頷いた。
「ミレアさんから聞いてはいたけどさ……」
「実際にそこで暮らしていた人から話を聞くと、違う?」
「……うん」
ユウトは少し考えてから答えた。
「同じ仕事をしても、もらえる金が違う。住みたい場所に住めない。店に入るだけでも、わざわざ裏口へ回らされる」
「……ええ」
「しかも、それが普通だと思われてるんだろ?」
シエルは静かに頷いた。
「……そういう考え方が長い間続いているなら、簡単には変わらないでしょうね」
「……だよな」
ユウトは小さく息を吐いた。
理不尽な扱いを受けている人たちを、目の前で助けることはできる。
しかし、そこに暮らす人々の考え方や、長い間続いてきた仕組みを変えるとなれば、話は別だ。
いくら力が強くても、それだけでどうにかなるものではない。
そして何より――。
「……あの人たちさ」
「……うん?」
「一か月以上もかけて、故郷から逃げてきたんだよな」
「……そうね」
「小さい子供まで連れてさ。しかも、行き先も決めずに」
ユウトは後ろの馬車へ視線を向けた。
住み慣れた場所を離れるだけでも、大きな決断だったはずだ。
それなのに、彼らはどこへ行けば安心して暮らせるのかも分からないまま、旅を続けてきた。
それほどまでに、ベルグラードから離れたかったのだろう。
「……それに」
ユウトが呟く。
「最近、何かあったみたいだしな」
「……ええ」
シエルの表情も少し険しくなる。
男は、以前ならどうにか暮らしていけたと話していた。
しかし、今は違うらしい。
何が変わったのか。
なぜ、故郷を捨ててまで逃げなければならなかったのか。
その肝心な部分を聞く前に、話は中断されてしまった。
「……アルヴェインに戻ったら、もう少し詳しく聞いてみる?」
シエルが尋ねる。
「……うん。でも、本人たちが話してくれるなら、かな」
「……そうね」
シエルは小さく微笑んだ。
「無理に聞き出すようなことじゃないものね」
「そういうこと」
ユウトは頷いた。
気になることは山ほどある。
しかし、今の彼らは長旅と魔物の襲撃で疲れ切っている。
まずは安全な場所で休んでもらうのが先だ。
「……とりあえず、今は護衛だな!」
ユウトが顔を上げる。
「そうね。まずは無事に送り届けましょう」
「おう!」
ユウトは元気よく返事をすると、再び街道の先へ視線を向けた。
商隊は順調に進んでいる。
周囲に魔物の気配もない。
このまま何事もなくアルヴェインへ戻れれば、それが一番だった。
ただ、ユウトの頭にはベルグラードという名前が強く残っていた。
数日前までは、ミレアの故郷というだけの場所だった。
しかし今は違う。
その地で暮らしていた人たちが、故郷を捨ててまで逃げてきている。
しかも、彼らの話によれば、最近になって何かが変わったらしい。
それが何なのかは、まだ分からない。
そしてもう一つ、ベルグラード出身の彼らをアルヴェインへ連れて帰れば、当然、同じ土地で生まれ育ったミレアもその存在を知ることになるだろう。
ミレアは、自分の故郷から逃れてきた人々を見て、何を思うのか。
そして、彼らの口から何を聞くことになるのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。
第292話をお読みいただき、ありがとうございます!
ベルグラードから一か月以上かけて移動してきた人々。
彼らは旅をしていたのではなく、故郷から逃げてきた人たちでした。
以前から人間族への扱いが良くなかったベルグラード。
しかし彼らの話によれば、最近になって何かが変わったようです。
一体、ベルグラードで何が起きているのでしょうか。
まずは彼らを連れ、ユウトたちはアルヴェインへ戻ります。
そしてそこには――同じベルグラード出身のミレアがいます。
次回もよろしくお願いします!
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それでは、また次回お会いしましょう!




