第12話 元婚約者の買い戻し提案
王都へ着くなり、ゲルハルトが現れた。
春宴当日の午前、祝宴局裏廊下。彼は以前と同じ整えた髪で立っていたが、その笑顔だけが妙に薄かった。
「アニカ、話そう」
「勤務中です」
「北辺侯の補佐として来たのだろう。ならなおさら」
彼は人目の少ない小控室へ私を誘った。そこはかつて、私が席札の最終確認をしていた部屋でもある。懐かしさより先に、吐き気がした。
「裏名簿のことなら」
「そんなもの、ただの仮メモだ」
「仮メモで席は売れないわ」
ゲルハルトは一瞬口を結び、それから低く言った。
「戻ってこい。今なら君の席を用意できる」
「どの席を?」
「祝宴局次席補佐の下。記録担当としてだ。婚約の件は……考え直してもいい」
つまり、また控えに戻れということだ。
「リディアはどうするの」
「あれは王都で必要な顔だ」
「私は?」
「帳面に必要な手だ」
手。人ですらない言い方に、むしろ笑ってしまった。
「それに」と彼は続ける。「リディアは本当に嫡流の血筋を持っている。王都では彼女の方が上席にふさわしい」
「証明は」
「先例集にもある。断絶分家の再認定だ」
私は黙って彼を見た。再認定が行われるなら、王妃府の通知番号が必ず残る。祝宴局の口約束だけでは嫡流扱いはできない。
「番号を教えて」
「そこまで疑うのか」
「疑うのではなく、確認するの。私は席次台帳官だから」
彼はついに答えられなかった。その沈黙だけで十分だ。
「君は変わった」
「ええ。誰かの控え席に座らされている時間が長すぎたので」
私は新しい革帳面を抱え直した。
「買い戻せるのは、椅子や酒器だけです。人の席は売り買いできません」
控室を出る時、彼が最後に言った。
「北辺侯に利用されているだけだ」
「そう見えるのなら、あなたは本当に席の見方を忘れたのね」
私は振り返らなかった。春宴の鐘が鳴る。今夜、だれがどの席に座るべきかを、もう一度数え直す時間だ。




