55.地下室の待ち人
老爺の後をついて向かったのは、屋敷の地下だった。
蠟燭の灯りが等間隔で照らす廊下は、さほど狭くはなく、地上のそれと同じようによく磨かれていた。普段から表に出せない取引の場として使われているのかもしれない。
(わたしとゼインを待っている誰か……、確実に王太子派の人間だろうな。それも、あの夫人に取引を持ち掛けられるほどの高位貴族だ)
この仮面舞踏会への招待は夫人の意思だと思っていた。こちらが情報収集に手詰まりになっているのを見越して、何らかの取引を持ち掛けてくるつもりなのだろうと。だが、恐らくはちがう。
(オリーティ伯爵夫人の取引相手は最初からわたしたちじゃなかった)
彼女はこの先に待ち受ける誰かに頼まれてこの場を用意しただけだ。
だから仄めかすような言葉ばかりで、明確な対価は求めてこなかった。
(……あの言い方だとまるで、夫人が異端信仰の一族の生き残りのように聞こえたけれど……)
異端信仰とはなにか。
それは一言でいえば、光の大神を信じない人々の集まりだ。
しかし、光の大神ではない別の神を祀っているからといってそれだけで異端信仰であるとはいえない。この辺りはややこしいのだけど、各国が一国一宗派のようになっているからだ。
───かつて光の大神は清らかな人の娘を妻に迎え、十一人の子供に恵まれた。しかし冥竜オルガヘイムとの戦いによって傷つき、人間たちに加護を与えた後に永き眠りについた。世界樹を礎としたそれは、淡く光る膜のような結界であり、この膜によって引かれた線を国境として十一の国が築かれることとなった。光の大神は最後に十一人の子らに王として国をよく治めるように告げたといわれている。
ここまでは世界各国で共通している認識だ。
問題はこの後だ。
光の大神は誰を後継者に指名したか───?
十一人の子の内、長子は誰であったのか?
最も大神に気に入られていたのはどの子であったのか?
最も有望であると思われていたのはどの子であったのか?
それらを示す『正式な』文献は残っていない。
そのため、十一の国すべてが、自国の王族こそが大神の後継者であると主張した。
その主張はどの国も譲ることなく、自国が後継者であると証明するための物語───いわゆる神話が次々と作られていった。大神の周りにはさまざまな神々がいたのだとする国もあれば、大神以外の神を断じて認めず、ただ天使や悪魔といった神に仕える存在がいたのだとする国もある。多様な神話と多様な教えは千年の間延々と論争の的になり、争いの火種になり続けてきた。
(神剣グラードだって一国に一つあるくらいだものね……)
光の大神が冥竜オルガヘイムを倒したときに使われた武器だ。後継者を名乗るならば保有していて当然という意識があるため、十一の国それぞれが自国の王家こそが本物の神剣グラードを保管していると主張している。
もちろん、このアンディルア王国も例外ではない。
(……実際は、大公家が冥竜と戦ったときでさえ出てこなかった剣だけど)
大公閣下は冥竜との戦いの前に王家に使用許可の要請を出したらしいが、なんやかんやと理由をつけて断られたらしい。まあ偽物なんだろうなと魔術師たちは冷めた目で納得したそうだ。
そもそもアンディルア王家の宝物庫に本物が実在するなら、王家が抱える騎士団の誰か優秀な騎士に使わせてやればよかったのだ。冥竜の脅威を前に出し惜しみできると思うほど、あの宰相は愚かではないだろう。しかしそれもしなかった。結論として偽物である。
……千年の間に神話は生み出され、神々の物語も広がっていった。
そのため地方によっては光の大神以外を祀っている教会や神殿もあるらしい。ただ、それらは光の大神の臣下である豊穣の神を祀っているなどの話で、異端信仰とは呼ばれない。
───異端信仰とは『光の大神を信じない』ことだ。
冥竜を打ち倒して世界を救った神は別にいるだとか、大神の存在そのものが偽りだとか、そういったことを唱える人々の集まりだ。
集団としての規模はおそらくごく小さなものだろう。
大公領には魔物の被害に遭って逃げてきた人々も多く、出身も信仰もさまざまだったけれど、異端信仰を唱える人は見かけたことがなかった。
無論、異端信仰を厳しく弾圧する風潮もあるため、隠しているというのはあるだろうけれど、大公領はその辺りがかなり緩い土地柄だ。魔術師たちは貴族や王家への反発が強いため、光の大神を信仰してないという人間も普通にいる。異端信仰とちがって逸話自体を疑っているわけではないけれど、あの王家の祖先なんて敬う気持ちにはなれないというわけだ。一方で、十一の国を守り続けた光の防御壁に敬意を払って、大神を深く信奉している魔術師もいる。民衆の大半はこちらだろう。
(オリーティ伯爵夫人が娼館に現れる前の経歴は誰も知らない。彼女が異端信仰の一族の生き残りだったとしても不思議はない。だけど……、どうしてそれをわたしに仄めかす?)
───ドゥーク、星の導、白き御使い、約束されし救世主
あれはどういう意味なのだろう。
妙に古い言葉を使っていたようだけど、あいにくその辺の知識については自分はさっぱりなのだ。なんなら異端信仰についてだってほとんどアトリからの聞きかじりだ。
(帰ったらアトリに聞いてみようか……)
そう思いながら、密やかに息を吸い込む。
目の前には重厚な扉が広がっている。ついに目的地に着いたらしい。
老爺が音もなく扉を押し開く。
地下室という響きからは想像できないほど美しく整えられている部屋だった。天井からは煌々とした灯りが吊るされて、壁には著名な画家の絵が飾られている。王侯貴族をもてなすための応接室のようだった。
無駄に思えるほど広いその室内に、ぽつんとローテーブルが一つ置かれ、三方を一人掛けのソファが囲んでいる。
すでに二人の男性がそれぞれソファに腰を下ろしていた。一人はすぐにわかる。ゼインだ。もう一人は、
(───まさか)
信じられない思いで目を見開く。
王宮で何度も顔を合わせた。
銀髪に薄茶色の威圧的な眼差し。目元に刻まれた皺さえ、老いよりも得体の知れなさを醸し出している。がっしりとした体格は文官よりも騎士を思わせる。若き日には騎士団に所属し、当時の騎士団長にその才覚を見込まれて転身したという異例の経歴を持つ執務官。
大公家で最も警戒されている男。王家の屋台骨。大公閣下の野望をくじいた唯一の人間。
「ギリアス宰相……、あなたがなぜここに」
なんの表情も浮かべない面差しがこちらを向いた。
宰相ルヴァン・ギリアス。齢五十を超えており、馬狂いの国王に代わり政務を取り仕切って長いが、王宮の誰もこの男が動揺するところを見たことがないといわれるほど、冷酷で冷徹な鋼の宰相。
「ヴァル」
ゼインの呼びかけにハッとして、止めてしまっていた足を進める。
残っていたソファ───ゼインの正面であり、宰相ギリアスとは斜め向かいになる場所に腰を下ろす。
ゼインが億劫そうに口を開いた。
「さて……、ヴァルキリアも来たことだ。そろそろ事情を説明していただこうか。あなたが俺たちを招いたのだろう?」
「そうだ。私がオリーティ伯爵夫人に依頼した。そなたらと話をしようにも、我々の関係は少々込み入っているからな」
「……話とは?」
「その前に、ギルガード家のお二人の疑問に答えようか。伯爵夫人から聞き出したかったのだろう? ───アルフレート殿下の死の真相を」
ぴりっと空気が張り詰めた。
動揺を態度に出さないよう努める。
それでも小さく息を呑んでしまうのは抑えられなかった。まさか宰相自らその話を口にするとは。これから始まるのは釈明なのか、それとも。
「アルフレート殿下とミア・ホイスラーの遺体はヒルドル河で働く漁師たちに発見された。遺体の一部が漁網に引っかかっていたからだ。心中の噂が出回ったのは二人の手首が麻縄で固く結ばれていたからだろう。王宮の検視官が二人の遺体をあらためたが、損傷が激しく、身元を確定できる身体的特徴は見つからなかった。しかし二人の服装が最後に目撃されたときと同じものであることや、殿下の身体に王家の紋章が入った短刀がくくりつけられていたことから、アルフレート殿下とミア・ホイスラーの遺体であると結論付けた」
ギリアスの口調は終始淡々としていた。己の無罪を主張するでもなく、まるで公文書を読み上げているかのようだった。
ヴァルはちらとゼインと視線を交わしてから、口を開いた。
「では、二人の身元の根拠となるものは服装と短刀だけということですね?」
「そうだ」
「それなら……」
「偽者の可能性もあると?」
「───ええ」
「なぜ王太子殿下が死を偽装する必要がある」
「さあ。わかりませんが、いくつか推察することはできます。たとえば、暗殺をもくろむ臣下から身を隠す必要があったと……」
「大公家が暗殺者を放ったか」
「まさか。我らは忠実な臣下ですよ。しかしアルフレート殿下に厭われていた宰相閣下にとっては、苦渋の決断だったのでは?」
挑発に挑発を返す。
しばしの無言の後で、宰相ギリアスはわずかに目を細めた。
そして唇をうっすらと侮蔑の形にゆがめていった。
「愚かだな。私が王太子殿下を排除するなら駆け落ちなどという段階は踏まない。その程度のこと、そなたにもわかっていながら可能性を捨てきれないのか。この国を内戦へ突入させたい何者かの影があると気づいていながら、王太子がそんな謀略に乗るはずがないと思っている。王家ならば国と民を守るはずだと。そなたは魔術師でありながらずいぶんと王家への妄信があるようだな。所詮は生粋の大公家ではないからか?」
カッとなって反論しようとした。けれど言葉が見つからない。奥歯を噛みしめる。
侮辱に対する怒りはある。燃え盛るほどにある。けれどその一方で宰相の正しさを認めざるを得ない。そうだ、自分はアルフレート殿下の人となりを多少は知っていたのに、それでも心のどこかで王太子ならば民を守るはずだと思っていた。
(だってそれがするべきことでしょう。課せられた責務でしょう。だから……)
凝り固まった固定観念だ。王太子が国を裏切るはずがない、なんて。
その地位ではなく、血筋でもなく、アルフレートの人間性を基づいて考えるべきだった。
まだ大した会話はしていないはずなのに、ギリアスにはこちらの思考をすべて見透かされているようだった。そのおぞましさにぞくりと怖気が走る。本音はそこまで明かしていないはずだ。それでもここまで読まれるのか。
ゼインがはっと嘲笑うようにいった。
「王家への妄信とはな……、日頃その威光を御大層に掲げている人間の言葉とも思えんが……。それはつまり、アルフレート殿下とミア・ホイスラー嬢の遺体は偽装された偽者だったと、宰相閣下自らが明言されたと解釈してよろしいか?」
「……いいだろう」
宰相の低い声が頷く。
思わず目を見開くと、ギリアスは忌々しいといわんばかりに眉間に皺を寄せていった。
「本物のアルフレート殿下は隣国オルドーンの手の者に唆され、王家の至宝を───神剣グラードを盗んで消えた。未だに行方はつかめていない。すでにオルドーンへ渡った可能性もある。……あるいは、かの国を経由して教皇のもとへ身を寄せたかもしれぬ」




