54.オリーティ伯爵夫人
一瞬、息を呑んだ。彼の顔があまりにも真剣に見えたから。真実を口にしているように聞こえたから。
けれどすぐに察する。身体のこわばりが解けて、ゆるやかに肩の力が抜けていく。
「そんなに大量の縁談が持ち込まれてるの? うんざりするほど? だからってその解決策は力技すぎると思うよ」
「うんざりするほど持ち込まれているのは事実ですが、私は本気ですよ。あなたに愛を囁ける男になりたいと、昔からずっと思っていましたから」
「はいはい。そんなこといってると、また当主の座を狙っているなんて騒がれるわよ」
「当主の椅子に興味はありませんが、あなたという愛らしい人のためなら、兄上であろうと謀殺してみせますよ」
「相変わらず口が悪いんだから……」
ついでに兄弟仲も相変わらずだ。陰口ではなくゼイン本人に対しても堂々といい放っているので、険悪な仲というわけではないのだけど、とにかく性格が合わないらしい。まあ、あのゼインと合う人を探すほうが難しいだろうけど。
そう嘆息したとき、ホールの入り口付近がざわめいたのがわかった。
視線だけを向けると、どうやらオリーティ伯爵夫人がついに姿を現したらしい。仮面をつけてはいるものの、あの喪服姿は間違いないだろう。
ルインと目配せをして、ダンスの輪から抜ける。
そのままルインのエスコートを受けて夫人のもとへ向かおうとしたときだ。
するりと音もなく一人の小柄な老爺が正面に現れた。服装からしてこの家の使用人だろうとわかるけれど、その存在感のなさにぎょっとする。まるで霧か煙のように佇む老爺は、軽く頭を下げていった。
「マダムがお呼びです、水の君殿」
魔術師でなければ使わないその呼び名でわざわざ読んで、老爺は続けた。
「この爺めについてきてください。ただし、どうぞお一人で」
※
老爺の後をついて向かったのは、ホールに現れた夫人のもとではなく、人気のない夜の庭だった。静かでひんやりとした空気の中に、おぼろ月だけが弱々しい光を放っている。
ルインは心配したけれど、もとより危険は承知の上で招待を受けたのだ。たとえ罠であろうとここは飛び込むべきだろう。
花壇や背の低い樹木が続く道を抜けると、途端に視界が大きく開ける。よく整地されている芝生がなだらかに広がる向こうに、ぽつんとガゼボが建っていた。
(間者が潜むこともできない……、盗み聞き防止に拘った場所だな)
ガゼボの中にはすでに女性の姿が見えている。近づいていけばその輪郭も明らかになり、大聖堂で会ったときと同じく妖艶な美女がそこにいた。
「ようこそ、ヴァルキリア様。お待ちしていましたわ」
「お招きいただきありがとうございます、オリーティ伯爵夫人」
中へ入ると小さなテーブルがあり、そこにランタンが乗っていた。
炎の明かりが、死の商人と呼ばれる女性を妖しく照らし出す。
「ホールにも伯爵夫人がいらっしゃったようですが……」
「ええ。あの子にはほかのゲストのおもてなしを頼んでいるの」
にっこりと夫人が笑う。やはりホールに現れたのは偽者らしい。
(まぁ、どちらが本物だろうと、わたしに見分けはつかないけれど)
夫人と面と向かって話すのもこれが初めてだ。
素顔の夫人を見つめて、自分の仮面を外す。一応、それが礼儀だろうと思ったのだ。しかし夫人は面白そうに笑った。
「可愛らしくも真面目な方ね。真摯で誠実。一軍の長にふさわしい資質だわ。でも、世の中はそういう方が損をするようにできているとご存じかしら?」
「それは、わたしの婚約解消のことを仰っていますか?」
「アルフレート殿下はお気の毒だったわ。ヴァルキリア様もそう思うでしょう?」
「……ええ。ミア・ホイスラー嬢と心中したという話が、真実であればですが」
一歩、踏み込む。
刃のような緊張感が肌を撫でていく。
夫人は嫣然と微笑んだ。
「可愛い可愛いヴァルキリア様。あなたが知りたいのは王太子殿下の死の真相かしら? それとも憐れなミア・ホイスラー嬢の結末?」
ぐっと息を呑む。
夫人が魅力的な餌を目の前にぶら下げてきたことがわかる。
だが、彼女は死の商人だ。
「その問いかけに頷いたら、わたしは対価になにを支払うことになるのでしょうね?」
あえて冗談めかした口調で問い返す。
薄明かりの中で、夫人の瞳が獣のように輝いた。
「───あなたを」
意味が掴めずに見返す。
夫人はまるで少女のごとく無邪気な微笑みを浮かべていった。
「あなたをくださらない、ヴァルキリア様?」
「……わたしの身は大公閣下に捧げています」
「大公家があなたに背くとしても?」
「この命は大公閣下のものです。死ねと命じられたなら死にましょう」
「覚悟はできていると?」
「ええ」
「つまらない答えね。わたくしは楽しいことが好きなの。そんな退屈な答えは聞きたくないわ」
夫人はこちらをじっと奥底まで覗き込むようにしていった。
「ギルガード大公の四天が一、水の筆頭魔術師、水の君。肩書きはどれも華やかね。でも、可哀想な可哀想なヴァルキリア様。大公家はいずれあなたを裏切るわ。あなたの忠誠も献身も踏みにじられる。偽りが剥がれ落ちて真実が明らかになったとき、あなたの前には絶望だけが口を開けて待っている」
夫人はまるで毒をはらんだ霧のように密やかに囁いた。
「ギルガード大公はあなたの恩人なのよね。でも、恩ならもう十分返したのではないかしら? あなた自身の人生を生きてもいいのではなくて? 人生を楽しむ余裕が大公領にいてあるとは思えないわ。けれど、わたくしのもとに来たら、自由に生きる喜びを教えてあげられる」
夜の庭にざわめくような風が吹き抜ける。
夫人が使っているのだろう香水の蠱惑的な香りが漂う。
ヴァルはまじまじと夫人を見返した。
それから「はぁ」と微妙な相槌を打った。
「そうですか。せっかくのお話ですが、お断りさせていただきます」
「あら、悲しいわ。どうしてなのか理由を教えてくれるかしら?」
「……そもそも、オリーティ伯爵夫人、わたしが頷くと思ってます?」
向き合って話すのも初めてという相手のいうことを、鵜呑みにする人間がどこにいるのか。そう言外に告げると、夫人は楽しそうに笑った。
「そうね。今はまだ信頼関係が築けていないわね。でも本当のことよ? わたくし、ヴァルキリア様に嘘はつきませんもの」
「そうですか……」
「本当のことついでに、少しだけ昔話をしましょうか。わたくしはね、ギルガード大公が冥竜オルガヘイムを打ち倒したと聞いたとき、腹の底から笑ったのよ。だってあまりにも愉快だったから」
ヴァルは密やかに警戒を強めた。
大公家が大打撃を受けたその戦いの件を、なぜここで持ち出してきたのか。この夫人に限って何の考えもないとは思えなかった。
「愉快で愉快で、虚しくて、爽快だったわ。ただの人ごときにあの冥竜が倒されたんですもの。……けれど、気づいてしまった。本当はまだ何も終わっていないのね。一族が守り続けた誓いは無意味だったわけではないの。まだ果たされていないだけ。だからあなたがここにいる」
「……一族?」
夫人は答えなかった。
ただ、ほの昏い瞳でこちらを見て口を開いた。
「ドゥーク、星の導、白き御使い、約束されし救世主」
「……何のお話ですか?」
「ふっ、ふふふっ、わからないのね。ええ、そうでしょうね、今はまだわからないでしょう。……でもいつか、わかるときが来るわ」
「ドゥークという名は、魔術師の間では悪戯好きな妖精として知られていますが、それに何か関係が?」
「さあ、どうかしら?」
からかうように微笑んで、夫人は続けた。
「いつかすべてに絶望したら、わたくしのもとにいらしてね? 対価の支払いはそのときまで待っていて差し上げるわ。安心して頂戴、可愛くて可哀想なヴァルキリア様。わたくしは世界の行く末には興味がないの。そんなものよりも憐れな女の子のほうが好きだわ。喜びを知らない可哀想な子に悦楽を教えてあげるのは、とびきり楽しいことだもの」
ヴァルは眉間に深く皺を寄せながら「はぁ」と再び微妙な相槌を打った。夫人のいうことは謎かけのようでまるで意味がわからないが、大事なことは一つだ。
「では、取引は成立ということでよろしいですか? 未来のことは誰にもわかりませんから、わたしは何のお約束もできませんが」
「ええ」
「それでは、アルフレート殿下とミア・ホイスラー嬢についての真相を教えていただきたい」
「その件について語るべきはわたくしではないわね」
夫人がすっと視線をガゼボの外、芝生の向こうへ向ける。
そこにはいつの間にか先ほどの老爺が立っていた。距離があるといえ、まったく気配を感じなかったことにゾッとする。
「彼について行けばいいわ。あなたを待っている人のもとまで案内してくれるから」
「……夫人以外にもまだわたしを待つ人間がいると?」
「ええ。ゼインヘルド・ギルガードも向かっているはずよ。あちらで合流したらいいわ。あぁ、ルインヘルド・ギルガードにも知らせておきましょうか? あいにく彼はあちらには招かれていないのだけど」
「……結構です」
二人の名前を出されては否もいえない。
憮然としながらも立ち上がり、ガゼボの外へ一歩踏み出した。
そのとき、後ろから声がかかった。
「あぁ、そうね。最後に一つだけ。ホイスラー領に行くことがあったら、ヴィーザルの森に立ち寄るといいわ。あの地には昔、異端を信仰する一族が住んでいたのよ」
ぎょっとして振り返る。
夫人は嫣然と微笑んで告げた。
「今はもう誰もいない。一族は滅んだわ。でも、あなたが訪ねることにはきっと意味があるでしょうから」




