52.仮面舞踏会
オリーティ伯爵夫人───死の商人とも呼ばれる妖艶な未亡人の館は、すでに戯れに興じる人々の熱気に満ちていた。
仮面舞踏会を訪れるのは初めてだ。ヴァルは少々気圧されていた。王太子の婚約者だった頃にはパーティーにも頻繁に参加していたけれど、挨拶の手順まで厳格に決められていたあれらとはまるで雰囲気が違う。
華やかで、毒々しい。
漂ってくる甘い香りは、香水のものか、それとも何らかの薬物なのか。
ホールの一角ではダンスが始まっていて、互いに顔の上部を隠した人々が楽しそうに踊っている。秘密の恋も仮面舞踏会の醍醐味なのだとアトリはいっていた。
しかし、主催者であるオリーティ伯爵夫人の姿は見えない。
「二手に分かれるか」
そう耳打ちされて、ヴァルは思わず同伴者の顔を見返した。
ゼインは皮肉気な笑みを浮かべたまま、からかうように口角をあげて見せた。
「なんだ、保護者が必要か、ヴァル?」
「───まさか。あなたを一人にして大丈夫か心配になっただけよ」
「お前よりはずっと場慣れしているさ」
そう軽くいって、ゼインはさっさとホールの奥へ進んでいく。つい、その後ろ姿を見つめてしまうと、彼が華やかなドレスの女性に声をかけるのがわかった。女性がまんざらでもなさそうな態度でいることも。顔の上部を隠していてもゼインは十分女性のお眼鏡にかなったらしい。ゼインのエスコートに女性の手が添えられる。そのままダンスを楽しむ人々のほうへ進むのがわかって、そこでようやく目をそらした。
(……なにを気にしてるんだか。我ながら情けないわ。そんな状況じゃないでしょうに)
この仮面舞踏会に参加しているのは自分とゼインだけだ。招待状は自分宛に一通だけで、ゼインは同行者として来ている。情報収集の目的を考えたら、二手に分かれるのは正しいことだ。
───それでも少しだけ、彼が今夜の装いを褒めて、ダンスに誘ってくれることを期待していた。
───アトリのいうように、普段の服装のせいで女性として意識できないのだとしたら、こんな慣れない格好であっても、少しはゼインの反応もちがうかもしれないと。
ゼインが驚きに目を見張って、このドレス姿を褒めてくれて、未来の妻として想ってくれるようになってくれるかもしれないなんて───……。
(甘い、甘すぎるでしょ。あ~、どれだけ自分に都合の良い妄想をしていたんだか、わたしは! 恥ずかしさで死にそう!)
しかも多分、ゼインには見抜かれている。この恥ずかしすぎる期待を察されていた。だからわざわざ『保護者』なんていってきたのだ。あぁ、許されるなら今すぐベッドに潜ってワーッと叫びたい。
(いい加減、未練たらしくゼインを見つめるのはやめろって、そういう意味よね……)
わかっている。頭ではわかっているのだ。あの人はそういう目で自分を見ていない。だから早く、誰かほかの人を好きになるべきだ。いつまでも自分が引きずっていたらゼインだって困る。あの人を困らせたくない。せめて、ほかに好きになれる人を探す努力をするべきだろう。
(とにかく、今は情報を集めることに集中して……)
ゼインとは別の方向へ足を進めながら、周囲を観察する。
できれば元王太子派の人間、そうでなくとも王家の噂話を知っていそうな人に近づきたい。仮面越しでもまるきり判断が付かないわけではないだろう。見知った人物が誰かいれば───……。
(……なんだか、見られてない?)
周りの人々からチラチラと視線を向けられている気がする。
なんだ。まさかこちらの正体がバレたのか?
でも、その割には、大公家の人間に対する恐怖や嫌悪は感じない。
(……もしかして、わたしの格好が変なんじゃ……!?)
あり得ると、ヴァルは青くなった。
アトリに何度もいったのだ。こんなに肩や胸元を出したドレスで大丈夫なのかと。ウエストを絞って身体のラインを見せるようなドレスは、妖艶な美女が着るならさまになっても、自分には似合わないのではないかと。しかし親友はこちらの訴えを聞き入れるそぶりもなかった。
このドレス姿を見せたとき、ゼインは一瞬驚いた顔をしたけれど、それだけだった。褒められることも微妙そうな顔をされることもなく、何のコメントもなく終わった。むしろ、その後の馬車の中では、ゼインは口数が少ないように思えた。もっとも元からお喋りな人ではない。だからさほど気にしなかったのだけど……。
(やっぱり変なんじゃないの、アトリ!!)
心の中で親友に向かって叫びながら、人目を避けるようにそそくさと壁際へ向かう。不格好だと笑われる程度ならまだしも、注目を集めて大公家の人間だと気づかれては困るのだ。
壁際には軽食やアルコール類が並べられている。呑む気はないけれど、選ぶ振りだけはするかと近づくと、勢いよく酒を煽っている青年の姿が目に付いた。すでに首まで赤くなっている。ずいぶん吞んだらしい。隣の友人らしき男性が窘めるように声をかけている。
「おい、その辺にしておけよ」
「うるさい……! 俺はッ、俺はずっと尽くしてきたのに……ッ!」
どこかで聞いた覚えのある声だった。記憶を探り、すぐに気づいて、危うく声をあげそうになる。
(王妃の騎士か……!)
背格好からしても恐らく間違いないだろう。教会でゼインに剣を向けたあの騎士だ。名前は確かそう、
「どうして俺がこんな目に……ッ」
「なあ、やめとけよ。飲みすぎたって、クリス」
そうだ、クリストファー・ローエンだ。
アトリから聞いたところによれば、ローエン子爵家の三男坊。王妃のお気に入りの若くて見目の良い騎士の一人だという。
ヴァルはさりげなく彼らに背中を向けるようにして聞き耳を立てた。
「あの方は俺が一番信頼できると仰ったんだ……! 王宮の中で信じられるのは俺だけだって! その俺がクビになるなんておかしいだろ!」
「あのなぁ、いっちゃ悪いが、お前の行動は軽率だったよ。上の方々はどれだけあの連中を嫌おうと、正面切って揉めたくはないのさ。そのくらいわかるだろ? なのにお前、あの一族の跡取りに決闘を申し込むなんて」
「あの男はあの方を侮辱したんだっ!」
「で? あの方はお前を守ってくださったのか? お前のクビを撤回してくださるのか? どうせ憐れむ顔だけして終わりだろう」
「あの方を悪くいうな! あの方も苦しい立場なんだ……、宰相に逆らえば命はないと、あの方だけでなくご実家まで危険に晒されるからと、涙を浮かべられて……っ」
「はあ……。お前さ、田舎に帰って見合いでもしろよ。それでしっかり者のいい奥さんをもらってさ」
ローエンが再び「うるさいっ」と叫んで、その拍子にふらついたらしい。自分の背中に男の身体が軽くぶつかる感触があった。あっと、ローエンがすまなそうな声をあげる。一瞬、退くか進むかを迷って、即座に判断する。
情報が欲しい。バレそうだったら逃げよう。
驚いた顔を作って振り返ると、ローエンとその友人の男が申し訳なさそうにこちらに頭を下げた。
「すっ、すみません、レディ」
「お怪我はありませんか?」
「お気になさらないで。それより、わたしのほうこそ謝らなくては。実はお二人の会話が聞こえてしまったんですの。もしかして、そちらの方は、噂に聞く王妃様の勇敢な騎士様なのかしら……?」
意味深な含みを持たせて視線を送ると、ローエンの顔がパッと明るくなった。一方で友人の男は苦い顔をしている。
「勇敢だなんて、そんな……。俺は当たり前のことをしたまでです。でも……、そんな噂になっているのですか?」
「ええ。主君のために己の命を賭けるなんて、並の騎士にできることではありませんもの。あの方こそ真の騎士だと皆褒め称えていましたわ」
実際はそんな噂があるのかどうかも知らないけれど、そういうことにしておく。
赤ら顔に浮ついた喜びを浮かべるローエンに、さらに踏み込むようにいった。
「王妃様があなた様を信頼されていたというのもよくわかりますわ。───いえ、ほかの騎士様たちを悪くいうつもりではありませんのよ? 王妃様をお護りする騎士の方々は、どの方も素晴らしい男性ですわ。高貴な血筋の方々ばかりだと聞きますもの」
ローエンがわずかに苛立った顔になった。狙い通りだ。子爵家出身の近衛騎士となれば、王宮では劣等感を煽られることも多かったろう。
ローエンはふんと鼻息荒くしていった。
「名門出身の騎士たちは多かったが、あの方が最も信頼されていたのは俺だ。俺はあの方がお忍びで神殿に行くのにも付き添ったんですよ。頻繁に行くのは宰相が許さないからと、俺一人だけを供に……」
ローエンの言葉が途中で途切れたのは、友人の男に「よせよ」と強い口調でいわれたからだ。仮面舞踏会で見知らぬ女相手に話すことではないということだろう。もっともな話だけれど、こちらは情報が欲しい。素知らぬ顔で続けた。
「まあ、さすがは王妃様。信仰心に篤くていらっしゃいますのね。ですけど、お忍びで行かなくてはならなかったなんてお気の毒なことですわ。神殿の者たちは王妃様を正しくもてなしてくださったのかしら?」
「あぁ、それは、あの方も仰々しいのは苦手だと仰られてな。慎ましい方なんだ。いつも馴染みのシスターと歓談するくらいで」
「やめろって、クリス」
「なんだよ。大した話はしてないだろ」
ローエンは不満げな顔を友人へ向ける。
友人の男は舌打ちして、こちらをじろりと見た。
(おっと、ここは退くべきかな)
馴染みのシスターとやらには大いに興味があるが、揉め事は避けたい。
軽く微笑んでその場を立ち去ろうとしたところで、友人の男にずいっと距離を詰められた。
「美しいレディ、お会いするのは初めてですね?」
「……さあ、どうかしら? 仮面越しではあなたのお名前もわかりませんわ」
「ははっ、俺は見た通りの放蕩貴族ですよ。日頃から享楽にふけるばかりです。だから、この手の催しには目がなくてね。あちらこちらに顔を出しているんです。でも……、あなたのような美しい女性を見るのは初めてだな」
友人の男がこちらの手を取る。
ぞわっと肌が粟立ったが、振り払うわけにもいかない。微笑みを浮かべたままでいると、男はこちらの手の甲に軽いキスを落とした。
それからゾッとするような鋭い眼でこちらを見ていった。
「どうか俺と踊っていただけませんか、美しい姫君? あなたのような魅力的な女性との会話をここで終わらせるなんてもったいない。夜はまだ長い。楽しみましょう?」
明らかに怪しまれている。
ローエンだけは友人の意図に気づいていない様子で「なんだよ、誘いたかったならそういえよ」なんて零しているが、とんでもない。この男の眼は間者を探るそれだ。下手なことをいえば囚われた上で拷問にかけられるだろう。
(この男、騎士じゃないな。何者だ?)
どうする。一曲だけ踊るか。それとも強引に立ち去るか。
判断に迷ったときだった。
後ろから声がした。
「その手を放していただきましょうか。彼女は私が先約ですよ」
聞き慣れた声に目を見開く。
思わず振り返るより早く、彼のほっそりとしていながらも力強い手が、こちらの腰を抱いた。背後からまるで恋人のように抱き留められる。
「お待たせしてすみません。いくら商談があったとはいえ、美しいあなたを一人にするべきではなかったですね。すぐに悪い虫が寄ってきてしまう」
そうたおやかに微笑んだ青年に、ヴァルは内心で絶句した。
仮面越しだろうと何だろうとわかる。わからないはずがない。理解できないのはただ一つ。
(どうしてここにいるの、ルイン───!?)
ゼインヘルドの弟にして大公家直系男子の一人、ルインヘルドがなぜこの仮面舞踏会に参加しているのかということだけだった。




