51.間章-アトリ・ディンの場合⑥-
「アトリ……、どうしてここに……?」
戸惑いまじりに尋ねられて、ぐっと言葉に詰まる。
けれどすぐにツンと顔をそらせていった。
「大広間が暑かったから涼みにきただけよ。たまたま通りかかっただけだわ。なによ、わたくしが盗み聞きをしたとでもいうつもりなの? 勝手に話し出したのはお前たちじゃないの。わたくしはなにも悪くないわ!」
胸を張っていってやる。
呆気に取られた顔をしていたヴァルは、やがてくすくすと笑い出した。
「ふっ、ふふっ、よかった、アトリが元気そうで」
「……元気に決まっているわ」
「うん、具合は良くなったって聞いてたんだけどね。でも……、顔が見れて安心した」
あぁ、まったく、この女ときたら。
嬉しそうな顔をして、本心からだとわかる声でそんなことをいうのだから、たちが悪い。
アトリは身体の前でぎゅっと両手を握りしめた。
図書室でのことを謝ろう。だってあれは自分が悪かった。だけど時間が経つと余計に謝りにくくなるというのは本当らしい。言葉が喉でつっかえているようだった。それでも必死に口を開く。
「ヴァル、その、あのときは、わたくしが……」
「うん、あのときはごめんね、アトリ」
「───…………なんでお前が謝るのよ」
「だって、アトリは嫌がってたのに、侍女長に話しちゃったから……」
「この愚か者!! あの状況で大人に報告するのは当たり前でしょう!! どこに謝る必要があると思ったのお前は!! 大公閣下の娘ともあろう者が簡単に頭を下げるんじゃないわよ!!! お前はなんでもかんでも受け入れるのをやめなさい!!!」
訂正だ。自分が気短なのではない。ヴァルがどうかしているのだ。
「え、えぇ……。アトリこそすぐ怒るのやめなよ。今なにを怒られてるのかよくわかんないよ」
「お前の愚かさに腹を立てているのよ!!!」
ヴァルはまったくわかっていない顔で「はあ」と頷いた。
それから視線を落として、奇妙なほど固い声でいった。
「もう一つ謝ってもいい?」
「……なによ?」
「アトリが倒れたときね、わたし、パニックになってた。本当はすぐに大人を呼びに行かなくちゃいけないってわかってたのに。重い病気だったら……二度と目を覚まさなくなるかもしれない。わたしが傍にいてもできることなんて何もないんだから、今すぐ走って誰かを呼びに行くべきだってわかってた。でも、動けなかった」
「そんなことを気にしていたの? 馬鹿ね、気が動転して動けなくなるなんてよくあることよ」
「ちがう」
ヴァルにしては珍しいほどに固くきっぱりとした否定だった。
「そうじゃない。わたしはただ……、また見捨てるのかって思ったんだ。また見捨てて逃げるの?って耳元で囁く声がして……、ううん、自分でそう思っただけ。それで動けなくなっちゃった」
ヴァルはのろのろと顔を上げて、泣きそうな顔で笑った。
「だから、ごめん、アトリ」
とっさに言葉が出なかった。
出ない自分に歯噛みする。
怒りを踏み潰すように一歩踏み出して尋ねた。
「またというのは、誰の話よ」
「……わたしのお母さん」
「見捨てて逃げたの? お前が?」
「うん」
「お前にそんな真似ができるとは到底思えないわね」
ヴァルは柔らかく笑った。
───こんなときでさえ、この女は笑うのだ。
「本当だよ」
……泣けばいいのに。
(泣きそうな顔で笑うくらいなら、大人しく泣きなさいよ!)
腹が立つ。身体の奥底から灼熱の炎がぐつぐつと沸き出してくるような錯覚を覚えるほどだ。怒り狂うとはこのことか。
だからいってやる。暴言だろうと知ったことではない。
「そう、それはよくやったわね」
「……アトリ?」
「偉かったわ。褒めてあげるわ。わたくしが称えてあげる」
「……なにをいってるの」
「だってお前が見捨てて逃げなかったなら、わたくしに出会えなかったじゃない。この美しく賢く大公家の直系の姫たるわたくしに会うために、必死で生き延びてきたのでしょう? だから褒めてあげるわ。今だけはお前の健闘を称えてあげてもよくってよ?」
ヴァルは最初、呆気にとられた顔をした。
それからじわじわとその瞳が丸くなって、やがて口元が震えて、たまらずというように吹き出した。
「ふっ、ふふふっ、あはははっ、よくいう! 大公家で一番口の悪いお姫さまのくせに!」
「わたくしは何も悪くないわよ。わたくしを怒らせるお前が悪いの」
「いいがかりだ! ひどい! あははっ、じゃあなに、わたしはこんな怒りっぽいお姫さまに出会うためにがんばってきたわけ?」
「そうよ、当たり前じゃない」
「え~、やだ~、もっと優しいお姫さまがよかった~」
「なんですって!? わたくしのどこに不満があるというのよ!」
「あはは、嘘だよ。ふっ、ふふふっ、うん、そっか。そうかもしれないね」
青い瞳が楽しそうにきらきらと輝く。
まるで陽の光を浴びた海のような眩しい色で、ヴァルはこちらを見た。
「じゃあ、アトリ。今度は絶対に守るよ」
それはどこか荘厳さすら感じるほどに、真摯な面差しだった。
「必ず守る。アトリも、大公家も、大公領の人たちも。わたしはとびきり強い魔術師になって、皆を守ると誓うから」
それは……。
それは美しい言葉だった。美しい誓いだった。おそらくは美しい瞬間だった。
けれどアトリの胸に浮かんだのは、もやりとした気分だった。
だってそれは。
(……それは何かちがうのではなくって?)
───だってわたくしは。
(お前に守ってほしいと望んだことなんてなくってよ?)
※
それから数ヶ月後、ヴァルは戦場へ行った。
隊長である『氷壁のクリーグラ』は、まだ幼いヴァルを心配していたのだろう。部隊が帰還しないときでも、ヴァルだけは三ヶ月に一度は大公家に帰していた。肉体面では守れても、精神面は戦場にいる限りどうにもならない。せめて家に帰って休息を取れ。……それが英雄クリーグラの指示だったらしい。
だからアトリは、半年の間に二度、ヴァルの帰還を出迎えた。親友の無事を喜び、一緒に食事を取って、彼女の話を聞いた。
そして九ヶ月目が来る前に、アトリは決心した。
※
「わたくし、王都へ戻りますわ」
フィンヘルドの執務室を訪ねて、開口一番に告げる。伯父は驚いた顔をして、真意を探るようにこちらを見た。
「それは……、一時的にという意味でしょうか。それとも……」
「必要に応じて大公領を訪れるつもりではありますけれど、生活の基盤は王都へ移します。ディン伯爵家の跡継ぎの身に戻りますわ」
「アトリ……、何があったんですか?」
伯父は心から案じる眼でこちらを見てくれている。
アトリは小さく笑った。
何かがあったわけではない。あえていうならこれは眼が覚めたのだ。
長くさまよっていた迷宮に、海よりも鮮やかな色をした蝶が舞い降りて、出口までともに進んだ。だから自分にかけられた呪いはもう終わりだ。この身は本来の輪郭を取り戻した。
けれど、蝶はまだ一人でさまよっている。許しがたいことに。
「フィン伯父様、わたくしは美しい女ですわ」
戸惑った顔をする伯父に、堂々といってやる。
「この藤色の瞳は儚い幻のように人を惹きつけ、透き通る白皙の頬は神秘的で、形の良い唇は大神に愛された乙女のように艶やか。誰もが眼を奪われるほど美しい人間ですわ」
美しさ。そんなものに何の価値があるの、と、かつてのアトリは俯いた。
お父様もお母様も、大公閣下だってそんなものには見向きもしない。何の価値もない。……だけど、あの女ときたら、まるで花でも称えるかのようにニコニコしながら「アトリはきれいだよ」なんていうのだから!
(ええ、そうね、ヴァル。これはわたくしの武器になるわ)
自分が得られなかったものを数えて嘆くのは、もうやめる。
アトリ・ディンは価値のある人間だ。それを証明してみせる。
「加えてわたくしは文学への造詣が深く、研究者たちとも対等に話せるほど知識が豊富で、詩才にも恵まれておりますわ」
「ええ、それは……、素晴らしいことだと思いますよ、アトリ」
「───ですが、こんなもの、大公家では無意味でしょう?」
フィンヘルドが絶句する。
アトリは軽く笑って続けた。
「フィン伯父様、ゼインヘルド様、ルインヘルド様。大公家には誰もが認める優れた跡継ぎがいらっしゃいます。わたくしがここにいても、無能な姫にしかなれませんわ。ですが───、王都でならばこの才、活かすこともできましょう」
力を込めて告げる。
これは証立てだ。世界への、何よりもあの腹立たしい女への。
「ディン伯爵家の跡取りはわたくしだけ。お祖父様はわたくしの両親に期待していません。わたくしが能力を示せば、お父様を飛ばして次代の伯爵家当主にと指名されることもありましょう。大公家にとっても王都との縁は失えないもの。たとえこの先、情勢がどう転ぶにせよ、大公閣下がどう決断されるにせよ、王都に協力者がいて損はない。そうではありませんか、フィン伯父様?」
最初は驚きに見開かれていたフィンヘルドの瞳が、徐々に細められる。感情が読めなくなり、底知れない気配が漂う。
これは『フィン伯父様』ではなく『大公家次期当主』としての顔だ。
初めて見るその眼差しに気圧されそうになりながらも、全身に力を込めて姿勢を正す。ここで引くわけにはいかない。
「君の考えは面白いと思いますよ、アトリ。ですが、急にそのような決断に至ったことに関しては奇妙に感じます。なにか、君の背中を押すような出来事があったのでしょうか?」
穏やかな問いかけの中にひやりとするような怖さが混じっている。
しかしアトリは憮然としてフィンヘルドを見返した。誰かに唆されたわけではない。あえていうのなら、ヴァルが自分を怒らせたのだ。
「フィン伯父様」
「なんでしょう」
「あの女は───、ヴァルは、伯父様の前で涙を見せたことがあるのかしら?」
フィンヘルドは面食らった顔をした。
それから何かに気づいたようにまじまじとこちらを見て、どこかすまなそうにいった。
「いいえ、ありませんね」
「そうでしょうね。わたくしもありませんわ。ヴァルはこの半年の間に二度帰ってきましたけれど、いつも笑っていますの。あの女が泣くのはゼインヘルド様の前だけですわ。……わたくしの前では泣かない。わたくしを弱いと思っているから。わたくしを守るべき存在だと思っているから。わたくしに不安を与えてはいけないと思っているから。───こんなに腹の立つことがあって?」
許せない。
許せない、許せない、許せない。
泣かないあの女も、泣かせられない自分の無力さも!
「わたくしは力が欲しいのです。魔術師としての才はわたくしにはない。それはもう結構ですわ。けれど力というのは魔術に限ったことではありませんでしょう。権力も財力も人脈も力ですわ。わたくしは───ッ、わたくしはディン伯爵家当主となって、力を手に入れて、いつかあの女を泣かせてみせます。そのときこそ、ざまぁみなさいと高笑いしてやるのですわ!」
※
そしてアトリは王都に戻り、貴族の社交界を舞台に戦った。
魔術師の血筋を蔑む者は多かったけれど、アトリはあえて大公家とのつながりを誇示した。
一国に及ぶほどの軍事力と、急成長を遂げている魔導工学を有しているのだ。先見の明がある者ならば、大公家との橋渡し役ができる貴族の重要さをわからないはずがない。ディン家の当主がその手札をちらつかせるのと同じように、アトリもまた汚点ではなく己の武器として扱った。
やがて、その美貌と才覚で広く知れ渡るようになり、社交界において『亜麻色の詩詠み姫』と称えられるようになる。
アトリは貴族社会での己の地位を確立した。
※
ディン家の一室で、今夜の仮面舞踏会のためのドレスに着替えさせられたヴァルが、珍しく焦った顔でいった。
「アトリ~!? これはちょっと派手すぎない!?」
「あの『死の商人』が主催する仮面舞踏会に赴くのなら、それでも質素なほどよ」
「なんか露出も多い気がする! 肩と、その、む、胸も出てるし……! 王太子の婚約者をやっていたときには、こんなドレス勧めてこなかったじゃない?」
「当たり前でしょう。王家は伝統と品格を何より重んじるもの。王太子の婚約者なら野暮ったいくらいでちょうどいいのよ。でも、オリーティ伯爵夫人のもとにあんな時代遅れのドレスでいったらいい笑いものだわ。時と場合というものを考えなさいな」
ヴァルが完全に言い負かされた顔で天を仰いだ。
当然だろう。装いに関してヴァルが自分に勝てると思うなという話だ。
今夜のドレスは海のような鮮やかな青を基調としながらも、金糸を星の川のごとく胸元から裾まで広げさせ、薔薇をかたどった花飾りをふんだんに縫い付けている。胸のふくらみを強調するように肌を見せるデザインではあるが、下品にはならず、気品と色香が感じられる。
慣れないドレスに恥ずかしがっているヴァルを眺めながら、アトリは一人、心の中で深く満足した。
やはり自分の眼に間違いはない。
素材はいいのだ、この女は。
日頃の格好があまりに仕事人間すぎるだけだ。魔術を最優先した服ばかり着ているから、軍人としての正装か、ダボっとした長衣に幅広の帯留めだけなんていう、男なのか女なのかも定かではないような装いばかりになるのだ。
あれが魔術師として強力な衣服であることは知っている。
しかし片想い中の女がする格好ではない。全然ダメである。
せっかくのスタイルの良さをなぜ自分から殺すのか。
あれではゼインヘルドだってヴァルに抱くのが恋なのか家族愛なのかわからなくもなろうというものだ。
(……でも、実際のところはどうなのかしらね……?)
ヴァルは恋愛に関してはゼインヘルドしか眼に入っていない盲目っぷりだ。
だから本人はまったく気づいていないだろう。しかしアトリは知っている。
この親友に想いを寄せる男が、ほかに何人もいることを。
ヴァルは許容範囲が海よりも広くて何でも受け入れがちな女なので、面倒な男を引っかけることに関しては凄腕なのだ。
───いっておくが、これはまったく褒めていない。
面倒な人間ばかり釣り上げて、たやすく自分に入れ込ませてしまうその悪癖をどうにかしろといいたい。真っ当で誠実な男ならともかく、アトリが知る限り、面倒で厄介で執念深いタイプばかりだ。最悪の男だらけのハーレムでも築くつもりだろうか。
自分が思うに、今まで修羅場にならずに済んだのは、ヴァルがあまりにも露骨にゼインヘルド一筋だったからだ。だからヴァルが王太子の婚約者になったときはまあまあな嵐があちこちで起きていたし、かくいうアトリも、自分の身代わりになったのだと思って激怒した。あの女はどこまで自分を侮るのだと怒り狂い、今度こそ本音を吐くまで許さないと心に誓った。
まさかあれが勘違いだったなんて。この恥ずかしさ、どう責任を取らせてくれよう。
ともかく、ヴァルの恋心というのはそのくらいわかりやすかったのだ。
ゼインヘルドが気づかなかったとは到底思えない。
あの男がヴァルを見つめる瞳が、ただの家族愛だったとも。
(本当にヴァルの一方通行な恋だったなら、とうにほかの男たちが動いていたと思うのよね……)
それこそルインヘルド辺りがさっさと掻っ攫っていたのではないだろうか。
あの弟は別に、兄が相手だからと遠慮するような人柄ではないだろう。あれはただ二人が両想いだから身を引いていただけだろう。
ヴァルは気づいていない。ヴァル以外の人間もほとんどが気づいてはいないだろう。ルインヘルドは本心を隠すことがとても上手い青年だから。
気づいているのは、親友である自分と、それに。
(ゼインヘルド様は気づいているわよねえ、あれは……)
気づいていながら弟に譲るそぶりも見せなかった。ヴァルの眼差しを奪い続けた。あれが愛する女へ向ける独占欲でなかったらなんだというのか。
アトリ編、完結です。次話からはヴァル視点に戻ります。
ちなみにアトリは完璧に自分を棚上げしていってますが、アトリもたいがい面倒で厄介で執念深いタイプです。




