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50.間章-アトリ・ディンの場合⑤-


 図書室で倒れてから一ヶ月が経った。


 あれからアトリは一度も城には上がらなかった。


 ヴァルが去った後には侍女長がやってきて、医師の診察を受けるように説得された。逆らう気力も残っていなくて、アトリはただ頷いた。

 侍女長は『たまたま図書室の扉が開きっぱなしになってるのが見えたから、気になって確認に来た』なんていっていたけれど、それが苦しい言い訳であることはわかっていた。侍女長だってわかっていただろう。それでも『倒れたと知らせを受けてきた』といわなかったのは、名前を出さないでほしいとヴァルに頼まれたのか。自分にはもう関わりたくないという意思表示なのか。


(……まあ、当たり前よね……)


 ぼんやりと窓の外を眺めながら思う。

 自分だって自分のような人間と友達になりたいとは思わない。気短で、神経質で、ヒステリックで。すぐに怒るのに、素直に謝ることもできない。自信のなさを隠すために他人を責め立てる。そんな、自分の駄目なところならいくらでも思いつく。


 ここのところずっとそれを忘れていたのは、ヴァルが平然としていたからだ。自分が癇癪を起そうと、ひねくれたことをいおうと、ヴァルは変わらなかった。あれは何も感じていないわけではなく、無理をしていたわけでもなかったと思う。ぽんぽんと軽口のように言い返されることは何度もあったからだ。「なんでそう口が悪いのさ」だとか「アトリはすぐ怒るじゃん」だとか、そんな風にぼやかれるのはいつものことだった。


 でもヴァルは離れていかなかった。平然と笑っていた。


 アトリが思うに、あの女はちょっとおかしいのだ。珍妙なのだ。許容範囲というものが異常なのだ。あの鮮やかな瞳の色と同じで、海のようになんでも受け入れてしまうのだ。アトリの苛立ちも怒りも波のように呑みこんで落ち着かせてしまうのだ。

 ヴァルが本気で怒ったのは母親を侮辱されたときと、そして、あの図書室での一件だけだ。


(ついにわたくしに愛想を尽かしたのでしょう。……別に、気にしていないけれど)


 どうだっていい。最初からどうだってよかった。ヴァルと自分は縁のない人間だった。この屋敷に閉じこもっている限りは、彼女と顔を合わせることもない。だから、もう、どうでもいいのだ。

 それが必死に自分にいい聞かせる口調になってしまっていることに、気づいていないわけではなかったけれど。


 でももう手遅れだ。


 ヴァルは自分を見限った。


 ……それだけのことをしたから。



 ※



 いくら屋敷に引きこもっていたくても、フィンヘルドからの招待となれば断ることは難しい。ましてそれがゼインヘルドの帰還と戦勝を祝うパーティーであるならばなおのこと。


(わたくしが参加しても、周りに気を遣わせるだけでしょうに……)


 そう内心でため息をつきながら城に上がる。賑わう大ホールの中でも、ゼインヘルドの周りには特に人垣が幾重にもできていた。

 大公閣下の孫として最低限の挨拶だけを済ませて、一人で庭に出る。

 夜空には丸い月が浮かんでいた。

 庭のあちらこちらに魔導灯が設置されているので、散策に不自由はない。目的もなく、ただ華やかなパーティーに背を向けるようにして歩き出す。


 庭木が壁のように並んでいる道に足を踏み入れたところで、誰かの話し声が聞こえた。


「こんなところにいたのか。……なに、君が出て行く姿を見かけたのでな。パーティーは慣れないか? それとも愚かな者に何かいわれたか。もしそうなら気にしなくていい。君は才能のある魔術師だ。大公閣下が養子にされるだけの価値がある」


「テュール様……。いえ、そうではないんです。ただ少し風に当たりたくなっただけで……、お心づかいありがとうございます」


 アトリは硬直した。


 最初の男性の声は、呼びかけられた名前からしても、五家当主の一人であるテュール卿だろう。五家当主たちは皆大公閣下への忠誠心が厚いけれど、彼はその中でも際立っていた。

 そしてもう一人の話し声は、間違いなくヴァルキリアのものだ。


 アトリは身じろぎもできずに、ただその場で息を殺した。少しでも動いたら自分がここにいることが気づかれてしまいそうで恐ろしかった。ヴァルの顔が見たくない。それに、あのテュール卿も。


「グレイはどうした? 今夜は一緒ではないのか」


「ええ、あの子はヤナ博士の実験を見学させてもらえることになったので、パーティーは欠席させていただきました。すみません」


「構わんさ。ヤナ博士に見込まれたとあっては、大公閣下も咎められはしないだろう。魔導工学は今後飛躍的な成長が見込まれている分野だ。ヤナ博士は偉大な方だが、お一人では手が回らぬことも多かろう。グレイがあの方の知恵を受け継ぐことができるなら、それは素晴らしいことだ」


「はい。わたしもそう思います」


「不自由はないか、ヴァルキリア」


「ええ、何もありません。とてもよくしていただいています」


「ふむ……。君はいささか控えめすぎるな。力のある魔術師ならばもっと己を誇示すべきだ。君もグレイも養子だということを引け目に思うのはやめなさい。我々は愚昧な貴族どもとは違う。魔術師は血筋や家柄など歯牙にもかけない。我々はただ相手の実力のみを見る。相手の能力のみに判断の秤を置く。それこそが魔術師だ。もし、それができぬ者が君の近くにいるというならば私にいいなさい。即刻排除しよう」


「テュール様……、わたしは本当によくしていただいていますよ。いくら魔術師としての才能を見込まれているといっても、今のわたしは何もできていない未熟者だというのに。……テュール様にも気に掛けていただいて、ありがたいと思っています」


「君はまだ幼い。焦ることはない。我々は君の未来に投資している。君にそれだけの価値があると知っているからだ」


「はい。ありがとうございます」


 ふざけるんじゃないわよ、と、叫んでやりたかった。


 だけどアトリはただ歯を食いしばった。声を上げてしまわないように、手で口を覆った。


 五家当主の一人、テュール卿はこういう人物だった。かつて自分のことを「やはりあのイズーナ様の子ではな」と失望した様子で話していたのも彼だった。あの男はとにかく魔術師至上主義で、その才能だけで他人をはかるのだ。だから平気で、価値があるだの、未来への投資だの、そんな言葉をヴァルにも投げつける。


 身寄りのない子どもがそんな風にいわれたら、ますます追いつめられるかもしれないと、その程度のことも考えられないのだろうか! 


 ヴァルは自分とちがって大公閣下と血のつながりがない。力を示さなければここにいられないと、弟のためにも強くならなければと、彼女が心のどこかでそう考えていることを自分は薄々知っていた。ヴァルがそれを口に出したことはないけれどわかっていた。


(……でも、テュール卿に守られるというのは、ヴァルにとって必要なことだわ……)


 ある日突然大公閣下の養子となったヴァルとグレイを妬む人間が、いないはずがないのだ。ほかでもない自分がそうだったのだから。ヴァルに嫉妬して、嫉妬して……、きっと今だって嫉妬心が消えてない。根深く残っている。


 テュール卿は苛烈な魔術師至上主義として知られている。

 彼は血筋や家柄を誇る人間を虫けらを見るように見下ろし、その類の理由で才能のある魔術師が足を引っ張られることをこの上なく嫌悪し、障害を排除するために手段を選ぶこともない。そんな人物がヴァルの庇護者の一人であるというのは、彼女を妬む人々に対する大きな抑止力になるだろう。大公閣下やフィンヘルドは上に立つ者として公平さを求められる場面も多い。でも、テュール卿はちがう。


 だから、今ここで自分が出て行って、ふざけたことをいうなと怒るのは、返ってヴァルの立場を悪くするだけだ。いや……、自分のことなど、テュール卿は煩わしい存在としか思っていないだろうけれど。


(でも、わたくしにヴァルを庇えるほどの力はないもの……)


 無能な“お姫さま”だ。大公閣下の孫であるということ以外、自分には何もない。


 そう俯いたとき、テュール卿がいった。


「大公閣下の孫娘との付き合いはやめたようだな。正しいことだ」


 ひゅっと喉が鳴った。


 聞きたくない。やめて。それ以上なにもいわないで。


 今すぐここから立ち去るべきだと思った。足音を殺して、静かに静かに逃げるべきだ。だけど身体が動かない。この先を聞いたところでいいことは何もないとわかっているのに、聞かずにはいられない。自分が傷つくだけだと頭では理解していても、自分の悪口に耳をそばだててしまう。


「君は才能のある魔術師だ。だからこそ、付き合う相手も選ばなくてはならない。大公閣下の孫娘とはいえ、あれはイズーナ様の子だ。何の役にも立たん。能力のない者を傍に置いては、いずれ君の足を引っ張るだろう」


「……アトリですよ、テュール様」


「なに?」


「アトリというんです。彼女の名前はアトリ。とっても賢くて努力家で口が悪くてすぐに怒る、わたしの友達です」


 ばか。


 やめなさい。


 お前は何をいっているの。


 相手はテュール卿よ、わたくしを認めるはずがない。でもお前にとっては大事な庇護者、逆らうべきではない相手よ。お前だってそのくらいわかるでしょう!


 声に出せない叫びが胸の内側で荒れ狂う。


 姿は見えないのに、その声だけで、ヴァルが覚悟を持ってテュール卿に対峙していることが伝わってくる。わかってしまう。だってあの女はいつもはへらへらしているくせに、変なところでとびきり頑固なのだ。


「テュール様。わたしはテュール様が魔術師であることに誇りをもっておられることを知っています。それがテュール様の秤であることも。……昔、隣に住んでいたおじさんがいっていたんですよ。人はだれもが自分の秤を持っていると。おじさんは面食いで、奥さんの顔が大好きだったので結婚を申し込んだそうです。でも、わたしのお母さんはお父さんの優しい性格が大好きで結婚したんです。……なにを大事にするのか、なにを秤にするのかは、みんなそれぞれちがうんでしょう。だから、これは、テュール様とわたしの秤はちがうのだという話です」


 ヴァルの声は柔らかかった。こんなときでさえ彼女は海のようだった。なにも拒まずに受け入れようとする深く青い海のようだった。


「わたしはアトリの努力家なところが好きです。努力している姿を見せたがらないところも好きです。怒りっぽいところも嫌いじゃありません。怒るのは誇りがあるからです。テュール様と同じように、アトリもとても大公家を大事にしていて、誇りに思っています。そういうところもわたしは好きです。アトリの激しさも好きですよ。突然罵ってくるのはやめてほしいと思いますけどね。でも、許せることと許せないことがはっきりしているのは格好良いと思います。わたしはすぐあいまいになってしまうので」


 ───ばかね。

 それはお前がなんでも受け入れるからよ。

 わたくしは受け入れないわ。わたくしの心は狭いもの。わたくしは許せないもの。お前にだって今でも嫉妬している心の狭い女よ! なのにどうしてお前は、お前はそんな───……っ。


 片手で口を抑えながら、片手で胸を抑える。


 心の重みで身体が二つ折りに折れていく。


 だってこんなの。どうしたらいい。


「わたしにとってアトリは大事な友だちです。たとえ、テュール様にはちがっていても」


「……それで? それが何だというのだ、ヴァルキリア」


 その冷え切った声に、アトリの全身がゾッと総毛立つ。

 とっさに顔を上げて、二人に声をかけようか迷った。テュール卿は大公閣下の信奉者だ。陰で何といおうと、あの男には自分という大公閣下が可愛がっている孫を害することはできない。でも、ヴァルはどうなるかわからない。


「君は自分の立場を理解していないようだな。確かに君には投資する価値があるが、今は弱く半人前の魔術師にすぎない。わたしに意見できると思うのか?」


「いいえ。……わたしは、テュール様にお考えを変えてほしいといっているわけではないんですよ。テュール様にはわたしが想像もつかないほど多くのことがあって、それで魔術師を何よりも大切にされるようになったんでしょう。そのお心も大事にされるべきだと思います。それに、わたしがテュール様を尊敬しているのも本当ですよ。ただ……、わたしにとってアトリは大事な友だちです。どうかそれもわかっていただけませんか」


 男からの答えは、つまらなそうな「ふん」という声だった。


「私に認めさせたいのなら、力ある魔術師となることだ。君が私を越えたときには、君の話を聞いてやろう」


「ありがとうございます。───ではいずれ、必ず、大公家の強き盾となる魔術師になってみせましょう」


 男はそれ以上は何も言わず、ただ立ち去っていく足音だけが聞こえた。


 そしてテュール卿の気配が完全に消えた後で、静かな夜の庭に、はーっと安堵の息を吐き出すヴァルのその呼吸音がひときわ大きく響く。


 たまらなかった。


 どうしようもなかった。


 だからアトリはがむしゃらに駆けていって、その女を怒鳴りつけた。


「ばかね! テュール卿に喧嘩を売るなんて、お前は本当に信じられない愚か者だわ!! ああいうときは聞き流しておけばいいのよ! 黙って話を合わせておけばいいの! それなのにわたくしを庇って歯向かうなんて、なにをやっているのよお前は!!」


 月明かりの下で、海のような青い瞳がまん丸く見開かれた。







すみません、アトリ編がもう一話だけ続きます…!

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― 新着の感想 ―
アトリちゃんもヴァルもなんてかわいいんだ…!と思いながら読んでます、キャラを愛させる力がありすぎて、読んでてとっても温かい気持ちになります!応援してます!
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