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49.間章-アトリ・ディンの場合④-


 ヴァルキリアと出会って三ヶ月。

 アトリは大公家の城の図書室を訪れることがすっかり日常になっていた。


 ヴァルのために選んだ本と、侍女が用意してくれた焼き菓子が入ったバスケットを両手に持って歩く。


 図書室には文献の整理をするための小さな部屋があり、そこにはティーカップなどの休憩用の食器類が一通り揃っていたので、勉強が一息つくと毎回そこでお茶をするようになった。今では早く勉強の時間が終わったらいいのにと思ってしまうことも否定できない。


 だってアトリの屋敷の料理人が作った焼き菓子はどれも美味しいし、アトリが手ずから選んだ茶葉はその日の菓子に合わせてちがうのだ。どれもぴったりなものを選んでいるから、ヴァルは早く味わったほうがいいと思う。

 あの女はなんでも美味しいというし、細やかな味の違いがわかっていない大雑把さがあるけれど、幸せそうに食べる姿はまあまあ可愛げがある。美味しいものをもっとたくさん食べさせてあげたくなる。


 アトリは意気揚々と図書室の扉を開けた。

 しかし、いつもとは違い、長方形の机でヴァルが勉強している姿は見当たらなかった。今日はまだ来ていないのかとがっかりした時、小部屋のほうから物音が聞こえてきた。


(さてはヴァルったら、お茶の時間が待ちきれなかったのね?)


 まったく勉強はどうしたのよ勉強は。

 そう思いながらも機嫌良く小部屋のドアを開いて、そして息を呑んだ。


「あぁ、アトリ。ごめんね、ちょっと待ってくれる? この包帯がうまく巻けなくてさ」


 ヴァルの右腕に大きく貼られたガーゼと、そこに滲む赤黒い色。

 一瞬、めまいにも似た感覚があった。指先から血の気が引いていく。心臓がどくんと不穏な音を立てる。


「どっ、どうしたの、おまえ、その傷は……っ!」


 慌てて駆け寄りながらも、問いかける声が震えてしまう。


「ちょっと失敗しちゃった。力をうまくコントロールできなくて、自分の氷でザクっとね」


「ばかね、どうして幼学校の養護室に行かなかったの!」


「いや、これ、城に帰ってきてから一人で練習してたときにやったから」


「それなら侍女にいって医者を呼ばせなさい! どうして自分で手当てしているのよ!?」


「そこまで深い傷じゃないよ。血ももう止まったし」


 ほら、と、ヴァルがガーゼをめくってみせる。出血が止まっていることを示そうとしたのだろう。それはわかっていた。わかっていたけれど、生々しい傷口を前にして呼吸が乱れた。


(やだ、どうしよう……!)


 だめ、思い出さないで。そう我慢しようとしても激しい動揺が自分を飲み込んでいく。情けないと自分を責めても耐えきれない。足元がぐらぐらと揺れる。意識が遠ざかっていく。



 ※



 それは自分に魔術の才能がないのだと思い知らされたばかりの頃だった。


 役立たずだと思われたくなくて、必死に役目を探した。

 魔術師が重んじられる大公領とはいえ、魔術が使えない人は普通にいる。彼らは魔術も魔道具も不要な仕事をしているのだから、自分にだって何かできることがあるはずだ。


 最初は教会で行われる炊き出しの手伝いをしようと思った。

 王都でも教会で慰問活動をしている貴婦人の話は聞いたことがあったからだ。けれど教会側からやんわりと断られた。炊き出しには様々な事情を持った大人が多く集まるから安全が保障できない、大公閣下の孫に何かあってはいけないのでという理由だった。


 慰問活動をしたいから護衛を増やして欲しいなんていえない。


 いくらこの大公領が平和でも、国内全体で見たらこれは異例の状況なのだとわかっていた。魔物の襲撃に怯えずに暮らせるのは、魔術師たちの護りがあるからだ。そして教会で炊き出しが頻繁に行われているのも、フィンヘルドが領内の治安に頭を痛めているのも、魔物が来ないならそれだけでいいと身一つで逃げてくる人が大勢いるからだ。


 幸い、大公家には未開の土地が多くある。

 大公閣下が一代で登りつめた中で拡げていった領地は、王家からは使えない土地と見なされていたために与えられた場所も多い。そして天才魔道具師のヤナ博士はそれらの大地を開拓するための魔道具を次々と生み出した。だから、職を選ばなければ働き口はいくらでもあるのだという。

 ただそれも五体満足でなければ難しく、魔物から逃れてきた人々の中には身体を壊している者も少なくない。また、逃げてきたにも関わらず魔術師への蔑視を捨てられず、領民とトラブルになることも少なくないのだとか。


 アトリの屋敷があるのは大公家のお膝元である中央都市の一等地だ。

 近隣の住民は大公領の中でも最上級の富裕層であり、大公閣下の孫娘であるアトリに礼を尽くしてくれる。屋敷周辺や大公家の城の中ではアトリに危険が及ぶことはない。


 でも、この場所から出たら安全じゃない。それは噂話を聞くだけの自分にもわかっていた。


 そうかといって、多くの魔術師が戦っているこの状況で、自分のわがままのために護衛を増やしてほしいなんていうのはあまりにも愚かなことだ。


 できる限り安全な場所で、大人の手を煩わせずに、自分が役に立てること。


 さんざん考えてたどり着いたのは、大公領で最も大きい病院でのお手伝いだった。

 この病院は前線で負傷した魔術師たちの受け入れ先になっていて、軍病院の色合いが濃かった。魔術師たちは大公閣下への敬意を決して忘れない。大公閣下の孫娘に乱暴な真似をしようとする魔術師はいないし、万が一いたとしても周りの者がすぐに止める。それに、病院では自分と同じくらいの歳の子供も手伝いをしていると聞いたのだ。雑用程度だけれど、病院内のお使いなどをしていて、大人たちから可愛がられているのだとか。


 そのくらいなら自分にだってできる。少しでも役に立ちたいと思った。


 けれど、フィンヘルドには止められた。


「アトリ、確かにそういう子供たちもいますが、あの子たちは親御さんが病院で働いているからなんですよ。親の手伝いをしているだけなんです。……君が色々と考えてしまうのはわかります。でも、君はまだ子供です。好きなことや、楽しいことをしていいんですよ。魔術の勉強ばかりではなく遊びに行ったりして」


「ゼインヘルド様は戦場に行かれていますわ! ルインヘルド様だって魔道具作りに関わってらっしゃると聞きました。わたくしだけが遊んでいるなんてできません! わたくしは……っ、役に立ちたいのです!」


 必死にそういい募ると、やがてフィンヘルドは折れた。


 ───けれど、あとから考えたら、フィン伯父様のいうことを聞いて諦めていたらまだよかったのにと思う。


 だって自分は、病院でのお手伝いの初日に、血を見て倒れたのだ。


 大公閣下の孫娘だからと病院側は気を遣ってくれたのだと思う。初日に任されたのは、回復した人たちが入院している病棟で、洗濯したタオルを配っていく仕事だった。たったそれだけのお手伝いだ。退院が近い患者が多かったこともあり「大公家の姫君から直々に渡していただけるなんて……! これは一生の宝にします!」なんて言ってくれる人も多かった。そのたびに同室の患者から「病院のタオルだぞ、持って帰れるわけがないだろう」と指摘されて笑いが起こったりしていた。途中まではアトリも意気揚々としていたのだ。


 けれど、状態が安定しているように見えても、急変する人はいる。


 その青年はアトリから嬉しそうにタオルを受け取ろうとしたときに、急に苦しげに顔をゆがめた。心配するアトリに、おそらくは「大丈夫です」と答えようとして言葉が出ず、むせかえって、そして、血を吐いた。真っ青な顔になって、恐ろしい喘鳴を立てながら、シーツが真っ赤に染まるほど大量の吐血をした。周りの患者がすぐに医師を呼びに行ったし、アトリの手を引いて青年から遠ざけようとした。けれど、駄目だった。


 結局のところ自分は守られているだけのお嬢様だった。ゼインヘルドは戦場で戦っているというのに、自分は、目の前で人が血を吐いただけで恐ろしくて気を失った。目を覚ましたときには、あの青年よりもずっと手厚く看病されていた。怪我でも病でもないのに、病院の偉い先生たちまで来て、丁寧に診察された。


 青年が一命をとりとめたという話を聞いても、もう病室には行けなかった。逃げるように病院を出た。


 自分が恥ずかしくて情けなくてたまらなかった。


 無能な上に足を引っ張っている。迷惑をかけている。役立たずなんだから引っ込んでいればいいのに。出しゃばって馬鹿みたい。結局は余計な手間をかけさせてるだけ。……そう皆に嫌がられているような気がした。実際に何かいわれたわけじゃない。自分に面と向かって悪くいう人はいない。けれどきっと影ではいわれている。


 だって誰よりも自分自身がそう思っているのだから。



 ※



 ヴァルの真新しい傷口を前に、あのときの記憶がまざまざと蘇った。

 全身が過去に引きずられる。指先から冷たくなっていく。呼吸が苦しくなる。とっさに傍のソファに縋りつくように身体を預けた。そのまま視界が狭まって、ふっと目の前が暗くなった。


 次に目を開けたときには、ヴァルが必死の顔で自分の名前を呼んでいた。


「アトリ、しっかりして、いやだよ、アトリ、アトリ、いやだ、おいていかないで、あっ、あぁっ……!!」


「……ヴァル……?」


「アトリ!!! よかった、気がついた!? まってて、今お医者様を呼んでくるから!!!」


 そういって背を向けようとするヴァルの腕を、とっさに掴んだ。

 倒れるのは二度目だから、一度目よりもずっと意識が冷えていた。気を失っていたのは短い間のことだろう。ソファのお陰で痛みもない。身体を打ってもいないようだ。

 気だるいまま、なんとか声を出した。


「やめてちょうだい、お医者様なんて必要ないわ……」


「何いってるの、倒れたんだよ!? ちゃんと診てもらわなきゃだめだよ!」


「いらないといってるのよ!」


 甲高い声が出る。

 苛々した。ヴァルが怯えたような顔をするのも腹立たしくてならない。


 いつもどれほど厳しいことをいっても平然としているくせに、どうして今に限ってそんな顔をするのか。


 少し苛立ちをぶつけたくらいで動揺するような可愛げのある女じゃなかったはずなのに、なんで今に限っていつものようにけろっとした顔で笑ってくれないのか。


(わたくしが……っ、お前が考えているよりずっと弱かったからかしらね!)


 血を見ただけで倒れるような情けない人間だったからか。

 驚いたのか。がっかりしたのか。呆れたのか。憐れんだのか。


 きっともうヴァルは自分を凄いなんていってくれないだろう。恥ずかしい。消えてしまいたい。


(どうしてわたくしはこんな……っ)


 できそこないなのだろう。大公家の名を汚すことしかできないような人間なのだろう。眼のふちに涙がにじむ。それすらも弱さの証のようで許せない。


「アトリ……、ねえ、お医者様が苦手なの? でも、倒れたんだよ? 少し我慢して、診察してもらおう?」


「うるさいわね、いらないといっているでしょう!」


 立ち上がろうとして、くらりとまた視界が揺れる。あえなくソファへ戻ると、ヴァルは慌てたようにいった。


「わかった、じゃあ侍女長を呼んでくる。それならいいでしょ?」


「誰もいらないわ……っ! このことは誰にもいうんじゃないわよ! 秘密にして、忘れるの。いいわね?」


「そんなことできるか!!!」


 突然、ヴァルが叫んだ。


 驚いて彼女の顔を見れば、青い瞳が怒りをあらわに吊り上がっていた。


「重い病気だったらどうするの! なにかあってからじゃ遅いんだよ!? 薬を飲んだらきっとよくなるよ!! だから今すぐ診てもらおう?」


 心配されているのだとわかる。


 だけどそんなものいらなかった。


 才能のある魔術師。いずれ筆頭魔術師にもなるだろうと褒め称えられるヴァルキリア。そんな人間からお情けをかけられて喜ぶと思うのか。その気遣うような声も眼差しも何もかもが無性に癇に障った。


「うるさいといってるでしょう! 病気じゃないわよ。わたくしのことはわたくしが一番よくわかっているの! お前はただ黙っていればいいのよ! 黙っていられないなら出て行ってちょうだい! 二度とその顔をわたくしの前に見せないで! お前なんて大っ嫌いだわ!! 出て行って! 早く出て行きなさいよ!! 大っ嫌いよ!!!」


 ヴァルキリアが固く唇を引き結んでこちらを見下ろす。


 やがて彼女は無言で部屋を出て行った。




 ───ああ、終わってしまった。


 ちがう。自分が終わらせたのだ。


 終わってしまったなんて嘆く資格もない。


(わたくしは……どうして……)


 こんな人間なのだろう。

 無能なだけじゃない。優しくもない。感謝もできない。


 ヴァルはもう二度と傍には来ないだろう。それだけのことをいったのだから。


 革張りのソファにぽたぽたと雫が落ちた。

 




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