25.才能がある故の苦しさなのでしょうか
例えばこんな髪色じゃなかったら。
例えばこんな容貌じゃなかったら。
例えば性別が違っていたら。
例えば才能なんて微塵もなかったら。
例えば兄なんていなかったら。
例えばこんな家に生まれていなければ。
世界はもっと、別の色をしていたのだろうか。
ひゅん、トッ。ひゅん、トッ。
風を切り裂く音から的を射る音へ。それらは寸分の狂いなく一定のテンポで刻まれていく。ぶれのない綺麗な姿勢から放たれる矢のほとんどが真ん中に吸い込まれていく様子は、まるで精巧な機械を見ているようだった。
シュゼットが椅子に腰を下ろしてから2人の間に一切の会話はない。ひたすらに弓を射続けるライガーの横顔はどこかレオガルドに似ていて、本当に兄弟なのだなと実感する。不思議なものだ。父親似のレオガルドに対し、ライガーは母親似。見た目は全然違うのに。
武芸に関してど素人のシュゼットにもライガーがとんでもなく凄いのはなんとなく分かる。少なくともわずか11歳の少年が平然と行える技術ではないということも。レオガルド同様、ライガーも飛び抜けた武の才能を持ち合わせている。
――けれど、何故だろう。
(ちっとも楽しそうに見えない)
レオガルドの仕合を観に行ったとき、その迫力に圧倒された。ドキドキしてわくわくした。
それはきっと、剣の上手さや強さだけじゃなくて、彼らが剣にかける思いを全身で感じたから。感情の全てをぶつけ合って剣を振るう少年達は煌めいて見えた。
しかしライガーからは感じないのだ。
熱量も、思いも、必死さも、未来への展望すら。
矢を打ち切ったライガーは弓を下ろし、大粒の汗を拭う。静かに見据える先はたくさんの矢が突き刺さった的。瞳が映す色合いはほの暗く、どこか淀んでいるようにさえ感じる。
タイミングを見計らって拍手を送る。ライガーの視線が動くと同時にシュゼットはにこりと微笑む。
「本当に素晴らしい腕前です」
「僕などまだまだですよ。弓の訓練などご令嬢には退屈なのでは?」
「まさかそんな。このまま何時間でも見ていたいくらいですわ」
「……それは光栄です」
暗に「帰れ」と訴える言葉に全力スルーを決める。
「お恥ずかしながら弓のことはあまり存じていませんでしたが、こんなに綺麗なのですね」
「綺麗?」
「はい。ライガー様の射られる弓もすっと伸びた背筋も、とても綺麗です」
ライガーは鼻で笑う。シュゼットへの嘲笑というよりは自嘲に近い笑みだ。
「こんなもの、訓練すれば誰だって出来ます。別に僕が特別なわけじゃない」
「そうでしょうか。私にはそう思えません」
「それは貴女が物を知らないだけだ」
きつい物言いにライガーの本心が透けて見え始める。レオガルドの婚約者であるシュゼットへの敵意とは別のなにか。おそらく、弓が楽しそうではない理由の一つ。
だからわざと、逆撫でしそうな褒め言葉を選ぶ。
「ですが素人の私から見てもライガー様の弓術は天才的なように思います。さすがはレオガルド様の弟君だと……」
ガシャン!!
地面に叩きつけられた弓が跳ね上がり、渇いた音を立ててその場に鎮座する。恐ろしいほどの静寂の中、少年の琥珀色の瞳だけがぎらぎらと熱を放つ。射殺さんばかりの眼差しにさすがのシュゼットも唾を飲み込んだ。
「部外者はいいですよね、こちらの気も知らないで適当なことをべらべらと並べられて。綺麗? 天才的? はっ、反吐が出そうだ」
「気に触ったのなら謝ります。けれど、本当にそう思って――」
「貴女は兄の剣を見たことがありますか」
頷くと僅かに驚いた様子を見せるが、それもほんの一瞬。すぐ興味なさげにそっぽを向く。
「それなら分かるでしょう。あの人は化け物だ」
「化け物?」
「剣の神様に愛された正真正銘の化け物。ローグウェル家の、父の血を最も色濃く受け継いでいる。天才とはアレのことを言うんです」
抑揚を抑えた口調だが、隠しきれない苛立ちが端々から滲み出している。きつく握り締められた拳は何かに堪えるように小さく震えていた。
「ですがレオガルド様だってライガー様のように弓を扱えるとは思えません」
「扱う必要なんてない。こんなのただの逃避です。剣ではあの人に勝てないから弓に逃げただけだ」
武の名門、ローグウェル家の名。
現近衛騎士団長、ルイズの名。
それらはいつだってライガーをついて回った。ローグウェル家の血を受けた以上は仕方のないことだと幼心に理解していた。寧ろそれだけの功績を残してきた名家に生を受けたことへの喜びすらあった。
鮮やかに蘇るのは、民衆の歓声を浴びながらたくさんの騎士を引き連れて堂々と先頭を進む父の姿。馬上のルイズは強く気高く、誰もがその凜とした佇まいに酔いしれていた。いつかはああなりたいと憧れと希望を胸に、毎日訓練に打ち込んだ。
けれど、どれだけ腕を磨いてもどれだけ仕合に勝っても、人々は揃って口にする。
『やはりレオガルド様の方が頭ひとつ飛び抜けている』
紛れもない事実だった。刃を振るう速さ、剣を扱う技術、機転の利かせ方、洞察力や観察力。それら全てレオガルドの方が上。訓練でも仕合でもレオガルドに勝てたことは一度もなかった。何時間と剣を振るっても、他者と模擬仕合を繰り返しても、勝てない。
息を切らして無様に尻もちをつくライガーを見下ろすレオガルドの瞳には、何の感情も映らない。驕りも憐れみも、何も。
『弱ぇな』
たった一言。しかしライガーの全てを壊すには十分過ぎる一言だった。
いつか見た夢に亀裂が入る。ヒビはあっという間に全体へ波及していき、砕け散る。矜持も努力も希望も何もかも塵と化し、世界は色を失う。後に残ったのは栄光たる家門と偉大な父の名という重しと、兄に劣る自分という現実だけ。
「ライガー様にとって、弓は“逃げ”ですか?」
「そう言っているでしょう。本物の騎士を目指すなら剣以外の選択肢なんて無意味なんですよ」
「それではどうして弓を……」
「仕方ないじゃないか、この家で生きていくなら己の力を示さなければいけない。でもあの人がいる限り剣じゃ絶対に一番になれない」
ローグウェル家の子息である以上、武術から離れることは許されない。一族にとって力こそ己の存在意義であり、命綱だ。手離せば地位も権力も財産も生きる意味すら奪われて二度と日の目を見ることはない。
けれど剣ではレオガルドの足元にすら及ばない。そして今後もおそらくこの差が埋まることは無いだろう。
(一生、このまま?)
レオガルドとの差を囁かれ、埋められない実力に絶望し、二番手以降に甘んじ続ける。生きている限り、一生。
想像だけでぞっとした。いつか本当に狂ってしまうかもしれないと恐怖すら覚えた。怖くて怖くて、身動きが取れなくなっていく。剣を握ることすら出来なくなったときに出会ったのが弓術だった。
「貴女と話しているとイライラする。何も知らないくせに」
グレーブラウンの髪をぐしゃりと乱す。母親似のライガーが唯一父親と似ているそれは、ルイズの息子という証でもあり、呪いでもある。
嫉妬、羨望、憎悪、諦観――絡み合い、混ざり合う感情は溶解していく訳でも風化していく訳でもなく、いつまでも汚泥のごとく奥底に留まり続ける。レオガルドなんて大嫌いだ。傲慢で横暴で粗暴で、だというのに剣の神様に最も愛されている兄が。
もしも髪が真っ黒だったら。全てがロザリナ似であったなら。母の血を多く受け継いでいるのだから仕方ないと自分に言い訳できたのだろうか。いっそ令嬢として生まれていたら。才能がこれっぽっちも無ければ。兄なんて居なければ。もっと普通の家に生まれていれば。
そんな“もしも”を何度繰り返し考えてきた。無意味な現実逃避だ。痛いほど分かっている。分かっていても、逃避しなければ壊れてしまいそうだった。
「貴女には絶対に分からない。何の苦労もせずのうのうと日々を過ごしているだけの貴女に、毎日が苦しい僕の気持ちなんて!」
吐き出すだけ吐き出して、徐々に理性が戻ってくると激しい後悔に襲われる。
一体自分は何をしているんだ。どうして初めて会った少女――よりにもよって兄の婚約者に、長年溜めてきた胸の内をさらけ出してしまっているのか。
どれだけ馬が合わなくても嫌いな相手でも笑顔で適切な距離を保つ。老若男女、あらゆる世代と上手く付き合える社交術がレオガルドよりも優れているライガーの武器だった。なのに、何故こんな八つ当たりみたいな失態を。
ひた隠しにしてきた弱みを見せてしまった動揺と焦りから、シュゼットに背を向ける。これ以上余計な口を叩かないように。
「……数々の失礼な発言を謝罪します。もう出ていってください」
「ライガー様」
「お願いします。どうか帰ってください」
「……」
椅子から立ち上がる気配を感じながら、視線を足元に落とすとほつれかけの薄汚れた訓練靴が目に入る。そろそろ新しいものを買わないと、なんて現実逃避にも似たことを考える。
どうせ2人きりになる機会など今後は訪れない。シュゼットは賢く、察しもいい少女だ。ライガーの本心を吹聴するような心配もおそらくないだろう。この部屋から彼女が出ていき、お互いに今回のことは忘れる。そうだ、それでいい。
だというのに銀髪の少女は思いも寄らない行動を取る。